7 どうして
玄関を出て、俺は夜道にしばし立ち尽くした。魔女の殺意を浴びて、すぐには動けない。
……そうだ、燕のキャラクターグッズでも探しに行こうか。
真っ直ぐ帰る気にもなれなくて、俺は少し町を歩いて帰ることにした。
だいぶ歩き回ったので、俺がアパートに帰り着いたのはいつもと同じくらいの時間になった。
燕のグッズは結局ひとつも見つけられなかった。リーグで優勝して、日本シリーズが控えているというのに。
代わりに途中の牛丼屋を通りかかった時、食事中の川本さんと畑中さんを見かけた。無視するつもりだったのだが、畑中さんが騒いで川本さんを焚き付けるから、ガラス越しにケンカする羽目になった。川本さんが腹の立つ顔芸を見せてきたので、俺はち、い、さ、い、と口の動きだけでゆっくり言って見せた。川本さんは戦意を喪失した。勝ったようだ。
そのおかげとは言いたくないが、少し気分が良くなった。少し前向きになれそうだ。
今日初めて魔女に名前で呼ばれたのにな。俺はひとりの部屋にぽつんと座って考えた。魔女は俺の名前を覚えていてくれた。感激が薄れて冷めてマイナスになるほど罵倒されるとは思わなかったが。
今日初めて剥き出しの魔女を見た気がした。今日までの全てと同じくらい、今日一日で魔女をわかった気がした。そして俺自身のことも。
本当は枕じゃなくて、もっと違うものをぶつけ合ったら良かったんだ。俺も魔女も言葉に詰まり、ぶつけるものが枕になってしまった。
雨野さんがいてくれるうちにもっと魔女と話ができるようにならないと。任された責任感も少しはあるが、それより俺は魔女が好きなんだ。側にいたい。
でも今日はすれ違ってしまった。魔女は俺を殺したいとまで思った。俺がそれを感じ取ることができるのをわかって、殺意を見せた。
殺意を向けられたのは初めてだ。相手の命を蔑ろにする決意とはなんと恐ろしいのか。正直、すごく怖かった。心に触れたと思ったから余計に。これをひっくり返すことなんてできるのだろうか。雨野さんのように、いや半分でもいいから、愛してもらうことはできるのだろうか。俺が雨野さん直伝の必殺技を繰り出したら、魔女にはどれ程の効果があるのだろう。
何だか胸の指輪を握りしめるのが癖になってしまいそうだ。
それからも少し魔女と雨野さんのことをぼんやり考えた後、俺はふと燕のキャラクターグッズを通販したらと思い付いた。
球団を検索すると、あった。このくらいのがあれば、と今日探していたくらいのちょうどいいものもあったが、上の方に表示されたバカみたいに巨大なぬいぐるみが気に入った。景気付けにこれにしてしまおう。俺は1番高い巨大ぬいぐるみと、ついでに抱くのにちょうどいいくらいのお揃いのぬいぐるみを注文した。これを魔女に持たせたら、少しは寂しいのが紛れるかもしれない。
明日、もう一度魔女と話そう。諦めず、面倒がらずに、お互いに落ち着いて話そう。そうして問題を越えていけると雨野さんに見せられるように。
明日は少し早めに行こう。魔女も雨野さんに少しでも早く会いたいだろうし。
いつの間にか時間が過ぎて、だいぶ遅くなってしまった。俺は目覚まし時計を設定して、少しでも眠ろうと目を閉じた。
いくらも眠らないうちに俺は電話の音で起こされた。まだ暗い。3時半、誰だろう。
山田さんだ、と確認しつつ俺は電話に出た。
「渋澤か、今、どこだ」
え、うちです、と答えると、アパートか、と確認された。山田さんの声の後ろがひどく騒がしい。
電話越しのその喧騒の中に魔女の声が聞こえた。俺の意識は一気にはっきりした。魔女の声?悲鳴だ。遠いのに聞こえるほどの絶叫。
「落ち着いて聞け。蓮ちゃんが死んだ」
「……えっ」
「店に来い。落ち着いて、な」
電話は切れ、山田さんの声の後ろの魔女の声も途切れる。俺は電話を握って呆然とした。
どう走ったかわからない。間違いだと思った。だって、明日、いや今日、病院に行くって。
事故?病気の急変?いや、やっぱり何かの間違い。
肩で息をしながら店に辿り着くと、そこはいつもとは別の場所のように騒然としていた。
赤色灯が幾つも光っている。パトカー、そして救急車。こんな時間なのにまわりを遠巻きにする人々。その騒めき。向こうで誰かの叫ぶ声がする。俺は立ち尽くした。
「渋澤」
呼び止められて振り向いた。山田さんだ。怒ったような、泣き出しそうな顔をしていた。
「しんどいぞ。覚悟して行け」
俺はふらふらと示された方に向かった。
投光器が設置され、鑑識の制服が忙しそうに行き来している。その奥。
店の横、自宅側の細い私道沿い。小さな花壇のような場所があり、そこと道を区切った鉄柵に、
人のようなものが串刺しになっていて、それが雨野さんだった。
一目で絶命していることがわかった。
細い鉄の棒が等間隔に並ぶ柵の真上に落ちたためか、柵の高さの半ばに浮いた頭、首、胴体、手足から、等間隔に鉄の棒が突き出していた。棒はぬめるように鈍く光り、体を貫いて血に染まったことを示していた。全身が濡れたように血に塗れ、足の方のわずかな部分にだけ、見慣れた雨野さんの部屋着の色が残っていた。全体にキラキラ輝いているのはガラスか。割れたガラスが飛び散っている。よく見ると肌の露出した首や手はガラスで裂かれてズタズタだった。破片が身体中に刺さっている。
雨野さんの体は柵に刺さった衝撃のせいかぎくしゃくと歪んで見えた。左手と左足はぐしゃりと不自然に折れ曲がって地に落ち、右手は肩を貫かれているので浮いたまま固まっている。頭は首より深く突き刺さって俯いているように見えた。赤く染まった白髪混じりの髪が顔を覆い、わずかに見える口元からは、細く開いた水道のように血が流れ続けている。
鑑識がフラッシュを焚く。その度に、雨野さんに微かに残った命の名残が消えていくようだった。少しずつ体は肉になり、物になり、流れ続けていた細い血の筋も、細くなり、細くなり、途切れて、途絶えていく。
俺は声にならない悲鳴をあげた。いくら叫んでも、何の音も俺の耳には届かなかった。
どうして、誰がこんなことを。
帰宅しなければ良かった。俺が側にいたら。何でだ、雨野さん。
明日のこと、これからのこと、あんなに大切に語り合ったのに。残された時間を大事にするためにどうしたらいいか、考え合ったのに。
もう少しその時間を続けたかったのに。続くはずだったのに。
雨野さん。
強く押さえつけられ、雨野さんに伸ばした俺の手が空を切った。
「早く外してくれ、あんなの、かわいそうだ」
俺は叫び、懇願した。俺を押さえていたのは川本さんだった。
「外して、早く!」
「まだ鑑識が調べてる、お前も刑事だろ、弁えろよ」
川本さんはにやりと笑った。
「お前、とうとうやっちまったんだなあ」
泣いて、混乱して、とにかく雨野さんをいつものベッドに寝かせたかった俺は、川本さんが何を言っているのかわからなかった。
「魔女も拘束したけどよ。俺は本命はお前だと思うぜ」
ああ、魔女。魔女はどうしただろう。さっきの声、もうこの雨野さんを見てしまったのだろうか。
「魔女、魔女はどこですか」
側にいたい。支えたいし、支えてほしい。ふたりで泣きたい。こんなに急に、こんなこと。
魔女を探しに走り出そうとしたところを突き倒され、俺は地面に突っ伏した。背中にのし掛かられ、振り返ると川本さんが俺の腕を極めてにやにやしていた。
「詳しくは署で話そうぜ、渋澤有栖君」
静かな小部屋で白い壁に囲まれていると、まるで今までのことが全部嘘で、全部夢のようだ。
頭が働かない。痺れたようにじんとして、何も考えられない。
誰がが怒鳴って目の前の机を叩いているが、何も聞こえない。静かだ。夢の中のようだ。でも嘘の匂いがしない。
体が揺すられ、俺は少しだけ感覚を取り戻す。誰かが俺を揺さぶって、何か叫んでいる。俺の体はぐらぐら揺れて、机にぶつかった。
痛い。痛い?痛い。痛いって何だ。これぐらいで。どこも何ともないのに。体が歪むほど串刺しにされた訳でもないのに。
「う」
「うわ!ここで吐くな!」
俺は頭を押さえつけられ、机に吐いた。川本さんがあわてて手をどける。吐瀉物に顔を突っ込んだまま、俺は動かなかった。川本さんは舌打ちして畑中さんに片付けを命じた。
「渋澤、もう一度聞いてやるからな。お前は魔女の旦那を殺した。お前が突き落としたんだ。そうだな!」
突き落とした。雨野さんは落ちてあんなになったのか。あの上は二階の、あまり使っていなかった部屋だ。どうしてあんなところから。雨野さんは階段を昇るのも苦労するようになっていた。誰かが運び上げたのか?
運び上げて、落として、ガラスを降らせた。何故?誰が?
「女じゃ持ち上げられねえ。そこでお前の出番って訳よ。昨日一日中、ケンカしてたそうじゃねえか」
違う。それは俺と魔女だ。雨野さんはいつもと同じように、いやいつもより楽しそうに、目に焼き付けるように、俺たちの言い争いを眺めていた。
もう病院に行くから、ここには戻ってこられないから。でも、病院でまたこれが続くはずだったのに。
俺の心が溢れそうになり、頭が痛み、声が遠ざかる。また世界が静けさに覆われていく。
夢の中を行ったり来たりしているような気がした。静かな世界に沈んでしまいたい。呼び戻されるたび、俺は痛みを抱え込み、穏やかな方へ倒れ込んだ。
その時の俺を呼び戻したのは懐かしい匂いだった。背を優しく押された気がした。俺はのろのろと顔をあげた。
ああ、コーヒーだ。サイフォンのとは違うが、懐かしい日常の香り。
「渋澤、わかるか」
静かに問われて俺はうなずく。確かに雨野さんの手だと思ったのに、目の前に座っているのは山田さんだった。
山田さん、と言おうとして声が出なかった。山田さんは一気に老け込んだように見えた。深くなった皺をくしゃくしゃにして、山田さんが微笑む。
「まず、水でも飲め」
俺は言われるままコーヒーの横の紙コップを取り、水を口に含んだ。ひとくちの水が染み渡って、初めて渇きを意識する。
そのまま一気に水を飲み干し、コーヒーに手を伸ばす。署のコーヒーメーカーの使い捨てプラカップ入りのそれは、サイフォンで淹れたものとは全然違うはずなのに、やはりコーヒーに間違いなかった。
あああ、と俺は叫んだ。やっと得た水分が、すぐに涙になってしまったかのようだ。
反射でなく、悲しみが込み上げて泣くのはあれから初めてだったように感じた。俺は悲しかった。雨野さんがいなくなってしまったことがようやくわかりだした。もう会えない、声も聞けないことを理解しはじめた。わからないと拒否し続けることをやっと諦めはじめた。
雨野さんが死んだ。死んでしまった。あんな無惨な形で。何故?
靄を振り払おうと頭を振る。あんまり晴れないから俺は両手を側頭部に何度も叩きつけた。俺は何をぼんやりしているんだ。雨野さん、魔女、考えることもしなければならないことも山ほどあるのに。
「山田さん、魔女はどうしていますか」
声が出た。山田さんは少し驚き、ほっと息をついた。
「家に戻ってるよ。葬式も終わった。蓮ちゃんの兄貴が来て全部済まして行ってくれたよ」
俺はそんなに時間を無駄に過ごしてしまったのか。魔女を守ると約束したのに。
山田さんは魔女が勾留を解かれたこと、雨野さんはもう荼毘にふされたこと、あれからもう4日も経ったことを教えてくれた。俺の服は私服から灰色のスウェットに変わっていた。着替えた記憶がない。髭が伸びっぱなしだ。首から掛けていた指輪がなくなっている。取り上げられたか。俺の意識がようやく動き出す。
こんなことしていられない。
俺はしばし俯き両手で顔を覆った。頭に血を集めることをイメージする。働け。考えろ。絶対このままにはしない。
俺は猛烈に怒り始めた。この状況も、陥った自分も、全てが許せなかった。
「渋澤、お前、本当はどうなんだ」
山田さんがぼそりと尋ねる。俺はきっぱりと言った。
「殺してません」
「そうか。ならいずれ疑いは晴れるさ」
うちの会社は優秀だからな、と山田さんは泣きそうな顔で笑った。
俺が動き出したので、本格的に聴取が始まった。
と言っても俺は頑として否定するだけ、割る口もない身だ。川本さんは怒鳴るだけだし、落としのチョーさんの尋問も初めて受けたけれど、確かにやっていないとことまで白状してしまいそうにはなったけれど、やってないものはやってない。
ただ誰も俺が魔女も雨野さんもふたりとも大好きだったこと、三人でいたかったことをなかなかわかってくれなかった。そりゃそうかもしれない。俺だって自分がこうならなかったら魔女を巡ってのいざこざ、魔女と共謀しての厄介払い、そんな風に考えたかもしれない。恨みがなければあんな殺し方はできない。
しかし俺は犯人ではないのでそんなストーリーは無意味だ。こんなところで座り込んで自分の妄想を膨らませて俺に披露してる暇があるなら、犯人捕まえてこいよ川本さん!
しかし川本さんのおかげであの日のことが俺にもわかってきた。
雨野さんの死因は外傷性ショック死、死亡推定時刻は午前3時。やはり柵の傷が致命傷で、ほぼ即死だそうだ。無数のガラスの傷は多分落下時についたもので、肩や腹などにかなり深い傷もあったが、致命傷ではないだろうということだった。
あの日、午前3時頃、大きな物音がしたと店から1番近い家から通報があった。雨野さんはほぼ即死だから、犯行時間はおそらくその時間。2階の部屋からガラス窓を突き破って落とされている。
警察が現場に駆けつけたのが3時10分、魔女はその時もう雨野さんの元にいて錯乱状態だった。帰ろう、帰ろうと泣き叫びながらすがりついてみるみる雨野さんの血に染まり、その手をひく様は異様な光景だったそうだ。店から少し離れた隣家の人の話では、様子を見に来た自分たちより後、警察が到着する直前に現れたそうである。その後、応援が集まり、野次馬も増えた頃、俺がようやく到着した。
外部から侵入者があった形跡はなく、ガラスを割る勢いで男性1人を突き落とすのは女性がひとりでは難しい。だから合鍵を預かっていて男の俺が一番怪しい、となったのだ。
俺のその時間のアリバイはさすがになかったが、その前のものは珍しくたくさんあった。いつもは店から俺のアパートまで誰にも会わずに帰るのに、あの日だけ俺は町をうろついてから帰った。燕のキャラクターグッズのおかげか。川本さんは俺と牛丼屋で行きあったことを報告していなくて大目玉を食らった。その時牛丼屋にいた人たちが窓越しに争う俺たちを覚えていたらしい。そして2時、俺がアパートで燕のグッズを通信販売で注文したことも証明された。それでも時間的に犯行は不可能ではないが、だいぶ厳しくなる。
また、俺は気付かなかったが、山田さんの電話の前、2時44分に俺の電話に着信があった。番号から、店からかけられたものとわかった。目の前の人間にわざわざ電話はしないだろう。
雨野さんだったのだろうか。助けを求めたのだろうか。俺がその時気付いていたら。
「そう思われることを計算して、わざとだろう!お前がやったんだ!」
「やってない!」
いつまでも捜査に行かない川本さんに苛立ちながら怒鳴りあっていると、突然取調室の扉が開いて川本さんが呼ばれた。少し間があり、川本さんが憮然として戻ってくる。
「お前、帰っていいよ。自殺で間違いないとよ」
「じ……」
俺は絶句する。それこそありえない。雨野さんが自殺なんかするはずがない。
俺は釈放され、指輪や電話、私服も返された。呆然と署を出ようとすると、川本さんがいて不機嫌そうに俺を呼び止めた。
「遺書が出たんだよ。ガラスに血塗れで張り付いてて、やっと洗浄が終わって内容がわかったんだと。お前宛だ」
俺はその不鮮明なコピーを受け取った。コピーのざらざら黒い印刷の真ん中に白くぬけた四角、おそらくそれが原寸の小さな紙片、そこには震える文字でこう記されていた。
渋さん
識さんをよろしくお願いします
俺は腰が抜けたようにその場に崩れた。
雨野さん。どうして。
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