第28話

 ツール・ド・フランスの初日は、多くの場合プロローグと呼ばれる短距離タイムトライアルから始まる。どちらかというと肩慣らしに近いイベントなのだけれど、今年はそれが予定されていない。いきなり全長百五十キロ以上ある第一ステージが、このニースをスタート地点に行われる。しかも二日目、三日目とコースは異なるものの、すべてスタートかゴールにこの街が含まれているため中心市街は人で一杯だ。郊外のキャンプ場くらいなら空いているだろうという予測は完全に甘く、運よく前の人が撤収するタイミングに滑り込めなければ一泊もできずにスルーすることになっていたかもしれない。

 その代わりといってはなんだけれど、俺たち二人のことをいちいち見とがめるような人もおらず、みんな一様にツールのことばかり気にしている。

 サイトの立地は木の陰になっていて目立たないし、テントの出入りさえ気を付ければあまり問題にはならずにすむだろう。ここまでの旅で人目を気にして動くことにもすっかり慣れてしまった俺たちだった。


 異様な活気で目を覚ます。外は真っ暗。手探りでスマホを探して時刻を確かめると……、四時五十三分。もちろん午前だ。

 どう考えても夜明け前、人によっては深夜の範疇に入るようなこんな時間帯だというのに、ざわざわがやがやと話し声が途切れない。祭りの前なので当然のように昨晩から騒いでいた人たちはいたけれど、どうやらあれでもかなり配慮していた方だったらしい。いよいよ当日の朝になって、起床してきた人と合流することで熱気が抑えられなくなってしまった、と……。まだレースまで五時間以上あるんだけど……。なんて言いながらも、俺だって二度寝しようという気にはまったくならない。なにせ今日はグランツール初日なのだから。

 となりでサラが目をこすっている。俺の動きで起こしてしまったらしい。頭を撫でてまだ早い時間だと寝かしつけてから、自分はテントを出ることにする。

 軽く前室に置いた荷物をチェック。これだけの混雑だと当然、盗難事件なんかがありえるからな。よし、問題なし。そのままタオルを持って顔を洗いに炊事棟へ進む。

 道中の様子を一言であらわすのは難しい。

 車座になって酒を飲むオフの日のサンタクロースみたいなおじいさんの集団。巨大な鍋に食材を詰め込み、重そうに運ぶ女性はこれから調理するのだろうか。あれだけの量をいったいどう消費するのだろう。俺の腰くらいの背の少年たちが、青白赤、三色のフランス国旗を持って走り周っているのはなんというかお国柄を感じる。

 夜の続きと早すぎる朝、その二つが混ざりあい、混迷を極める空気はまさに特別な日という感じ。こればかりは現地にいなければわからないことだった。自転車に乗っているわけでもないのに、心臓がどきどきと高鳴るのを感じる。こんなことは初めてだ。

 行きと帰り、わざと別のルートを通って最大限に祭りの朝を満喫して、テントへと戻った。

 あれでもみんな、テントサイトの方ではかなり気を遣っていたんだなぁ……。


 グランツール、というかロードレースという競技が、他のスポーツ観戦と比べて大きく異なる特徴に『無料観戦できる』ということがある。なんだそんなことか、と言ってはいけない。

 他の国からトッププロが集まってくる以上、レースの開催には莫大なコストがかかるもの。野球でもサッカーでも本来は入場チケットが必要なのは当たり前なことのはずだ。

 一方で会場が街一つに収まらないロードレースという競技の特徴から入場制をとるのは不可能。

 ツール・ド・フランスの場合、代わりに費用を負担しているのは広告をうつ企業やレースを誘致した自治体となっている。そう、会場となった街は運営団体にお金を払っている。貸主が出資するという、一般的な感覚とは逆の行動が現実になるほどに、競技の注目度が高いからだ。

 夜通し観客が騒ぐのもまた経済活動。法や他の人に配慮した範囲でならば街はどんどんお金を使って欲しい。この日の為に、公金を使ってお祭りの準備をしたのだから。

 そんな主催者の心の声はサラには関係なく、無料という言葉の持つ魔力の虜になって今日は朝からご満悦。いかにローコストに今日という日を楽しむかということに執心している。

 とはいえ、今まで興味がなかった人が新しい世界にふれてくれるというのは大会の趣旨としてもしごく真っ当なものなので誰にはばかることもない。競技に対する関心の違いから俺や周囲と温度差ができないかと心配していたけれど、これなら大丈夫そう。正直、自分の好きな物について話すときに相槌をうってくれるだけでも俺は嬉しい。


 レースをどんな場所で見るかというのは観客の自由だ。一日目は初日ということで、スタートに近い場所に無理やりねじ込むように場所をとって観戦したけれど、これは初心者の楽しみ方としてはあまり良くなかった。

 人が多すぎるからだ。選手も観客も、もの凄い数が密集していて詳しくない人間には何がなんだかよくわからない。待っている間はずっと居心地がよくないのに、選手が通り抜けるのは一瞬。一度にみんないなくなるので、となりのサラにあまり詳しく説明もできない。

 それでも見たかった。世界一の大会がどんな風に始まるのか、現地の空気をどうしても知りたかった。気が付けばみんな息を潜めてスタートのサインを待ち、誰もが緊張している。最前列から聞こえるカウントダウンはあっけなく終わり、ゆっくりと波のように『もしかして始まった』という期待が広がっていく。手元の時計はたしかにスタート時間を示している。一拍遅れて人混みの間を通り抜ける選手たちを見て初めてレースの開始を確信することができた。

 少なくない数の人がラジオを持ち、イヤホンを耳にしている。どうせ始まったばかりのレースにたいした情報なんてないのだけれど、周りの人間はそれが気になって仕方がない。何か変わった反応でも示そうものなら必要以上に注目を集めることになる。それで本人は面食らいながらレース展開を説明するのだ。

 全選手が通り過ぎてしまえば当面の間この場でできることはなくなってしまう。長距離レースというものの宿命として全展開を個人が自分の目で確認することはできない。みな、思い思いの場所へゆっくりと移動していく。今日のコースは全長百五十キロと少しで周回なし。比較的平坦だけど、まだツアーが始まったばかりなので少しゆっくり目の流れになるかもしれない。それでも四時間とかからずに勝負が決することだろう。

 ゴール地点はここ、スタートとほぼ同じ場所なので変わらず居座る人たちもいる。というかかなりの人数は不動の構えだ。勝負が決する場面を見たいという気持ちはよくわかる。

 けれど、俺たちは別の場所へと移動することにした。

 ツールのコースは半年以上前に公開されている。あのころはまだ、ちゃんと現地入りできるかどうかなんてわかっていなかったけれど、それでもずっと思い描いていた。自分ならどこから観戦するか。アルプス、ピレネー、凱旋門……。当然第一ステージのニースも含まれる。

 いろいろ迷った末に出た結論は、ゴール地点前四キロほどの場所だった。

 この競技はレースである以上、最初にゴールにたどり着くことが目的だ。言い換えれば勝利に関わる最大のパラメーターはタイムということになる。

 そして展開を面白くしている要素として複数人で走る方が個人で走るよりも速くなるという点が挙げられる。これは主に空気抵抗のせいだ。勝つためには一人でゴールしなければならない。けれど、みんなといる方が早くゴールできるというジレンマ。ここにいかに折り合いをつけるかというのが勝負の決め手となる。

 長いツアーの中で序盤も序盤。無理をすれば後にたたる。勝ちにいく選手ほど無難に集団を組む中で、はやる若手や一点突破で表彰台に上りたい一部の人間はどこかで我慢できなくなる。あるいはチームからのオーダーで先行して攪乱しろと言われたり。なんにせよ、ちょっとしたアクシデントでもあれば、それを機に飛び出し単独トップを狙うことだろう。レース初日の栄えある一位には、賭けに出るだけの価値があるから。

 飛び出した者と集団、その間にはタイム差ができ、それはある点から少しずつ縮まり始める。ベテランほど効率よく動く結果、レース終盤で飛び出した者たちは集団に飲み込まれ、脚を温存していた選手の中から『強い』選手とチームがゴールを競う。よくある流れ。

 でもたまに飛び出した選手が逃げ切ることもある。彼らは彼らなりに勝機を持って戦っているし、ベテランたちも、そんな選手が全力を出せないように邪魔をする。シンプルなレースにも駆け引きがあり、結果に繋がる分岐点となるだろう場所の一つが、俺の選んだポイントだ。

 コース後半にある上り坂。否応なしに選手たちの速度は下がり、集団の風に対する強みが失われる。そうなると、集団の中でも選手に差が現れ始める。勝ちを狙える者、調子の良い者が集団を見限り、即席のチームを作るのだ。強い一つが瓦解し、混沌が生まれる。

 俺が選んだポイントをトップグループで通過できる選手は即ち今日の表彰台候補なのだ。残った集団が持ち直して逃げを捕まえる場所はここより先にはない。いいきることができるほど勝負は単純ではないけれど、このあたりは経験者の勘と言って良いかもしれない。

 先に続く下りと平坦は花道。トップに躍り出るような選手は必ず脚を残していて、ここで振り絞る。勝負の相手は視界にいる誰かで、それ以外に追いつくことも追いつかれることもない。

 今日の勝者たちのみに許される第二のスタートを見たかった。

 もっとも苦しく辛く、でも解放される。我慢ばかりが強いられる自転車競技の中で唯一全力が許される場所で、世界のトップがどう戦うのかを自分の目で確かめる。

 言ってみればこの街で果たす二つ目の目的はこれだ。

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