第33話

『神様、どうかお願いです。

 私に、翼をください。

 大切な人を守るために、立ち上がり飛び立つための翼を』



 ただ自由に動くことが許されない。それはとても苦しい。

 ここまで数千キロを毎日毎日走り続けていた日々から、急にそこへ放り込まれればなおさら。


 丈夫さだけが売りの古ぼけた金属パイプでできたベッドに半身を起こし。前を向く。そこにはギプスで固められた左脚、もちろん俺の。厳密にはギプスではなく3Dプリンターで印刷された樹脂らしいけれど、違いはよくわからない。

 右手も同じように固められ、肘から先を動かせないように固定されている。

 気が付けばこの状態だった……、ならまだ少しマシだったのかもしれない。けれど、現実は物語のように都合良く場面を飛ばしてはくれないものらしい。この状態に落ち着くまで、いくつかの意味で血の気が引くような思いをすることになった。


 サラといっしょに高台から転落した次の記憶は、強烈な痛みから始まる。あまりにも痛くて、無意識に身を捩って、そうしたらもっと痛みが増すという、控えめに言ってかなり苦しい状況。

 曲がりなりにも冷静に現状を認識できるまで、多少の時間がかかった。

 まず、場所。自分がいるのが平地ではなく坂にせり出した尖った岩の上らしいということにやっと気が付く。どうやら俺は車道の横から転げ落ちたらしいということに思い至った。そうなると、次に気になるのは、

「サラ!」

 記憶をたどる限りすぐ近くにいなければおかしい。なのに、どこを見渡しても彼女の姿はなく、呼びかけに答える声もない。ただずっと、強い風が下から吹き上げている。落車が起きたあのときと変わらないまま……。

 もしもここにいないなら、最悪もっと下まで転げ落ちている可能性もある。このときばかりは自分の体の痛みも忘れて下を見下ろしたけれど、すぐわかる場所にそれらしい影もない。

 ここでやっと自分をとりまく状況に気が付く。体を動かすたびに、痛みといっしょにガサガサ音がするのだ。原因は全身を覆う銀色のフィルム、いつか使ったエマージェンシーシートだった。なぜ、という単純な疑問といっしょにぶり返す脂汗が出るほどの痛み。

 恐る恐るシートをどけて体を見ると、右袖に黒ずんだ何かが巻き付けてある。

「なんだこれ」

 と頭を疑問符で一杯にしながらよく観察すると、

「タオル、か?」

 どうやらいつも旅の途中で使っていたタオルのよう。ならこの黒ずみは……。

 恐る恐る左手で触れた時点で予感はあった。しっとりとした感覚とどこかで嗅いだような臭い。左手の指先についた色は赤身を帯びた黒。認めなくてはいけない、これは血だ。

 めまいがしそうな現状にずきりと痛んだ側頭部にそのまま左手を向け、そこにも何か布が巻いてあることを知る。ここまで来れば多少は予測もつく。さっきから俺を苦しめている痛みは、体の各所に怪我があって、そこからきているらしい。なんとか冷静であろうと周囲を見渡せば、近くに場違いに一本生えた細い木。根元にはいつも俺が被っている自転車用のヘルメットとサラのバッグがある。俺たちといっしょに転げ落ちてきたのを回収して固定したのだろうか。

 応急処置をしたのはサラの可能性が高い。救急用品もタオルも、サラがバッグに入れていたものだから、こんな足場の悪い場所で処置できたなら彼女だけだろう。

 問題は、俺が今一人だということだ。

 助けを呼びにここを上った? かなり急な坂ではあるけれど、足場がないほどではない。斜めに移動すれば時間はかかるかもしれないけれど、道路の方まで戻ることはできそうだ。何度か呼びかけてみるものの返事はない。風のせいで聞こえないのか、坂の上に誰もいないのかはわからないまま。空は明るく、太陽の位置はあまり動いていないように見えるから、そんなに長い時間が流れたとも思えないけれど……。

 とそこまで考えたところでスマホの存在に気が付く。移動中はバッテリーを温存するために電源をオフにして荷物に入れていることが多いスマホだけど、国境を越える前に地図を確認するために取り出し、そのままお腹のポケットに入れた覚えがある。しっかりジッパーも閉めたはずだから落としたりはしていないはず。

 痛みの少ない左手で確認すればたしかに薄い板状のものの感触が記憶の場所にあった。

「……これは」

 引っ張り出した物の惨状に絶句する。割れた画面にひん曲がったベゼル。一縷の望みをかけて電源ボタンを長押ししてもうんともすんとも言わない。見事に壊れている。

 体に身に着けてこの坂を転げ落ちたのだから、仕方がないけれど失望感も大きい。

 日本のキャリアを介して通信すれば高額の請求があるといっても、今のような緊急事態に連絡手段があるかないかの差は大きい。八方ふさがりの現状に、いよいよ我慢できなくなってきた体の痛み。特に左脚が辛い。血こそ流れていないけれど、尋常ではない。

 患部を確認するために、壊れたスマホをポケットに戻そうとしてから、そこにまだ何かが入っていることを知る。ほとんど厚みのない一枚の紙片。

 脂汗を流しながら手にとってみると、『必ず助ける』とスペイン語で書かれている。

 薄い方眼模様の用紙は泥と血で汚れているけれど、確かに俺が送った手帳の一ページだった。

 一気に頭の靄が晴れた気がする。

 叫び出したいほどの痛みも、たった一人でいる孤独も消えてなくなったりはしないけれど、だからといって手放せないものがあることをやっと思い出せた。

 スマホがあることには当然サラだって気が付いていたのだ。声をかけても目を覚まさない俺を見て、なんとか助けを呼ぼうと同じようにポケットを調べた。

 どれだけ不安で、どれだけ孤独だったことだろう。目の前には血を流す俺。助けてくれる人はいない。荷物を回収してなんとか応急処置を施し、その上で自ら助けを呼びに向かうことを決意して坂を上ったのだ。このメモはその証。

 なら、弱音を吐くことはできない。サラが苦しいときに、呑気に気を失って心配だけをかけたのだから、ここからはもう少し恰好をつけないといけない。


 そうして、なんとか状況を打開することを目指しては見たものの、結局その場から自力で脱出することはできなかった。脚の痛みで転落せずに移動することを断念したからだ。

 失血のためかストレスのためか、気分が悪くなりめまいや痛みが波のように襲ってくる中、残された荷物で何かできないかと探っていると上から誰かの声。

 それが救急隊の人だった。

 無事に救助されて、待機していた救急車で今いる病院まで搬送された。その間にはこれまで通りの苦しみ、葛藤や焦燥はあっても特別なことは何もない。

 ただサラだけがいなかった。救急車両はおろか病院にも、どこにも。


 院内では俺はどこか腫物のように扱われている。

 最初に少し取り乱してしまったのが悪かったのだろうか。

 今思えばあのときの俺は焦っていた。怪我の痛みに抗うように、サラはどこだとまくし立ててしまった。

 救急隊員にせよ、診察した救急外来の先生にせよ、「大丈夫、助かる」をくりかえすだけで他に意味のあることを教えてくれないからイライラしてしまった。

 挙句、「血と栄養が不足している」と点滴をうたれたと思ったら、急速に到来する眠気。目を覚ましたらベッドに固定されていて今にいたる。

 顔に笑顔を貼り付け、早口で語る看護師さんによれば、寝ていた間に手術まで済ませたのだという。どう考えても普通ではない。抗議してもはぐらかされてしまったけど……。

 何か薬が入っていたとしか思えない。病室が個室なのもわざとなんだろうな……。治療費の請求がものすごいことになりそうだけれど、今のところ請求書の提示はない。せめて先に旅行保険の会社に連絡をさせて欲しいところだ。


 終わったことは仕方がないと、そう考えられるようになるまで少し時間がかかった。

 最優先の目的はサラと連絡をとること。あるいは安否の確認だけでもしたい。

 そのためには情報収集が必要なのだけれど、残念ながら俺はこの場を離れられない。加えて病室にはテレビもラジオも新聞もなく、ネットに接続できる唯一の端末だったスマホも故障したまま。枕元に転がる置物と化している。

 ここは情報化社会にあって脅威の無風地帯。また八方ふさがりだ。

 唯一外部との窓口となるのは検温や配膳をしてくれる看護師さんだけ。基本的に担当が決まっているのか初回以外はずっと同じ屈強な男性なので、彼との会話を糸口にせざるをえない。

 丹念にコミュニケーションを試みた結果、姿勢がよく寡黙で軍人のような彼は思ったより親切だということがわかっている。スペイン語会話でたまに単語に詰まる俺に、英西辞書を持ってきてくれたりしたし。自分からは話さないけれど、質問すれば答えてくれることが多い。

 それでもサラに関してはほとんど何もわかっていない。少し捻って『事故を通報した人物』にお礼をしたいと言っても、「伝えておきます」の一点張り。

 少しアプローチを変える必要があるのだという結論に至った。とにかく考える時間だけはたくさんある。

 まず第一に、彼の回答。『伝える』というからには通報者には連絡経路が保たれている。そしてかなり高い確率でそれはサラのはずだ。彼女の安全が一定以上に確保されていることを意味する。

 事故現場で救急車がやってきた正確な時間はわからないけれど、太陽は天頂からそう遠くはなかった。俺たちがあの道を走っていたのはお昼前だったから、そこまで長い時間は経過していない。転落場所は郊外で、病院からはそこそこ距離があった。

 サラが応急処置まで済ませてから助けを呼びに行ったのだと考えれば、救急隊到着までの時間はかなり短かったはず。街で人を呼んだにしては早いし、付近には民家もなかったから、途中で通行している車を呼び止めて助けを求めたのだろう。

 それからどうなる? 運転中に路上にいた少女が慌てた様子で助けを求めてくる。少女は転落事故にあったと言い、服装はそれを証明するように泥だらけ。もしかしたら破れたり、治療中に血が付いたり、……怪我をしていた可能性もある。

 発見者が善良であるならば救急車を呼んだ上で少女自身を病院に連れて行ったのかもしれない。……病院に担ぎ込まれた時点では俺とサラは近くにいた可能性もあるのか……。

 とにかく治療といっしょに身元の照会が行われる。医療機関なら当たり前のこと。保険証はないかもしれないけれど、サラはパスポートを身に着けていたから、そこからある程度は立場が保証されたはずだ。

 次に未成年の彼女は保護者について訊かれたことだろう。

 保護者足りえたのは坂の下にいた俺と、モロッコから駆けつけたお父さん。怪我人の俺はあてにならない上、関係を訪ねられても説明が難しい。一方でベルティ氏と待ち合わせをしていたホテルはこの病院からそこまで遠くはないから、タクシーか何かに乗ればあまり時間をかけずに落ち合うことができたはず。サラの手元には端末の電話番号もある。

 となれば、お父さんに助けを求めたのではないだろうか。

 現実はどうだったかわからない。あるいは俺の願望が含まれた想像とも言える。けれど、例えば警察に保護されたりだとか、そういう流れを踏んでいても、この国は因縁のあるハンガリーじゃない。かなり早い段階でお父さんと会うことはできたはず。変則的にはなってしまったものの、当初の目的は果たせたのではないだろうか。

 でも、俺の元にそういった報せはないまま。これはどういうことだろう。サラの性格なら、なんらかの連絡はしてくれていそうなものだ。

 と、すればどこかで情報が差し止められている。ベルティ氏か警察か、そういった人たちが俺との交友を断つために。

 なぜって?

 俺が危険人物だから。未成年を二ヶ月に渡って何か国も連れまわせば、近代国家なら普通は何かしらの罪状がつく。ベルティ氏はある程度正確にサラの身に起きたことを理解しているから、ただ事実を報告するだけで誰かがサラの保護に動くというのは考えられる話だ。

 ……誠に遺憾ながら、俺は窮地にあるということになる。

 幸いなのかどうかわからないが、今のところ罪を弾劾されたりはしていない。ただこうして外界と隔離されているだけ。……個室なのは気が動転した患者だからとは限らなくなってきたな。……とにかく、必ずしもサラが危険な状況にあるわけではないのだと、自分に対して言い訳はできた。だとすれば今やるべきなのは一刻も早く外部との連絡を確保することだ。

 アヤさんかベルティ氏、どちらかに電話でもかけられれば、わかることもあるだろう。

 目下のところ、目標は病室を出ることとする。院内だけでも歩き回ることができれば情報が集めやすい。そのためにどうすればいいか、看護師さんに訊いてみよう。

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