ナポレオンは眠らない 3




 祖父は、とにかく嫌われ者で有名だった。



 職業は「物理学教授」という、某雅治ならいよいよ人気も出そうな役所やくどころだったのだが、学生からは一向に人気がなく、嫌われるどころか爆破予告さえ食らったことがある(キャンパスにではなく名指しの個人宛なのがヤバい)という。親戚の集まりにも何かと嘘をついて欠席し、たまに顔を出した時でも、気に入らないことを言われようものなら議論をふっかけ、一見理路整然として見える屁理屈でもって相手をやり込めるのが恒例だった。


 それでじいさまは、親戚一同から陰で「たぬき親父」と呼ばれていた。


 たぶん嫉妬もあったのだろう——己の知性だけを頼りに地位を為した男に対して。でも当時、幼い私たちにはその意味がわからず、普通に可愛いニックネームか何かだと思っていた。だから本人を目の前にして堂々と「たぬきのおじいちゃん!」などと言ったりして、茶の間をツンドラ並みに凍り付かせたのも、今では良い思い出だ。

 その後も大人たちは「あんまりそういうこと言っちゃダメだからね」と言うばかりで、なぜダメなのか教えてくれず、本当の意味を知ったのはずいぶん後になってからだった。……まあ、自分たちが使っていた悪口の解説なんて、誰もしたがらなくて当然なのかもしれないが。


 とにかくそんなわけで、両親からのご機嫌取りの意味合いも込めて、私たちはじいさまを「教授」と呼ぶようになったのである。


「たぬき事件は本当やばかったね」

「それな。しかもそれ以来、家に行くたびに緑のたぬきを出してくるあたりが、あの人らしいよな」

「わかる〜。超根に持つタイプ」


 でも今にして思えば、あれは嫌味などではなく、歳の離れた孫たちとの会話の糸口に困っていただけだったのかもしれない。私は今の学校で、さらに何倍も嫌味で陰湿なひとびとにエンカウントしてきたが、彼らのうちの誰と話している時も、あんなに楽しかったことはない。


「効率のいい蓋の押さえ方とか、レクチャーしてくれたりね」

「あー、すげえ計算式書いて説明してくれるやつな。運動方程式だのラグランジュ関数だの、小学生にわかるわけねーのに」

「しかも毎回3分でまとめててヤバかったね」

「才能の無駄使いにも程があるよな」


 数式を書いているときの教授は、確かに美しかった。生気のない目に光が灯り、口元には微笑みが浮かんだ。どこにでもある凡庸なボールペンがすらすらと動き、思うさま本来の実力を発揮しているところは見ていて気持ちがよかったし、そうやって紙に書かれた式は、世界の秘密を記した楽譜みたいに思えた。

 時計を見やる。まだ1分残っている。


「ねえ兄貴、教授の口癖覚えてる?」

「ああ。『悪いことはしちゃダメですよ』だろ。自分のことを棚に上げてな」

「でもさ、それが逆に真に迫ってて笑えたよね。経験者は語る……みたいな」

「確かに。完全に前振りだったよな」


 いつもの自信たっぷりな力学解説とは違い、説得力皆無な教授の言葉に、私たちは嬉々として反論したものだ。ねえ、悪いことって何? 誰が決めるの? みんながやっててもダメなの? 


「それで、お前が聞いたんだよな。『もし誰も見てなかったら、悪いことしてもいいの?』って」

「えっ。そんなこと聞いたっけ」

「聞いてたよ。そしたら教授が言ったんだ。『僕が見てますからダメですよ』って」

「あ! 思い出した、あのときか。次に兄貴が『じゃあ教授が死んだら、してもいいの?』って聞いて——」


 幼い時分のこととはいえ、残酷な問いかけではあったと思う。


 陰口はいけません。

 建前上はそう言いながら、自分達の目の前で平然とそれをする大人たちに囲まれて育って、私たちにはちょうど「善悪の基準」というものが必要な時期だったのだ。でも、事を荒立てるのを異様に嫌い、万事を曖昧に濁すことを美徳とするこの国には、それを教えられる大人はほとんどいない。学校の先生でさえも。


 みんなバレたら嘘泣きして謝るだけ。

 本音は黒い腹の中。隣の芝はどこまでも青く、切っても荒らしても気に食わない。


 そんなドライで冷めた倫理観を、私たちはあの時、持ちつつあったのだと思う。だからあんな質問も平気で出来た。どうせちょっと怒られたあと、何事もなかったように流されるだけ。なら、別に聞いたって構わないだろうと。

 でも、その予想はあっさり覆された。


『そんなことはない。僕は君たちをずっと見てる。死んで、お星さまになっても、ずっとだからな!』


 聞いたこともないほど強い口調。

 ちょっと裏返り気味の大声。


 しかし何より不思議だったのは、説教されているのは私たちの方なのに、なぜか教授の方が傷ついた顔をしていることだった。私は心底申し訳ないと思った。だって私たちなんかの言葉で、そんなに辛そうな顔をする人がいるなんて、考えてもみなかったのだ。とても不思議で、驚きで、申し訳なくて、それでもなぜか——どこかほんのり温かい。そんな奇妙な思い出だ。


「あんな風にまで言われたらさぁ。悪いこと、できないよねえ」

「しばらく怒ってたもんなぁ」

「そうそう。分福茶釜みたいにね」


 よーし、ジャスト3分。


 私はいそいそと緑のたぬきの蓋を開ける。そして後入れすることに決めていた天ぷらを、湯気立つそばの上に、そっと浮かべた。小海老と青のりの丸いフォルムが可愛い。元気な朱色と、淡い緑。


「じゃ、お先〜」

「おー。食え食え」

「いただきます!」



 結局、教授は不整脈で亡くなった。



 別に持病があったわけでも、ましてや宿命のライバルともんどり打って滝壺に落ちたわけでもない。医者によれば、極度の疲労とストレスによる発作、ということだった。孤独は心臓にも悪いらしい。


 お葬式はされたものの、長年の悪事の報いだと言わんばかりに、周りの者は冷たかった。


 最愛の奥さんには先立たされていたから、本当に誰も泣いていないのが可哀想ではあった。もっとも実子にあたる父は、陰では泣いていたのかもしれない。知らないけど。とはいえ私と兄も、悲しくはあったが、泣かなかった。棺の中の眠ったような顔を見て、ようやく休めてよかったねと、そう思っただけだった。


「なあ、それ半分食ってやろうか? 病み上がりだし全部は食い切れんのではないのか、妹よ」

「いやー全然平気っすね〜」


 エモい回想をぶち壊す兄貴の勝手すぎる提案を、即却下する。自分が黒い豚カレーうどん(待ち時間5分)できるまで耐えられんだけじゃろがい。てか2分なら耐えて。

「あ、でも一口交換なら乗ってあげてもいいよ。やっぱりカレーも食べたいし」

「刺激物はちょっと、とか言っといてかあ? 悪い子だな、お前は」

「兄貴に言われたくなーい」


 でも、そう。私は普通に悪い子だ。拷問みたいな量の宿題だって、これからはもっと答え写すし、先生の話も聞き流す。同級生のしょーもないマウントには心の中でバーカと言ってやるし、両親の「よその子はもっと……」発言にも舌を出してやる。


 だけど、本当に悪いことは、これからもしない。


 お空のどこかで緑の星がくるくる回って、私と兄を見守っていてくれる限りは、ね。




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たぬき星の力学 名取 @sweepblack3

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