今日も帰ろう
乃木ちひろ
今日も帰ろう
「もう~、人の退勤時間とか考えないのかなぁ」
「考えるわけないよ、ていうか野島さんの勤務時間が何時までかなんて、課長知らないと思うけど」
「うそっ、そう来ましたかぁ…」
がっくりうなだれる野島さん。今月40歳になるのに、いちいちリアクションがかわいい人だ。
「この内容で契約書作ればいいんでしょ? 私やっておくよ。早く保育園にお迎え行かないと延長保育になっちゃうよ?」
「ほんとにー? すいません、すっごく助かる! 今度お礼しますから!」
言いながら薄手の上着を羽織ると、野島さんは最後まで「ありがと~前田さん! ごめんなさーい!」とにぎやかに帰っていった。これから早足で電車に飛び乗り、駅からは全力自転車ダッシュだろう。延長保育は一分遅れただけでもバッチリ料金を取られるから、退勤間際の母は分刻みで行動しなければならないのだ。
私はスマホを取り出し、LINEで『少し遅くなるから先に夕飯食べてて。チャーハンあるから』と
それから課長が「今日中に作って」と退勤間際の野島さんに指示した契約書の作成にかかる。
まだ海斗が小さい時は私もそうだった。年下の若い社員は誰も手伝おうとしてくれないし、むしろ『正社員の給料もらってんのに子供いるからって人に仕事押し付けて帰るんですか?』って圧をひしひし感じていたっけ。その時は、自称イクメンの上司が子育て中のいろんな事情もよく分かってくれていたのが救いだった。
『子供迎えに行ったってすぐ帰れないもんな。あっちに行っては石を拾ってさ、昨日も二十分の道のりを帰るのに一時間かかったよ』
『帰る途中でオシッコって言い出して、間に合わなくて玄関で漏らされたー』
『前田さんはそれを全部一人でやってるんだから、ほんとすごいと思うよ』
そんなことを言ってくれる男性、しかも上司がまさかこの世に存在するとは。稀有な男性だからか、翌年には栄転して本社へ異動してしまった。
契約書をアレンジしタイプミスがないか目視でチェック、データをグループで共有すると七時を過ぎていた。郊外の自宅まではおよそ一時間半。混みあった電車でスマホを見ると、LINEは既読になっている。返事はない。
野島さんと違って可愛げのない女だというのは自覚している。概ねそのせいで離婚に至ってしまったのは自分の責任だから、誰も手伝ってくれないことに文句は言えない。勤続年数の長い今の会社を辞めて他に行ったら同じ待遇では働けないし、自分の母親は既に他界しているから実家もあてにはできない。
保育園では毎日朝一番早くから夕方一番最後まで在園。学童保育は夏休みも冬休みも一人フル出席。小学校のPTA役員決めの時は、子供の行事以外にPTA会合のために平日昼間に休みは取れないとお断りしたら『お子さんのためなんだから休んであげて当然でしょう』と返された。我が家にとっては生活かかった死活問題なんですけど。
でも本当は海斗に申し訳ないって、ずっとずっと思ってる。
「ただいまー」
最寄り駅からのバスが遅れて、UR賃貸の団地に着いたのは八時四十五分。迎えてくれる声はない。リビングも真っ暗。
「あーもうっ! カーテンも閉めてないじゃない。ちょっと、洗濯物も出しっぱなし? たたむのは海斗の仕事でしょう!? 決めたことはちゃんとやりなさいよ!」
ドア越しに叫んでも無反応。
「朝食べた食器もそのままじゃない! 流しに持ってくくらいできるでしょう! 赤ちゃんじゃないんだから!」
ダメだ、これじゃ完全に八つ当たりだ。けれど一度燃え上がったイライラの火はちょっとやそっとじゃ消えてくれない。
「プリントが出てないし! そろそろ三者面談の時期でしょう!? 一体いつまで言われなきゃ出せないのよ!」
すると隣からドンッ! っと壁を叩く音がした。言葉で言えっての。
「ていうかお弁当必要なんて聞いてないし!? 今日学校から電話かかってきたんだけど! どうしてプリント出さないの!」
新型コロナの影響で当面の間給食は中止。お弁当を持参でお願いしているはずだが、前田君は毎日コンビニ弁当やパンなのですが、と担任からだった。
オール冷凍食品の手作り弁当は良くてコンビニ弁当の何がダメなんだという思いは無くもないが、そもそも給食無しというのが初耳だ。
「なんで言わないわけ!?」
リビングで一人、喉が痛くなるまで叫ぶ。これではいけない。ヒートアップする気持ちを鎮めようと、シャワーを浴びてしまうことにする。
分かってる。海斗がプリントを出さなかったのは、私のせいだ。朝はバスも電車も混むから七時前には家を出る私に負担をかけまいと、わざと出してこなかったんだ。
なのに海斗に当たっちゃうなんて、ほんとサイアク。
ごめんね、海斗。
幼い寝顔を見ながら何度もつぶやいた。
寒い日も雨の日も自転車で、車で送り迎えできなくてごめんね。夕飯レトルトカレーでごめんね。習い事や塾に課金できなくてごめんね。一人で待たせてごめんね。
全部私のせい。海斗はなんにも悪くないのに。他の子よりも寂しい思いをさせてごめんね。
でもそれを海斗に謝るのは私の自己満足。幼い頃から海斗は無言で一生懸命母親に合わせてくれてきたし、思春期になってやりたくもないだろうにババアの下着をたたんでくれている。
リビングに戻ると洗濯物は床に散らばったままだが、海斗が赤いきつねと緑のたぬきにお湯を注いでいた。
「え、ご飯食べてなかったの? チャーハンあったでしょ?」
「とっくに食った」
テーブルには三者面談のプリントが出されている。
「お母さんさ、朝お弁当くらい作れるよ?」
「コンビニの方がうめーし」
「高校、どうする?」
ふたをして待つ間、スマホもテレビも見ない二人きりの時間。ダイニングに向き合って、久しぶりだな。
「先生は公立ならO高がいいんじゃないかって」
「でも本当はF高がいいんでしょ、夏休みに見学いったところ」
「私立だし金かかるじゃん」
「海斗がそう言い出してもいいようにお母さん稼いできたんだから、大丈夫」
「老後のためにとっとけよ。大人になってから金出すの、オレ嫌だから」
「親なんだから子供のために働くのは当たり前でしょ」
「もうババアなんだし、無理すんなよ」
「余計なお世話ですー」
「お母さんに何かあったらオレ、一人になっちゃうじゃん」
「健康には一応気を使ってます」
「夕飯にマック買ってくるくせにありえねー」
「納豆ご飯もよく出してるでしょ」
そして今日の夕飯は栄養があるとは言えないカップ麺。しかも息子が作ってくれたもの。だから思わず言ってしまった。
「ごめんね、ご飯もまともに作ってあげられなくて」
海斗は赤いきつねを選んだので、私は緑のたぬきのふたを開ける。天ぷらのエビとお出汁の香りが顔にかかる。
「べつに、飯作ってくれるのだけが愛情と思ってねーし」
やばっ。なにそのイケメン発言。あんたほんとに私の息子?
いい音をたてて白いうどん麺をすすり、熱々のお揚げをハフハフする海斗の食べっぷりは、見ていて気持ちいい。これなら将来の彼女や奥さんもたくさん食べさせてくれるかな。
「そこだけはよく育ってくれたか」
私は海斗の赤い容器の中に、つゆを吸ってふやけた天ぷらをすくって入れてあげた。
「赤と緑を混ぜるとうまいんでしょ?」
「えっ、いいの? やったぁ!」
こんな子供っぽく喜んでくれるのはいつまでだろうか。
翌朝、朝食のトースト&目玉焼きと、特大おにぎりを三つと卵焼きに冷凍の唐揚げ弁当をテーブルに置いて、部屋のドアを開け放つ。
「早く起きなさい! お母さんもう行くから、遅刻するんじゃないよ! 食べた食器は流しにつけて、洗濯物たたんでおいてよね!」
布団の中から不機嫌な声が発せられる。
「うっせーババア」
今日も朝からイラッとして私の一日が始まった。
今日も帰ろう 乃木ちひろ @chihircenciel
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