第30話

 少し懐が暖かくなった俺たちはジャグリングセットを粗方処分し、二十キロほど移動した先で久しぶりの外食を楽しんでいた。

 南仏料理は日本人が考えるようなフレンチとは傾向が異なるものの、間違いなく美味い。

 一般的にはプロヴァンス料理と呼ばれるのだと思う。ニンニクやオリーブオイルが多用される点は先日までいたイタリア料理と共通する。一方で山羊や羊の肉、香りの強いチーズの風味なんかはやっぱり別の国なんだなとわかって面白い。美味しいという感覚がここまで千差万別のものなのだということを知れたのは、この旅で得た中でもかなり大きな収穫の一つと言っていいだろう。


 さて、こういった場所では食事以外にもやらなければいけない大切なことが一つある。通信、連絡である。

 日本と同じくこの手のサービスを提供する場所ではかなりの確率でWiFiを活用できるようになっているからだ。節約のために通信費を抑えたい俺たちにとってはかなりありがたい。

 ここ数日利用していたキャンプ場では当たり前ながらネットにつなぐことができなかった。高級なところならサービス提供している場合もあるのだけれど。

 久しぶりにアンテナの立ったスマホで必要な情報を確認していく。何はともあれ天気予報、そして連絡……。日本の知り合いへ生存報告代わりの簡単な近況をSNSに送信。

 受信ボックスを見ると見慣れないアドレスが一つ。アヤさんからのものだ。日付はこちらからメールを送った翌日。どうやらすぐに返信してくれていたらしい。中身はいたって簡潔で『一度通話したい』という内容。お父さんを探すことができるともできないとも書いてない。何の手立てもないならば、はっきりと断られると思うのでまったく脈がないわけではないと信じたい。

 指定された通話アプリはごくごく一般的なもので、俺のスマホにもプリインストールされている。ここを離れてしまうといつになるかわからないのでその場で連絡してみることにした。

『もしもし?』

 ほとんどコールもないまま日本語で反応があって驚く。こちらからかけたというのに急に言葉が出ず、なんとか必要な言葉を整理して話す。

「ええと、急に連絡してすみません。タイチです。ヴェネチアで会った」

『ああ、待ってた。例の件ね。今話はできる?』

「大丈夫です」

 質問する側が逆のような気がするけれど。

『簡単に言うとね、確認したかったの。この話は本当かどうかって』

「どういう意味ですか?」

『……疑ってる、とかじゃないんだけど。思ったより大きいヤマだったからね。私にとっても外国の話になるから専門でもない』

 あまり雲行きがよくない。まったく覚悟していなかったわけではないけれど、となりで真剣にこちらを見ているサラのことを考えると気分が落ち込む。

「……記事のネタとしては難しいってことですか?」

『難しいか難しくないかなら、難しいわ』

「そうですか……」

『――でもね、やるかやらないかって訊かれたら、やるって答える。最初の質問はそのためよ』

 想定外の続きに混乱する。

『どんな仕事でもそうだけど、人にできないことをやるから評価されるの。難しくても無理じゃない。難しいほどリターンも大きい』

「つまり」

『詳しいことを聞かせて。裏をとりたいから。その代わりお父さん探しには全面的に協力する。絶対見つけるとまでは言えないけど、今回の件に関しては関係者にあたるからかなり本格的に探すつもり。そのためにサラさんの情報が必要なの』

 そのまま続けられる質問は思ったよりも具体的なもので、俺一人で回答することは不可能だった。二人で確認をしながらゆっくりと答えていく。

 どうやら現時点でもすでになんらかの取材、あるいは調査が進んでいてサラの体験と辻褄が合うかどうかということが焦点のようだ。俺たちだけでは手のだしようがなかった情報も、これならわかるかもしれない。一方でサラに対してある程度配慮した上で質問を選んでいるのではないかと感じる部分もあった。

 たとえばこちらの現在地なんかはあえて確認していないのではないかと思う。俺たちにとって一番、『悪い奴ら』に知られると困ることだからだ。

『……そう。やっぱりサラさんは当事者なのね……』

 回答の擦り合わせで俺にはわからなかった何かを理解したらしいアヤさんが言う。

『この調子だと、下準備のために必要な素材は揃えられそう』

「下準備、ですか」

『汚職だからね。情報を小出しに報道してたら逃げられちゃうの。追い込める材料がどれだけ揃うのかが鍵になる。順番が大事だからその準備』

 まるで戦争か何かのようだ。……いや、たくさんの人が関わる戦いだという点で言えばまさにそうなのか。命すら落とした人がいる。

「よろしくお願いします。できる限り協力します。ただ――」

 そんな世界だからこそはっきりさせておかないとおけないことがある。

「できるだけ、サラ本人はそっとしておいて欲しいんです。こうなったら難しいかもしれないですけど、今思い出すのは辛いはずだから」

 この旅の中でサラは変わった。明るいところを見せるようになった。だいたいは元から持っていた彼女自身の姿で、ほんの少しそれを取り戻しただけかもしれないけれど。

 とにかく、あまりにも辛い境遇からやっと抜け出す糸口を見つけつつあるのだ。まだたった二ヶ月足らず。できればもう少し、せめて家族の元に戻るまではあの苦しみを思い出させたくない。

『……そうね。かなり難しい話だわ』

「でも」

『言ったでしょ。難しいほど良い仕事になる。あの子に何を訊くかはちゃんとタイチ君に相談する。これでいいかしら』

「すみません」

『謝るところじゃないわ。胸を張って。私もあなたも「自分の正義」に従っているんだから。……それに――』

 わずかな時間、言葉が途切れた。

「はい?」

 逡巡なのか、通信が途切れてしまったのかわからず問いかける。

『――結果論になるけれど国外を目指したあなたたちの選択は正しかったと思う。サラさんを守りたかったのなら、一番良い方法だった。……ううん、私がそうする。だから――、ここからは大人に任せて』

 いくらも歳なんて違わないはずなのに、悔しいけれど頼もしかった。

 家族を失った子どもと寄る辺のない旅人。俺たちはお互いを頼りにここまで走り続けてきた。それだけに、手を差し伸べてくれる人のありがたさがわかる。

『――ここまで、よく頑張ったわね』

 この言葉を、今の気持ちをサラに伝えなければいけない、必ず。けれどどうやったらいいのか検討もつかない。それほどに大きな感慨が単純な一言で胸の中に生まれる。

 不覚にも熱をもってしまった目頭を指先で撫でるように誤魔化しながら、緊張の面持ちで目前に座る女の子に、かける言葉を探すことになった。


 紺碧海岸を渡りながら、アヤさんと連絡を取り合う。捜査や取材に関する現状報告を受け、稀に確認事項として送信された質問にサラといっしょに答える。ネットと接続できる環境にたどり着くたびに少しずつではあるけれど、集まる情報があった。

 ときに進展し、ときに不発に終わる調査結果。一喜一憂する日々に緊張感が付きまとう。

 カンヌ、マルセイユ、モンペリエ……。風光明媚で有名な都市を渡る旅は本来ならもっと解放感に溢れていても良かったはずなのに、少しもったいない。巡礼者になったような気分。


 広大なフランスという国も、南部だけを切り取って見ればそこまで長い道のりということはない。コートダジュールの夏は極端に雨が少ないことで有名で、あまり休養日を挟むこともなく確実に移動距離を稼いでいく。この気候はアフリカが近いのが関係しているのかな。

 気が付けばスペインとの国境はすぐ目の前だった。


 ここで少しだけ不思議なことが起きた。キャンプのために立ち寄った小さいけれど綺麗な海岸。シーズン真っ盛りだというのに、他にほとんど人がいなかったのだ。お湯は出ないけれどしっかり真水が出るシャワーや更衣室もあるというのに管理人らしい人すらいない。もしかしたら近隣により大型の海水浴場があって、みんなそっちに行っているのかもしれない。

 水場が綺麗な場所は便利なので二日ほど滞在してゆっくりと休んだ。この時期は丁度新月だったこともあり、星がめちゃくちゃ綺麗だったのを良く覚えている。


 くねくねとつづら折りになった坂を上り、たどり着いた峠の頂上。ここが最後の国境。これまでと同じように二人で距離をとって走り、これまでと同じように問題なくスペインへ入国する。……この緊張もこれで最後だと思えば寂しくすらあった。

 国境地点はすぐ近くに海が見下ろせる絶景スポットで、ここでゆっくりできなかったのが心残りなくらいだろうか。そんな感慨に耽る余裕があるのは旅がうまくいっている証。

 少しずつ旅の終わりが近づいてくる足音を気にしながらやってきた最初のフィゲレスという街。うまく当日予約を活用して割安でチェックインしたモーテルで、いつも通りメールをチェックする。ここまでくると、アヤさんからのメール通知にも慣れていたけれど、この日ばかりは事情が違った。

「……サラ」

「なーに?」

 旅の最初から持っていた大きなバッグ。その中身を整理しながら言葉だけ返してくる。毛布と着替えくらいしか入っていなかったはずなのに、いつの間にか宿ごとに整頓が必要なほどに物が増えていた。

「お父さん、見つかったって」

「え?」

 彼女の手から何かが落ちる音がするけれど、俺の位置からは良く見えない。振り返った表情も窓の光が逆光になっていてわからなかった。

「……なんて書いてあるの?」

「これから確認するから、いっしょに見よう」

 俺の目の前にあるのは、スマホに表示されたメールの通知とタイトルだけ。まだ開封はしていない。おそらく中身は日本語で書かれているけれど、だからといって勝手に開く気にはなれなかった。

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