9 二番目男と魔女の祝福

 痛み止めの薬が欲しかった。

 病院からもらった薬は効いていない気がした。痛みに苦しむ姿を見るのがつらかった。

 病院は苦手だと雨野さんが言ったから、彼女は他から何とか手に入れようとした。強い痛み止めは劇薬だから、医者に処方してもらわなければならないし、一度にそんなにたくさんはもらえない。

 どこに相談してもほぼ門前払いだったが、乗ってくれたのが行方不明になった開業医だ。

 魔女を自分の好きにさせてくれたら、という条件で、彼は薬をたくさん用意してくれることになった。彼女は雨野さんのためになら何でもできると思い、その条件を飲んだ。

 彼女は雨野さんに心配をかけないよう開業医と店で会っていた。開業医はしばらくして彼女の望み通り、たくさんの痛み止めを持ってきてくれた。それがカバンいっぱいの錠剤だ。飲ませ方を聞いて、彼女は開業医の言うままになろうとした。

「でも、急に我慢できなくなって、振り払ってしまったんです。そうしたら」

 開業医はバランスを崩し、倒れた。そこは地下室の蓋の上だった。

「外れないはずの蓋が外れて、お医者様が落ちて」

 頭を打って血が噴き出していたが、開業医は生きていた。痛い、救急車を、と頼まれたが、救急車を呼んだら雨野さんまで見つかって連れて行かれるかもしれない、と彼女は怖くなった。

「だから痛み止めを飲ませました」

 たくさん飲ませればよく効くだろうと思ったのだ。手のひらいっぱいの錠剤を口に入れ、そばにあった作りかけのワインで流し込んだ。

「そうしたら死んでしまったんです。痛み止めの薬で死んでしまうなんて思わなかった。お医者様も言っていたけれど、量を守らないと怖い薬なんだと思いました。だから、それをそのまま蓮に飲ませるわけにはいかないと思って」

 幸い薬はたくさんある。彼女は適正な量を計るために試そうとしたのだ。

「町で、蓮と同じくらいの体型の男性を選んで声をかけました。私の実験を手伝ってほしくて。あなたの体を試させてほしいと言いました。お金のことはあまりわからなかったから、あまり出せないことも言いました。でもお願いした人はみんな協力してくれました」

 雨野さんに知られては叱られると思ったそうだ。むやみに知らない人に頼み事をしてはいけないと言われていたから。だから彼女は目立たないようにこっそり来てほしいと頼み、店の裏口で待ち合わせた。

「お医者さまの時、服に血がついたんです。洗い方がわからなくて、結局その服は捨てました。蓮がせっかく買ってくれた服をだめにしてしまいたくなかったから、その後は気をつけました」

 訪ねてきた男に会う時ははじめから裸で、布だけをまとって出迎えた。それなら服を汚さなくて済むから。それから、男にも服を脱いでもらって、まずは椅子に縛り付けた。

「男の人が怖くて、そうさせてもらいました。体の大きさを確かめさせてもらって、はじめだけ私に任せてもらえたら、あとはちゃんと外すと約束しました」

 その頃の彼女は雨野さんが暴れて体中に傷を負っていた。彼女の体を見て、相手も了解したのだろう。

「それで、薬を飲んでもらって、時間を計りました。はじめはうまくいかなくて、飲ませても吐いてしまったり、ちっとも寝てくれなかったり、眠ったきり起きてくれなかったり、上手にできなかったけれど、そのうちわかるようになって、蓮も落ち着いて、あなたも来てくれて」

 穏やかなひとときを思い出したのか、彼女は微笑んだ。俺はずっと泣いていた。

「包丁はテレビで見て思いつきました。これがあったら少しは怖くないかなと思って。お店のものを1本もらって、近くに隠しておきました。使ったのは、椅子に縛るのを許してくれなかった方と、薬がうまく効かなくて椅子から逃げてしまった方です。せっかくだからそちらも時間を計りました。包丁をこの辺りに、根元まで刺して3時間くらいです。ふたりとも三十分は違いませんでした」

 彼女は黒いワンピースに包まれた自分の細い腰の辺りを指差した。

「刺し方は死んでしまった人で練習しました。深く、一度に刺さないと苦しいと思ったから」

 その包丁も地下に投げ出してあった。薬もうまく効くようになり、俺が来て、もう実験も必要ないかと思ったのだという。

「蓮のためなら何でもしたかったけれど、知らない男の人とふたりでいるのが、本当に怖くて、あなたが来てくれて、もうしなくていいと思ったら本当に嬉しくて」

 腐りかけた死体の上で彼女が白く微笑む。

「そんな私のために、あなたたちは何もしてくれなくて良かったのに」

 雨野さんの心を受け取った彼女は儚いくらい美しかった。


 山田さんが署の前で待っていてくれた。

 彼女は繋いでいた俺の手を離した。呆気ないほど簡単に。

「識さん!」

 叫ぶ俺に彼女は振り向きもしなかったが、


 微笑んだのがわかった。


 魔女が大量殺人で逮捕され、新聞やテレビはひとしきり賑わったが、それも次第に収まっていった。

 しかし今日は久々に朝からその話題で持ちきりだ。魔女が移送される。衆人の前に、きっと最初で最後、姿を現す。

 俺はまだ休職していた。店にはあれ以来行っていない。雨野さんは実家の墓に葬られたそうだ。俺はアパートで寝たり起きたりをひたすら繰り返していたが、さすがに今日は出かけようと思った。

 彼女に会える最後だから。

 俺は人がごった返す後ろから、遠く彼女を思った。せめて同じところにいたかった。

 どれだけ待っただろう。騒めきが伝わってきた。

 彼女が来たのだ。

 識さん。

 俺は胸の指輪を握りしめた。

 識さん。俺は待ってる。ずっと待つ。いつまでも。あなたが死んでも、俺が死んでも、だから、俺と。

 突然人垣が崩れはじめた。悲鳴があがり、機材の倒れる音がする。俺は驚いて前を見た。

 魔女が微笑んでいる。

 俺まで真っ直ぐに、人も何も払い飛ばして、魔女はそこだけ切り離されたかのように静かに歩く。話に聞いた当代一の魔女の魔法だ。

 魔女は蒼い眼を輝かせて蛇のようにのたうつ白い髪をなびかせ、警官を何人も引きずり目の前の人間を全て吹っ飛ばして俺のもとまで歩みを進め、


 俺の手を求め絡みついてきた彼女の左手には指輪があった。初めて見る、おそらく俺の胸の指輪と対のもの。

 彼女は俺に囁いた。

「あの人の次に好きよ」

 白い美しい顔が近づく。

「でもあなたのことは忘れます。あなたも、私のことは、忘れて」

 それは嘘だった。

 嘘をついた彼女は限りなく美しく優しく微笑み、



 俺にキスをした。



 俺の魔女の話はこれで終わりだ。

 生放送で全国、いや全世界にあのキスの映像が流れた俺の今の渾名は、魔女殺しのアリスだ。いつものことだが、俺は何も殺しちゃいない。

 殺されたようなのはこっちだ。絡めた指の感触が、あの姿、俺を見つめてくれたあの瞳が、もう俺を離さない。祝福と言うより呪いだ。何て優しい、甘い、囚われざるを得ない呪い。彼女以外のことなんて考えられない。

 けれど約束だ。俺は彼女を忘れないことを誰にも言わない。彼女が俺を忘れないでいてくれることも言わない。俺が生涯、心から側にいてほしいと願った人が彼女であることを、墓場まで持って行く。

 魔女のキスには色々な意味があるが、俺が受けたのは祝福なのだという。魔女の祝福は魔法を弾き呪いを退け、まあとにかくすごいらしい。

 あれだけのことがあっても俺は首にならかなかった。ひとえに魔女の祝福のおかげだ。祝福を受けた公僕の姿が全世界に放送されたのだ、各国の今も対処に苦労している魔女係からの問い合わせが絶えず、俺はこの度魔女の本場ドイツとトランシルバニアに派遣されることになった。もちろん在職のまま、この国のたったふたりの魔女係の代表として。

 そのための2日の研修の中で覚えたダンケシェンとグーテンタークをひっさげ、俺はこの発着場にいる。

 魔女の祝福はその魔女の存在と引き換えだ。祝福を与えられた方は破格の恵みを得るが、その分与えた方は全ての魔法を失い、人としての力すら無くしてしまうのだそうだ。

 それを思うと俺は悲しくなる。山田さんが魔女はもう言葉も無くしていると言っていた。毎日静かに座って、死刑を待っていると。

 でも俺は彼女と別れは済ませた。彼女は全てを俺にくれた。俺は彼女の分も生きて、雨野さんと彼女に山よりたくさん冥土のみやげを持って行ってやる。

「今度帰ってきたら、またおでん奢ってください」

「よせやい、俺ゃその頃には定年してらあ。お前が俺に奢るんだよ」

 山田さんが顔をくしゃくしゃにして笑った。俺も笑った。


 手荷物検査で眉をひそめられた巨大な燕のぬいぐるみを抱き、俺は出国ゲートをくぐった。

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二番目男の祝福 澁澤 初飴 @azbora

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