第4章 いずれまた飛び立つために
第31話
二人で並んで小さな画面を覗き込む。メールの冒頭にはいつもの簡潔な挨拶と該当人物、サラのお父さんの発見報告。いくつか断片的な情報が並び、添付ファイルには顔写真とドキュメント。ダウンロードのもどかしい時間の後に画面に表示された人物は少し日焼けした体格の良い男性。髪はサラとは似ても似つかない真っ黒。聞いていた年齢から考えればちょっと若い気がするけれど……。
「お父さんだ……」
そんな俺の疑問は、彼女の発言によって完全に霧消してしまった。
サラがそういうならば、否定のしようがない。
マルセロ・ベルティ。職業を確認して少しひっかかる。そこには『弁護士』と記載されていたから。それも国境を跨いでアフリカやヨーロッパの国で活躍している敏腕のようだ。外国人滞在者支援業務でサラのお母さんと出会い、個人的な付き合いへと発展する。どうやらハンガリーの難民支援団体に、彼女たちの関係を知っている人がいたらしい。その人物は随分前に団体職を辞していて探すのに手間取ったと。
この人は元同僚であるお母さんの事故を知って随分と不安に思っていたようだ。記者であるアヤさんの知り合いの連絡を当初は真面目にとりあってくれなかったものの、付き合いのあったサラのお父さんに関する情報は教えてくれた。二人は、法律上は内縁の関係。死亡事故の連絡が通達されないことを不憫に思ってのことだった。
ここから少し、得られた情報をもとにしたアヤさんの推測が記載されている。
まず、二人が離縁した理由。どうやらそれぞれのキャリア形成が難民支援業務を中心に乖離してしまったことが大きいらしい。職業上、身近にいる、あるいは密に連絡をとるだけでお互いに不利になる事案が存在した。サラがお父さんの情報をあまり持っていないのはこの辺りに起因するようだ。
葛藤の上での決断だったのだろう。この情報について俺が言えることはなにもない。
そのまま読み進めていて、息の詰まる部分があった。お母さんはサラの身柄をお父さんに保護してもらう計画を立てていたのではないかという推理。考えるまでもない当たり前のアイデアは、入念に時間をかけて準備をしていたことが仇になって実現していない。この事件においてかつての伴侶の職業と経験が切り札になり得ると考え、当局から隠し通すために安易に連絡がとれなかった。あるいは単純に娘と共に、なるべく事件に巻き込まない方法を模索していたのではないかという注釈がついている。
前述の事情があるから簡単なことではなかったのだろう。それでも、もしもうまくいっていればサラはもう少し苦しまなくて済んだ。いや、むしろ危険な調査なんてやめて最初から母娘で逃げてくれれば……。お父さんの職業だってそうだ。もっと早く知ることができていれば、何かしらコンタクトをとる方法があったかもしれない。
……悪いけどこのあたりについてサラに説明するのはやめておこう。アヤさんも確証に欠けると言っているし。
とにかく、様々なことが後手にまわった結果ベルティ氏の元には何も情報が伝わっていなかった。それがわかっている。つまり、すでに本人へ連絡が済んでいるということ。
今はサラのことを心配し、対話を強く希望しているそうだ。
「どこにいるの?」
「……連絡先はマドリードになってる」
職業上、首都を拠点にしているのは普通のことなのかもしれない。マドリードは国際都市として多くの国の人間が居住していることでも有名だし。
ただし、当然のことながら出張の多い職業だ。いつもこの地域にいるわけではない。そんなことを見越してメールには携帯端末の番号もメールアドレスも記載してあった。ただし……。
「連絡は必ずサラ自身が行うこと。可能な限り早期に、って」
全てを伝聞で知った。伴侶の事故死についてはニュースをたどれば確認ができても、それ以外のことが正確かどうかはわからない。立場上、娘の名前を利用した脅迫の線すらある。様々な国を行き来する弁護士という職業は想像以上に危険なようだ。
だからといって安否の確認をしないわけにはいかない。その上での判断。
少なくとも俺にベルティ氏を陥れようなんて考えがあるわけではないので従わない理由がない。早速電話をかけることにした。
室内に備え付けの電話機を外線につなぎ、受話器をサラに渡す。
俺自身は席を外すつもりだったけれど、近くにいて欲しいとサラに言われた。
考えてみればお父さんと話をする以上、お母さんの事故に向き合わないわけにはいかない。たった一人で立ち向かう勇気はまだないのだろう。
無言の室内に、受話器から流れるコール音が続く。一回、二回……、いい加減息苦しさに負けてかけ直しが頭をよぎり始めた九回目。プツッという音と共に回線が接続された。続けて流れる低い男性の声。俺の場所からは何を言っているのかまではわからないけれど、相手が誰なのかはすぐにわかった。サラの表情を見ていたから。
「……Papa」
静かな声音に万感の思いがこもっている。そう思う。
色褪せて象牙色になってしまった受話器の向こうから、断続的に感情の渦のような言葉が続いているのが聞こえる。決して怒鳴るような強さじゃない。早口というほどでもなく、けれど途切れもしない。決壊しそうなダムを無理やり抑え込んで、なお零れる水みたいに。向こう側にある感情の大きさを感じさせる。そんな一方的な通話。
目線を伏せて、ただ聞いているサラは二回だけ相槌をうった。それから「大丈夫」と一言。
恐らく彼女が一番伝えなければいけなかった言葉。電話の向こうのお父さんが
結局のところ、俺はこの言葉を守りたかったのだ。彼女が大切な誰かにたったひとつの言葉を伝えられるようにすること。それがブダペスト二日目の朝に人知れず誓った俺の願い。
また、旅の目的が一つ達成されたのだと、そう思った。
決して短くない時間、通話は続いた。通話料はあとで宿泊料に上乗せされることになるけれど、さすがにどうこういうつもりもない。ただ、多くの会話に情報としての意味はなかったと思う。サラ自身が話していた時間は短かったから。そのほとんどは後悔や無念の中に残ったお互いの大切なものの価値を確かめるための精算に必要な時間だったのだろう。
六度目の「大丈夫」を伝えてから、サラはゆっくりと受話器を置く。
その間、一度も涙を見せることはなかった。
訊きたいことはいくつもある。けれど、俺の中にすら時間をかけて整理しなければいけない形のない感慨があるのだ。一息つかなければと、お茶を淹れることにする。
いつの間にか決まっていた二人のルーティン。進む道、国境の越え方、宿をとる場所。話し合う必要があるときはお茶を飲みながら。イタリアのスーパーでやたら安く売っていたティーバッグ。あれだけ数があったのに、今はもう四回分しか残っていない。
部屋に備え付けてあったマグカップにクッカーからお茶を注ぐと同時にサラは口を開いた。
「すぐにこっちに来るって」
「……そっか」
無理もない。人知れず行方不明になっていた娘からの連絡だ。放り出せない仕事だってあるだろうけど、どうやらそれくらいの無理は当然のようにしてくれるらしい。
けれど、そんな親の愛情の証は俺たちの旅の終わりの裏返しでもある。
「でも、ちょっとだけわがままを言った」
現在、実はお父さんはスペイン国内にはいない。仕事でモロッコにいる間にサラの状況を知り、明日の朝の便でマドリードに帰る予定だったのだそうだが、そこから予定を変更してこちらに来ると。その場合経路は二つある。マドリードから東部の都市バルセロナへ飛行機で移動する。あるいは航空券を変更してモロッコの首都ラバトから直にバルセロナへ飛び、そこから俺たちのいるフィゲレスへとやってくる。どちらにせよバルセロナ経由。
だったらそこまで、今の旅を続けたい。そう伝えたのだそうだ。
言い争う、というほどではないけど、会話が難航している様子だったのはこういうことか。結局、サラのお父さんが折れることになったらしい。
ここからバルセロナまでというと、百キロちょっと。二日ほどで到着する距離。一刻も早く娘の無事を確認したい彼にとっては、再会までの期間が半日ほど延びるのは苦渋の決断だったと思われる。けれど、こちら、というよりも俺自身にだって少し時間が欲しい。
どこかで終わる二人の旅を、ちゃんと旅として終わらせたい。サラも、無駄にも思える百キロが必要だと判断してくれたことが嬉しかった。
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