8 嘘と真実
真っ直ぐ行こうかとも思ったが、もう急ぐ気もしなくて、俺はアパートに寄り少し身支度を整えてから店に向かった。
この道を通るのはあれ以来だ。静かで、いつもと変わりない。不思議なくらいだ。
店にはまだ休業の張り紙がそのままだった。これももう外さないと。店の主はもういない。俺はそのまま回り込んで奥の自宅の玄関に向かった。
玄関もいつもと変わりなかった。しかしそれこそ家が生きているか死んでいるかくらい、何かが違った。家人を失った家は今、ひどく悲しんで途方に暮れ、うずくまっているようだった。人の気配がまるでない。しんとしている。
俺は借りたままの鍵を手に逡巡し、チャイムを押した。応答はない。しばし待ち、また押す。そしてまた待ち、押すことをぽつりぽつりと繰り返すと、ようやく玄関にひっそりと人の気配が訪れた。
扉が細く開き、魔女が無言でうつむいていた。懐かしい姿に息が詰まる。
二度と来ないでほしいと言いましたが。
魔女が目も合わせず小さな声で言った。殺意は感じなかったが、取り付く島もない。俺は怯みそうになったが、首から下げた指輪を握りしめた。
「雨野さんにちゃんとお別れさせてほしくて。お参りさせてください」
魔女は少しの間考えていたが、無言で奥へ入った。俺も無言で続く。
テレビの部屋のテーブルの上に、白い布に包まれた箱と、線香立てと蝋燭だけの簡単な祭壇が投げ出したように置かれていた。初めて三人で晩ご飯を食べたテーブル。あの時はこんなことになるなんて思いもしなかった。そして何故か梅酒の瓶がひとつ置かれていた。雨野さんが楽しそうに漬けていたものだ。目に付くもの全てに雨野さんとの思い出がある。
手慰みに立てたような線香が短くなって細い煙をあげている。箱の前を空けてそっと座る魔女に深く一礼してから、俺は蝋燭に火を灯し、焼香した。手を合わせ、うつむく。
雨野さん。
言葉が出ない。何か言おうとすると、弱音ばかりになってしまいそうだ。そんな姿はもう見せられない。すぐにしっかりはできないけれど、せめて弱音は飲み込む。だから、言葉にはならないけれど、お守りの指輪にも頼るけれど、雨野さん。俺、頑張るから、どうか、安らかに眠ってほしい。
ほっと息を吐いて顔をあげる。
終わったなら、帰ってください。
魔女が立ち上がる。
「待って、少し話をさせてください」
「私は何も話すことはありません」
にべもない。いや、頑張るって今誓ったばかりだ。
「お葬式出られなくてすみませんでした」
魔女は小さな声で、いいえ、と言った。魔女も疲れているようだった。ごはんはちゃんと食べているだろうか。ひとりで眠れているだろうか。
「警察で聞きました。雨野さん、……自殺だって」
そうですね。魔女は独り言のように言う。ぼんやりと遠くを見つめる目は仄暗い。魔女と俺が近いのに遠い。俺は白い箱を見つめた。
「雨野さんから遺書をもらいました。それだけじゃなく、俺はあなたと一緒にいたい。あなたが好きです。俺と結婚してください」
魔女がさすがに大きな目をなお丸くして俺を見た。俺も自分で驚いた。思ってもいなかった。けれど、言ってしまった。もとより、否定する気もない。腹を括る。
魔女が小さく笑った。テーブルの白い箱に触れながら俺の前に座る。
「こんな時に?」
「そりゃ……そうですけど、でも結婚してください」
少々ヤケになってしまい、それじゃいけないと思って俺は座り直した。首にかけていた指輪を取り、手のひらにのせて魔女に示す。
「遺書だけじゃなくて、雨野さんに前に指輪をもらいました。それからずっと考えていました。雨野さんにも、そうするって、ちゃんと言えたら良かったんだけど」
うつむいてしまいそうになり、頭を振って自分を立て直す。顔を上げて魔女を見ると、魔女は白い箱を見つめたまま囁いた。
「この家とお店は私とあなたで相続しています。お葬式の分、いくらかを除いた他のお金などはあなたが相続しています。この人はあなたがそうするって、わかっていたのね」
「えっ」
俺は驚いた。そういえば預かったもの全然見ていなかった。俺が?
「蓮のお兄様がいらして、全て取り仕切ってくれました。その時、遺言で相続がそのようになっていることを聞きました。あなたのことを聞かれて、説明に困りましたが、私がこれから共に生きなくてはならない人だと言いました。それで、お兄さまは快く相続を諦めてくださいました」
魔女が微笑みながら、しかし何の感慨もなく平坦に語る。共に生きていく。魔女もそんな風に俺を思ってくれたのか?結婚を承諾してくれるのだろうか。
「指輪、探しました。ゆるくなってしまったから、外して保管しているのかと思っていたので。あなたが持っていたんですね」
魔女は微笑んだまま、暗い瞳のまま俺を見た。
「返してください。蓮が死んだ今、それは私のものです。そして、あなたは二度とここに来ないで」
「返しません。俺がもらいました。俺が嫌いなら好きになってもらえるようにします、だから」
食い下がる俺を一瞥もせず、魔女はふらりと立ち上がった。
「それなら、指輪はいりません。あの人は死んでしまったのだもの」
投げやりに呟き、部屋を出ようとする魔女を俺は追いかけて抱きしめた。
「待って、俺は」
「遺書、聞きました。あの人はずっとそうだった。私はあの人がいなくなったら何もいらないのに。決して後を追ったりしないでと言うから死ぬこともできない。あなたと生きろと言うからあなたと生きなければならない。あなたがいなければいいのに。だから来てほしくないのに」
魔女は一回り小さくなってしまったようだった。細い肩、もがく力が弱々しい。俺は離さなかった。
「もう来ないで。私に関わらないで。私はあの人の言ったことに逆らえない。お願い、私に関わらないで」
俺は離さなかった。
「お願い……」
俺は離さない。
魔女がくたりと俺に身を預けた。俺はそっとそれを支えて、抱きしめたまま膝をついた。
魔女が泣いている。悲しいのだ。雨野さんを失って、悲しくて、今まで泣けなくて、ひとりで立ち尽くしていた。俺がいるよ。俺も一緒にいる。一緒に悲しむよ。雨野さんみたいにはできないけれど、一緒にいるよ。一緒に泣くよ。
識さん。
長くそうしてふたりで泣いた。俺は彼女を離さなかった。彼女も俺を振りほどかなかった。
泣いたせいで熱くなった体温が、気持ちが少し収まるのと共に落ち着いてくる。少し力が入り過ぎていた気がして、俺は彼女を抱く手を少しゆるめた。その時は彼女ももう泣いてはいなくて、俺にもたれているだけだった。
これから何度もこうしてふたりで泣けたらいい。悲しむ彼女に寄り添い、俺に寄り添ってもらって、辛い時を支え合っていけたら。そうして立ち止まりながらでも前に進めたら。
俺は右手で彼女を抱きながら、左手で彼女の手を探り、握った。握り返してはくれなかったが、彼女はしばらくそのままにしてくれた。まだ、俺がいやなのかな。俺と同じように思ってはくれないだろうか。
同じ思いをしているように感じるのに、彼女はどこか遠くを見ている。その視線の先が俺と何か決定的に違っている気がする。何故なんだろう。
戸惑いはありつつも、彼女が腕の中にいる確かさは俺を安堵させた。こうしていればいい。彼女を抱いていれば。
握っていた彼女の手がするりと抜かれた。追いかけるように俺は左手を上げ、手を捕まえるのはやめて彼女の背中にまわした。すると彼女は少し強く俺を押した。俺は思わず体勢を崩さないよう体に力を込めた。彼女は再度、もう少し強く俺を押した。
俺は戸惑いながら、彼女が促すままに彼女を抱えて仰向けに倒れ込んだ。どさり、と2人分の重みが床にかかって俺の目には天井が映る。ええと。
彼女が俺の胸に手をついて半身を起こした。俺は彼女が上にいるので起きられない。どうしたらいいのかわからない。彼女のうつむき加減の顔は長い髪に半ば覆われて、表情がよく見えない。
これはあれか。それでいいのか。俺は期待してもいいのかな。
彼女がそろりと動くと、カタンと硬い音がした。何の音だ?はっとして彼女を見上げると、彼女は億劫そうな無表情で、ためらいなく俺に振り下ろした。
慌てて彼女の腕を掴んで止める。汚れた包丁が俺の目の前で危うく止まった。俺は息を飲んだ。
「あなたがいなければいいんです。死んで」
殺意は微かだった。彼女は悲しんでいた。しかし包丁は何の躊躇もなく振り下ろされようとする。
俺は咄嗟に彼女の腕を掴んだ手に力をこめた。彼女の顔が小さく苦痛に歪み、指の力が抜けて包丁が落ちる。俺はそれを弾き飛ばして、体勢を入れ替え彼女を組み敷いた。
「何で」
息が切れて、ようやくそれだけ問う。彼女は暗い目のままぼんやりしていた。
「何で!」
俺は叫んだ。答えてほしかった。何で俺はあなたの側にいちゃいけないんだ。何でそんなに拒むんだ。同じ気持ちでいるのに。あなたとなら手をとりあえる、あなたも俺と同じ気持ちなのはわかっているのに!
「わからないよ!教えてくれ、話をして」
取り乱して懇願する俺とは逆に、彼女は疲れたように静かに目を閉じた。
「話したら、今度こそ二度と来ないと約束してくれますか」
俺はためらったが、約束する、と答えた。
「嘘ね」
彼女は目を開けて薄く笑った。
彼女は体を起こし、テーブルの横に静かに座り直した。そして、ひとりごとのように、コーヒーが飲みたいわ、と呟いた。
「淹れるよ」
俺は立ち上がり、サイフォンの支度をした。弾き飛ばしたままの包丁が少し気になったが、彼女は興味を全くなくしてしまったようにそちらを見もしなかった。
湯が沸き、ロウトを設置する。コーヒーの香りが立ちのぼり、程なくして液がフラスコに戻る。
俺はカップにコーヒーを注いだ。三人分。彼女と、俺と、白い箱の前にコーヒーを置くと、彼女は微笑んだ。
「有栖はいつもそうなのね」
あの人はもう飲まないからいらないわ、なんて彼女が言うので、俺はそういうことじゃないんです、と言い返した。彼女がまた笑う。
せっかく淹れたのに、彼女はやっぱり目の前にカップを置いて手を出さない。ただ、部屋に漂う香りを楽しんでいるように見えた。目の暗さが少し和らぐ。俺は心底ほっとして嬉しく思った。
しかし、聞かなくてはいけない。
俺はさっき弾き飛ばした包丁を拾いに行った。ああ、自宅の方で雨野さんが使っていたものだ。刃がずいぶん汚れている。全体にべっとりと茶色、いや赤黒いような汚れがついて、いるが、これは。
血?
俺は危うく包丁を取り落としそうになった。
「あの日しかなかったから」
彼女がぽつりと話し出す。
「あなたも蓮もどうしても病院に行くと言うのだもの。帰れないならこの家で死ぬことができない。だから、私があの人を刺しました」
……えっ。
彼女が気怠そうにカップに手を添える。
「できるだけ生きてほしかったけれど、あなたに止められたくなかったの。あなたはどうしても明日も来ると言ったから、来ないでほしいとは言ったけれど、来ると思いました。だから、あなたの来ないうちに死ぬようにしたかった。刺してから3時間で死ぬから、あの時間になりました。死んでしまうまで、ずっと側にいるつもりだったのに」
彼女の言葉が遠い。何を言っているのかわからない。あなたが雨野さんを刺した?
「あなたに電話して来てもらって、と頼まれましたが、私はあなたが来るのがいやだった。そうしたら、電話するだけでいいから電話して、お店から、と。あとは、果実酒がどうなったか知りたいからひとつ持ってきて、と頼まれました。こんな時に離れたくはなかったのですが、あの人が何か嘘をついているのもわかりましたが、断る理由もなくて」
彼女がようやくカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。殺意も何も感じない。ただ彼女はひどく悲しんでいて、そして深く死の匂いをまとっていた。
「そのまま待っていて、とお願いしたんです。あの人は笑っていました。でも戻ってきたらそこにはいなくて」
彼女の目が深く沈む。
「嘘をついたんだわ。でもまさか家から出てしまうとは思いませんでした。この家で死にたいと言っていたのに」
彼女がなお悲しそうにうつむく。
「有栖、私も嘘がわかるのよ。私はあの人が本当に望むことを叶えたかったの。あなたたちは病院に行きたくないのに行きたいと嘘をついたわ。だから私は蓮が本当に望んだようにこの家で死なせたかった。あの人がそうしたいと言ったのだもの」
彼女は悲しんでいる。
「なのに、あの人は家で死んでくれなかった。どうして私は望みを叶えてあげられなかったのかしら。あの人は家で死にたいと言ったのに」
俺は包丁を持ったまま立ち尽くした。これは、それなら、雨野さんの血。雨野さんは彼女に刺されて、飛び降りた。何故なら、
彼女に殺させたくなかったから。彼女に犯罪を犯させたくなかったから。
ああ。
「雨野さんは、あなたに、何て言ったんですか」
彼女は少し考えて答えた。
「部屋に入れてと言ったら、始めは入れてくれなかったけれど、どうしてもと言ったら入れてくれました。それで、走ってお腹を刺して、死ぬまで一緒にいますと言ったら、困った人だねって抱きしめてくれて」
雨野さんの言葉や行動をなぞる時、彼女の声は少し震えた。
「包丁を抜いたら血がたくさん出て、これなら家で死んでもらえると思いました。包丁をくれと言われましたが、苦しんだらもう一度刺すつもりだったから、渡しませんでした。あの人は私を抱きしめたまま、私に、愛してる、本当に愛してる、幸せになってほしいと言いました。それから、渋さんに電話して呼んで、と……」
それを彼女が断り、しかしなお言われて、わざわざ自宅の電話ではなく店の電話から俺にかけたのが2時44分。彼女はそれから果実酒の瓶を地下に探しに行ったのだろう。雨野さんは時間稼ぎをしたかったのだ。
血は包丁全体についていた。この深さで刺されて、雨野さんは自分が助からないと察したのだろう。刺し傷を何とかして、その前に死ねば彼女は罪にならないと考えたのではないだろうか。自殺なら捜査も甘い。
だから、わざわざ鉄柵の上に落ち、ガラスを浴びて傷を増やした。遺書は血で張り付いてしまって、自殺とわかるまで時間がかかってしまったけれど。
「愛してると言ってくれた時は幸せでした。心からそう言ってくれたのがわかったから。そんな蓮が、まさかすぐ私に嘘をついて追い払うなんて思わなかった。私は蓮がわからない。でももう……どうでもいいんです」
彼女は悲しんでいるが、わかってはいないのだ。雨野さんの心がわからないのだ。最期まで必死に彼女を愛したのに。
「話は終わりです。あの人は外で死にました。あなたもこれ以上私に関わるなら死んでもらいます」
彼女が暗い目で俺を見た。雨野さん。あなたがそこまでしたんだから、俺だって彼女を犯罪者にする訳にはいかない。
「俺はあなたと一緒にいます。でもあなたに殺されません」
彼女は少し苛立ったように俺を見た。
「女だから大丈夫だと思いますか?私は魔女です。その包丁がなくても、あなたを殺すことなど簡単ですよ」
彼女の目が薄く蒼く光る。それは確かなのだろう。それでも、俺は死ぬわけにはいかない。そして、彼女に関わらないこともしない。
「雨野さんが望んだこと、わかりました。何故あんな風に死んでしまったのか」
彼女がぼんやりと俺を見る。
「雨野さんはあなたに殺人者になってほしくなかったんです。あなたにこの後も幸せに生きてほしかったから。俺と一緒に生きるために、犯罪者にしないために、雨野さんはああして」
「……犯罪?」
彼女は大きな目を見開いた。心底意外そうに呟く。
「私を殺人者にしないため?」
彼女は驚き、考えている。
「……それだけのために、蓮はあんな酷い死に方を選んだの?」
彼女の暗い目がますます闇を帯びて、驚いて、揺れている。
「あの人は少し指を怪我しても血を怖がっていたのよ。痛いのが苦手だった。それなのに、私を、庇うために、そんな」
白い顔が更に青ざめ、彼女はがくがく震えながら細い指で自分の頬に爪を立てた。
「そんな、それじゃあ、私があの人の願いを叶えさせなかったの?そんなこと、もう、だめなのに!」
彼女が泳ぐように走り出し、店へ向かう。俺は後を追った。
「識さん!」
店の隅で彼女は立ち止まった。ただならない様子に俺も気圧されてそのまま固まる。
店はしんとして埃っぽく、そして妙な臭いがした。
「だめなの、有栖、とっくに手遅れなの」
彼女が地下室の入り口の蓋を開ける。臭いが強くなった。
「私はもうこんなに殺しているんだもの!」
地下室にはいくつもの死体が無造作に投げ捨てられていた。
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