第29話

 四キロという距離は歩けば多少は遠いけれど、毎日何時間も自転車に乗っている俺たちにとっては散歩でしかない。試合が動くのはずっと先の話なので寄り道をしながらゆっくり歩いた。

 それでもかなり余裕のあるうちに目的の場所に着き、下見をしてから少し離れた場所にシートを敷いて陣取ることにした。周囲に思ったほど人は多くない。初夏の南仏の気候は、日本の梅雨とは無関係にさっぱりと晴れ渡っており気持ち良い。絶好のピクニック日和だ。

 時間はお昼前ということで少し早い昼食をここで済ませる。そのためにちゃんと弁当を用意してきた。あまりにも早過ぎる時間に起きたから準備の時間はたっぷりあった。

 中身は火が通って汁気の少ないもの中心。そしてタッパーの中にはなんと俵型のおむすびが入っている。スロベニアで手に入ったお米はサラに意外と好評だった。曰く、「おかずという概念を理解すれば美味しく食べられる」だそうだ。それ単体だと形容しがたい薄味というのは言われてみればその通りで、食べ合わせの概念は塩味の強いパン食とはまた異なる。

 しかし一部の味が濃い食材との組み合わせを提案すると次第に慣れ、今では食事のローテーションに含まれるところまで来ている。軽く日持ちする点はパスタと同じ。ゆで汁を捨てる必要がないことも考えると元々旅には向いた食材だしね。無洗米なので研ぐ必要もない。当然、品種によって味に違いがあるのだけれど、都市部では謎の『寿司用米』というものがそこそこ流通しており、日本人の俺には口にあった。にぎってもふっくらしていて美味しい。

 朝から飯盒炊爨して、せっせとラップにつつんでおむすびにしていたというわけです。残念ながら、海苔はサラに不評だったので今回は不採用。これまた珍しく手に入ったゆかりのふりかけとチーズや鶏肉の照り焼きを具材としたものを数種類。ただし醤油は使っていない。

 そういえばラップはイタリアでも手に入って重宝しているのだけれど、使い勝手は日本で購入できるものの方が良いように思う。見た目がそっくりでも薄さや柔軟性、吸着力が随分違うのだ。それにしたって手に入るものを使うしかないのだけれど……。

 そんな食材をバッグから取り出して広げ、お湯を沸かしてティーバッグでお茶を淹れる。なにせ常日頃からキャンプ生活なので、この手の機材は充実している。こちらで普通に手に入る品種なので紅茶だけれど、慣れてしまえばお茶はお茶。お米と合わせることに何の抵抗もなくなってしまった。サラに至っては最初から何が悪いのかわからないらしく、生活習慣というものは思った以上に根深く自分の中にあるのだということを意識させられる。


「タイチはさ、今日この道を誰が一番目に通るか当てられる?」

 お腹も満たされ、陽気に少し眠たくなっていたころにサラが訊いてきた。ツールの予想か。正直に言えば、

「わからないね」

「……優勝候補とかいないの? あとは応援している選手とか」

 俺の答えはあまり面白いものではなかったのだろう。すこし拗ねた感じで言われる。

 当然どちらもいるといえばいる。けれど、彼らがここを最初に通る可能性は低いのではないだろうか。特に後者の場合。

「世界中から集まってきた選手たちだから、誰が勝ってもおかしくないよ。UKのブックメーカーなんかだと優勝候補って言われている選手が何人かいるけど、今日は様子見するんじゃないかな」

 ツール・ド・フランスは賭博の対象として比較的ポピュラーで、海外では合法的に賭けられる場所が何か所かある。当然、票は有力チームのエース、即ち優勝候補に集中する。

 けれど近年のツールは群雄割拠。目立って活躍している選手もいるにはいるものの、みんなそれなりに倍率は高い。そんなことを説明する。

「チームには基本的に一人はエースがいる。残りのメンバーはその人のタイムが縮まるように助けるのが仕事なんだ」

「じゃあ、ここを通るのはエースの誰か?」

「そうかもしれないけど、違うかもしれない。今日は平坦な場所が多いからスプリンターが強いし」

 ロードレースの選手にはタイプがある。速度が売りのスプリンターは平地に強い。一方で全ステージ合わせて好タイムを出したいエースはオールラウンダーであることが多い。スプリンターのエースもいるにはいるけれど。

「彼らは、レース中はエースのアシストに集中するだろうけど、仲間と分割されたりすれば手があく。そうなったら攪乱や個人のキャリアのためにステージ優勝を狙って動くこともありえるね」

 とはいったものの、今日は一日目。保守的な展開になるのではというのが多くの人の考えだけれど。

「今日一日だけでも百五十キロ走るんだ。何があってもおかしくない。立場や能力で有利不利はあっても可能性だけならみんなにある。ロードレースは勝たなければいけない競技ではないけれど、勝ちたい選手はたくさんいるんだ」

 そして、だからこそ面白い。

「……好きなんだね、競技のこと」

「うん」

 この質問にだけは、自信を持って答えられる。

「じゃあさ、教えてよ。チームとか選手のことをもっと」

 任せて欲しい。話したい事も時間もたっぷりあるから。


 俺たちの前を最初に走り抜けたのは救護車両だった。

 落車事故があり、リタイアした選手がいたのだ。怪我はけして小さくなく、現場には流血の跡が残っているらしい。それでも本人はレース継続を希望したものの、骨折が確認されてドクターストップ。医療スタッフが同行して搬送された。

 最寄りの治療施設はニースの市街地。皮肉にも今日のゴールがある場所とそう離れていない。結果的に一番にこの道を通る選手になってしまった。

 後遺症の残るような怪我ではなく、適切な治療を行えば来シーズンには復帰が見込めるという識者の意見が不幸中の幸いだった。

 それにしても無念だったはずだ。選手たちが通過する時間が近づき、増えつつあった観戦客もみな沈痛そうにこの事故について話し合っている。リタイアしたのがそのチームのエースだったという事実がより一層暗い気分に拍車をかける。

 自転車レースは苛酷だ。たとえ血が流れようとも中止になったりはしない。

 そして、この日の波乱はもう一つあった。俺たちが待機していたポイントを次に通り抜けた選手が着ていたジャージが、リタイアした人物と同じだったのだ。

 その事実が観客たちの胸の内に熱いものを運ぶ。

 彼は二十三歳で、三十がピークと言われるロードレース業界では若手の部類に入る。当然アシストとしての参加だった彼がエースとどんな間柄だったかはわからない。チームは一部のメンバーをエース復活にかけて落車地点に残し、残りのメンバーを集団に同行させた。その内の一人が、少し前に単身飛び出したという情報が入った。チームからのオーダーか、独断か。

 とにかく彼はたった一人、集団を抜けて突出していた。危険なほど近寄る観客たちをものともせず、決して斜度の低くない坂を羽でも生えているかのように前だけを向いて飛び立って行った。そんな様子を茫然と眺める俺とサラ。

 すこし間を置いて追いかける集団は迫るゴールスプリントと坂道にほどけ、人数の強みを発揮できなくなっている。バラバラと駆け抜けていく選手たちを見てそう確信する。

 このポイントで観戦している人の多くはそれなりに競技が好きな人たちだから、みんなが考えていることがだいたいわかる。これはもしかしたらもしかするぞ、と。

 実際に彼の独走はゴールまで続いた。トップ選手の前には四キロなんて距離はほんとうに短い。背中を捕まえた選手はいたものの、一度も並ぶことなく第一ステージの優勝を掻っ攫う。

 若き英雄の誕生だった。


「……タイチが自転車を好きな理由、少しだけわかったかもしれない」

 興奮冷めやらぬ空気の中、市街地へ向けて歩きながらサラが言う。

「だろ」

 こんなことは、そう頻繁にあるものじゃない。だから、観客として考えれば現場で立ち会えたのは運が良かったと言えるだろう。ただし、あくまでノーマークの若手の勝利に、であって事故についてはない方がいいに決まっているけれど。

「でも……、私は怖かった。血も、怪我をした人も見ていないけど、事故があったって聞くと、それだけで……」

 それもそうだ。あの場でこの一報を聞いて不安にならなかった人はいないと思うけれど、この子だけは事情が違う。……もっと配慮するべきだった。

「……ごめん」

「ううん。タイチが謝ることじゃない」

「観戦しようって言ったのは俺だろ」

「私、今日の試合を見たのは後悔してないよ。いつも乗ってる自転車をああいう風に使う人たちがいるんだって知れて面白かったし」

 逆に気を遣われしまった……。

「ただ、タイチも始めるときにお父さんに止められたって言ってたでしょ。それもわかるなって」

 俺が競技を始めた経緯は話してあった。

 まさに言われた通り。厳しく辛く危険な世界を慎重な目で見るのは普通のこと。

 どんなスポーツでも限界ぎりぎりまで挑戦すれば普通はなんらかの危険を伴う。自転車の場合は人間の力を想定外の段階まで引き上げる『道具』を使っているという特徴がある。

 人の体には時速八十キロで走る筋力はあっても、衝撃に耐える強度がないから悲劇が起きるのだ。

「…………」

 危険な道具だろうと俺たちの旅に欠かせないのも事実なのだ。

 あんな風に全力で走るわけじゃないから大丈夫なんて気軽には言えない。

『安全運転』という、ともすれば軽視されがちな言葉は多くの後悔に後押しされているからこそありふれている。

 この旅を始めたときから当たり前に心がけていたことが本当に大切だったのだと理解できるまでには、もう少し時間がかかることになった。


 翌日の第二ステージは初日ほどの波乱はなく、それでも見ごたえのあるレース展開に観客の興奮は冷めやらない。こちらが、本来の競技により近いのだと話しながら初日同様に観戦する。

 祭りの雰囲気にだんだん慣れてきて、スター選手のインタビューを間近で見ることもできた。正直かなり嬉しい。一生ものの思い出になった。

 三日目の第三ステージでは、選手たちはこれまでのように街まで帰って来ない。スタートを見送ってしまえば、観客がその先を見ることはもうできない。熱の入ったファンたちは昨日のうちにニースを飛び出し、ゴール地点の方へ向かってしまったらしく、キャンプ場は少しだけ空きが確認できるようになっていた。そんな中で俺たちには一仕事残っている。興行である。

 祭りのあとの寂しさを埋めるように、ここ数日でかき集めたジャンクでやったジャグリングは大成功を治める結果となった。これがお祭り景気か。

 思った以上のおひねりをゲットし、街の人たちが正気に戻る前にそそくさと退散する俺たち二人は完全に悪ガキの顔をしていたと思う。でも、正直めちゃくちゃ楽しかった。

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