第32話
夏のコートダジュールはほとんど雨が降らない。それはスペインに入国してからも同じで、予報を見る限り一週間ずっと晴れが続くはず。経路もただユーロヴェロ8を走り続けるだけなので迷うことはないだろう。二人の旅の終わりはこれ以上ないくらいの見通しの良さだった。
翌日。モーテルをチェックアウトして早朝に走り出す。本日の宿泊はキャンプ場の予定だから、こうして時間差で出発して待ち合わせるのも恐らく最後になるだろう。
今日みたいに調子よく走れる日は午後三時くらいには移動を切り上げることが多いけれど、そこを四時すぎまで粘って七十キロほどの距離を稼いだ。これで明日はだいぶ余裕が出るはず。
それから二人で買い物。
俺たちは今、道中で購入したTシャツを着ていることが多い。化繊で出来ていて丈夫だし、すぐ乾くのが運動にも洗濯にも相性ばっちりだからだ。けれどさすがにちょっとくたびれてきたように思う。あれだけヘビーローテーションしていたのだから当たり前なのだけれど、久しぶりの父親との再会には良くない。だからサラのシャツだけでも新しい物を買おうと俺が主張したのだ。服というものはそう安くもないから、案の定反対されたけれど押し切った。
恐らく、お父さんの心中で俺の存在はほぼ誘拐犯扱いのはずなので、せめてちょっとくらい心証を良くさせて欲しい。結局二人の意見を折衷させて地元、スペインのファストファッションブランドのお店で選ぶことになってしまったけど。
買ったのは白いワンピースっぽい物。これにサラが持っているデニムのボトムを合わせれば、良く似合うと思う。清潔感もある。最初は買い物に否定的だったサラも、なんだかんだいって服を選ぶのは楽しかったらしい。シャツの入った紙袋を胸に抱えて嬉しそうだった。
夕食はカレー。前にスーパーで日本のルーを見つけたので作って見たら、なかなか好評だった一品だ。パックが半分残っていたし、日持ちする根菜を中心に作ることができる。肉だけ切り落としを購入すれば食材が揃う。肉の種類は問わない。旅をする上で食器洗いや保存には問題があるのだけれど、二人いればだいたい消費できるので、今日のうちに使い切りたかった。
もう一つ言えば、最後に『日本っぽいもの』を思い出にして欲しかったというのもある。
これまで、なんだかんだ言って調理の中心には彼女がいた。作業自体は二人でしてもレシピはサラの知っているものが多い。
食事を知ることは人を知ることだ。
なかなか話題にあげることのできない彼女のお母さんについて、多少なりとも俺が知っているのはほとんど、調理中、あるいは食事中の何気ない会話が理由だった。
まっすぐ向き合うことが辛くたって、忘れ去りたいものばかりではない。今、こうしてサラが、形だけでも「大丈夫」と言えるのは、こうした何気ない日常によるところが大きいと思うのだ。なら、俺のことだってちょっとは覚えていて欲しい。カレーにせよ、前に食べたラーメンにせよ日本食というのは違うだろう。でも多くの日本人が、俺が『当たり前に好き』な、大切な日常。わがままかもしれないけれど『あのときあんなものをいっしょに食べたな』と思い出してもらえる食事にしたかった。
俺にとって忘れられない、かけがえのない思い出は、もう十分にもらったから。
予定に変更はなく、快調にペダルを漕ぐ。一回転させれば今のギア比でだいたいタイヤが二回転半。二十六インチのホイールなら五メートルと少し。それだけゴールに近づく。地図上の距離をメートルに直して五で割れば、それがだいたい俺たち二人がペダルを回す回数だ。上り下りを考えるなら、もう少し少ないかもしれない。
叔父さんに教えてもらった『空の飛び方』。それは驚くほど単純で、けれど無限の力を秘めている。俺をヨーロッパに導いたのも、ツールで勝利を見失ったチームを最初にゴールへ連れて行ったのも、同じ力。
十八歳の若造がここまで二千五百キロメートル以上を走破した。
多くの物を失って立ち尽くしていた少女を遠い家族の元まで運んだ。
奇跡がなければ成り立たないようないくつもの事象が、実のところ、この『ペダルを回す』というどこまでもシンプルな方法で成し遂げられている。
珍しくなんてない。誰にだってできる。それが大切なのだ。
一回転で五メートル。必ず前に進む。普通の自転車にはバックギアは存在しないから、三歩進んで四歩下がるなんてことはない。繰り返せばどこにだっていける。
――だから、二人の旅の終わりはちゃんとやってくると、そう思っていた。
その先、当初の俺の目標だった旅だって、寂しいなりにちゃんと終わらせることができるのだと。
でも、忘れていた。旅というのは予期せぬことが起きるものなのだということを。
この旅の発端が、そして二人の出会いこそが、その最たる例であるにも関わらず。
風が強い。
見晴らしの良い丘の上。右手には木々も山もなく、眼下を一望できる気持ちの良い場所だ。稜線に沿うように緩やかに左にカーブしていく乾いた道路を二人で走る。今はサラが先頭。俺を引っ張るように軽快にペダルを回している。
走っていた自転車道が工事区間に入ってしまい、当初の予定と異なる車道へと誘導されたときは少し不安だったけれど、こんな景色が見られるなら悪くない。
ふと、地面が揺れた気がしてハンドルの左側に設置したバックミラーを見ると、大型の車両らしきものが半分ほど映って見えた。続いて後ろを振り向くと、木材を大量に積載したトレーラーがそこにいる。
こんな距離まで気付くこともできなかったのか。危ないな。どうやら強い風のせいでエンジン音を聞き逃していたらしい。自転車に乗るときは周囲からどんな音がしているかが意外と重要だから、こういう場所を走るときは注意しないと。
視線を進行方向に戻すと、念のためにサラとの距離を詰める。
――けれど、少し遅かった。
かなりのスピードで走っていたトレーラーは、荷物満載の俺の自転車が加速しているうちにゆうゆうと距離を詰めていた。俺たちを避けるために左寄りの車線をとっているもののカーブの遠心力に負けてこちらへ膨らんできている。……車両との距離がかなり近い……。
ここにきてやっとトレーラーに気が付いたサラはこちらを振り返って驚いた顔をした後、すぐに右側、路肩ぎりぎりまで自転車を移動した。
これなら大丈夫か。そう考えながら間近に迫った巨体を、頭を下げてやり過ごす。大きなタイヤのゴムが地面を削るロードノイズ、強力なブレーキの圧力を調整するための排気音。そして言うまでもない存在感。何もかもが大きい。
運転手が乗った牽引車両がサラのとなりを通り抜ける。続いて巨大な荷車。
圧倒的な大きさは怖いけれど、ここまでくればもう事故が起きるということもないだろう。それこそ、転倒でもしないかぎり……。
少し落ち着いて見ることができた前方には変わらずサラがいる。一見危なげないように見える。いつも通りにペダルを回し、通り過ぎるトレーラーに集中しながら前を見据え……。
後輪の上にある荷台に縛り付けられたザック。最初は毛布と着替えくらいしか入っていなかったそれが、今はだいぶ膨らんでいる。ロードノイズの振動と右側から吹く風に煽られて、縛り付ける細引きにテンションがかかりポロリと結び目を解いてしまった。押さえつける力の一部を失いバッグが不安定に揺れる。
解けた細引きは風にのって左手へ流れ、通り抜ける車両の側部に貼り付けられた金属板を止めるビスに引っかかる。……ほんの一瞬だけ。
細引きは追い抜く車両の力ですぐにとれ……、でもその影響は甚大だった。
左側に引っ張られるキャリア。蛇行する進路。トラック側はびくともせずに走り抜け、もうとなりにはいない。巻き込んだ風だけが少し遅れて俺とサラを煽る。
本当に偶然だった。
右に幅寄せしていたサラ。路肩に溜まった粗い砂。
引っ張られた細引きのせいでぎりぎり端を走っていた自転車はふらつき、巻き込まれた風はそれまで吹いていた左向きから急に右へと方向を変える。
遅れてブレーキをかけても、狭いタイヤの接地面では制動力をうまく発揮できずにスリップし、そのときいた場所は丁度ガードレールの隙間にあたる位置だった。
悪魔の悪戯を疑うほどの偶然が積み重なって、サラが投げ出されたのは道路の数メートル右側。人によって崖か坂かの判断が分かれるような危険な場所で、全てを見ていたはずの俺は現実をちゃんと認識することができていなかった。
――ただ、体だけが動いた。
重すぎて加速なんて期待できない叔父の形見の自転車を傾け、右足をつく。もつれるように、でも決定的にひっかかったりせずに自転車を降りると、前方に走る。
このときにはもうサラは、転倒した車両を路側帯に残して崖との間にある岩の上に落車。それだけでは右へと向かう力を殺しきれずに、遥か下に向かって身を投げ出し……、
そこで俺が追いついた。
引き留めるとか落ちないようにするとか上等な考えは一つもなく、ただ守らなければいけないと思い、だからこそぎりぎり腕の中に納めることに成功する。
何も考えていなかった以上、物事は進むべくして進む。
斜度を測るのもばかばかしいような坂は二人分の体重をひとところに留めるにはあまりにも
空も地面も方向も物理法則も、世界の全てが崩壊してしまったかのような異様な感覚が、このとき残った最後の記憶だ。
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