魔女のなつやすみ。

一ノ瀬からら

第1話 アルミの蝶と魔女のナツ

 魔法使いは、道端に棄てられた空き缶に手を伸ばした。

 見る見るうちに空き缶は小さくなり、プルタブを包んで、どく、どく、と脈動する。


 やがてそれは、大きく羽を広げた蝶になった。


 アルミの蝶は羽ばたき、街の高台にあるピーコックブルーの建物へ向けて夏空を不安定に飛んでいく。強い日差しに反射して、烏避けみたいな煌めきが私の目を眩ませた。

 プールか海帰りだろう小学生たちがそらに浮く小さな光を見てUFOだと騒いでいた。なるほど宇宙的に綺麗な光景だ、なんて私は思った。


「あの蝶は、どこへ向かっているんですか?」


 ひとしきり見送ってからその場を去ろうとしていた魔法使いに私は話しかけた。

 魔法使いといっても、エスニック系の柄の、インドサリーみたいな派手なローブを纏った若い女性だった。

 フードから日向に出た形のいい鼻をピクリと動かし、彼女はこちらに向き直った。

 影になった目元に見える彼女の瞳は、青と赤の光が混在した、まるで『ベキリーブルー・ガーネット』宝石のような瞳をしていた。私は彼女の瞳が好きになってしまいそうだと思った。


「見ての通り、あの子が向かうのは緑の壁よ」


 魔女は風鈴のような静かで爽やかな声色で私に教えてくれる。じりじりと音を立てそうな陽射しの強さも、首元を伝う汗の感覚も、一瞬、忘れてしまいそうになるほど涼し気だった。


「素敵なストローハットね。白い雲のようで、貴女のスカイブルーの髪の毛によく映えるわ」


「えっ、あ、私、ですか? ありがと、ございますっ!」


 突然褒められて驚いて、素っ頓狂な声を上げてしまう。

 しかし、変だなと思った。私の髪は栗色で、帽子は普通の麦わら帽子なのに。

 そんな疑問に首を傾げる私を見て、彼女はクスクスと品良く笑った。


「緑の壁には、何があるのでしょうか?」


「あら。貴女知らないのね」


「昨日引っ越して来たばっかりなのです」


「そう。なら憶えておいて。あの建物は焼却場よ」


「え……それじゃさっきの蝶は……」


 最後まで言葉にせずとも、女性は頷いた。それからアルミ蝶があの場所に向かうのは寿命の終わりを教えたからなんだと教えてくれた。


「貴女もそうでしょう? 終わりを知ったからこの街に来た」


 魔女の言葉は確かに的を射ていた。私は人生をドロップアウトしたからこの街に来たんだ。



 私は毎日、仕事仕事と、過労で2度も倒れたのにまだ働いていた。灰色の日々だった。

 出勤のための満員電車と終電間際の駅のホームを毎日見ていた私には、周りの人々が形の違う人形にしか見えなくなっていた。


『ゴミのない美しい海に面した穏やかなベッドタウン』――そんな終電の車内で目に入ったのが、その広告だった。


 お金だけは無駄に余っていたので、終焉を迎えられそうな閑散として寂し気な青空の広告に飛びついたのだ。

 一ヵ月前だろうが半年前だろうが退職を認めてくれない会社から逃げるために退職代行を使って、上限いっぱいまで余った有給も使い果たして私はこの街に来た――。



「気に入ったかしら? この街は」


 魔女が隣に来て、改めて私を見つめる。ゆずのような柑橘系の匂いがふわりと香って、少しだけ頬が紅潮した。


「建物がみんな白くて、でも市役所は黄色とか、郵便局は赤とか。そういう場所だけカラフルで分かりやすくて。一度行ってみたかったギリシャのサントリーニ島みたいでとても素敵です」


「そう……よかったわ」


 よかった、と言いながら。魔女の顔が一瞬、かげったように見えた。


「魔女さんは、こちらは長いのですか?」


「魔女、と呼ばれるのは正しくて好きじゃないの」


「ごめんなさい……! じゃあ、どう呼びましょう?」


「貴女が付けていいわよ。どんな名前を付けてくれるのか楽しみだわ」


 名前を付けるなんて大役を担いたくはなかったけど、魔女の楽し気な口元にほだされて、私も彼女の名前を考えてしまう。


「ナツってどうでしょう? あなたといると、まるで夏休みに戻ったみたいに」


「いいわね、それ。じゃあ私はナツ。貴女はソラ」


「ソラ……?」


「空色の髪をしているから。ほら、見て」


「え? あっ!」


 仕事でずっと縛り付けられて傷んだ髪の毛先が、ナツのいう空色に染まり始めていた。傷みもなくなって、ボサボサの枝毛もすっかり艶めいた芯のある髪になっている。


「これも魔女……ナツさんがしてくれたんですか?」


「いえ、これは街の力よ。貴女が空の心を持っているから、空色になるの。気に入った?」


「空……はい、とっても綺麗です」


 栗毛と水色のグラデーションになった髪の毛は、波打ち際の砂浜を思わせた。

 耳を澄ませば聞こえる本物の波の音が、胸を高鳴らせる。


「ふふっ、今すぐにでも走り出したいって顔をしているわね」


 昼の温かい風が吹くのにすっかり童心に返ってしまった私を見て、ナツは微笑む。私は照れながら、何度か頷いた。


「そうだ。海沿いの通りに漁場があるから。そこへ行って漁師さんのオススメの魚を貰ってきてくれないかしら。せっかく出逢ったことだし、昼食を一緒に作りましょう?」


「えっ! 嬉しいです! でも、貰う……? 買う、じゃなくて?」


「この街ではお金が必要がないのよ。ソラも家を見つけたときにほとんど全財産を払ってしまったでしょう?」


「そういえば……」


 終わりのつもりだったから、提示された金額が預金とぴったり同じだったことで勢いで契約してしまったことを思い出した。何日か分の食費だけ手元に残していた。


「でもじゃあ、どうやって街の維持費を……」


「お金の話はおしまい。のんびりしすぎるとお夕飯になっちゃうわよ?」


「あっ!」


「ふふ。私の家は向こうの崖の上にあるの。先に行ってるけど、見ればすぐに分かると思うわ」


「はい。じゃあ、いってきます」


「いってらっしゃい」


 会釈して踵を返し、私は白い石畳の道を歩き出した。ナツは私が角を曲がるまで、見送ってくれていた。


 いってきますを言って、いってらっしゃいが返ってきたのはいつ以来だろう、なんて考える。


 カモメと波の音だけになった静かな街並みに心を洗われながら、私は空色の毛先を弾ませた

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