6 譲らない
雨野さんは落ち着いていた。発作もだいぶ減って、うまくいっていたのに。
あの日、朝、突然電話がかかってきた。見たことがない番号におそるおそる出てみると、泣き声の魔女だった。
「すぐに来て、蓮が」
急いで向かうと、魔女が泣きながら俺に飛びついてきた。雨野さんに何かあったのか。
魔女を引きずって雨野さんの部屋に入ると、雨野さんは泣き出しそうな顔で手のひらを見ていた。雨野さんの指には抜けた魔女の髪が白く長く絡みついていた。俺は言葉を失う。
俺だったんだね、識さんを怪我させていたの。
ごめんね、痛かったね、辛かったね。本当にごめん、渋さんもごめん。ごめんなさい。
雨野さんが泣くのを初めて見た。
「俺、入院しようかなあ。その方がいいみたいだ」
「だめ!」
魔女が叫んだ。雨野さんは涙を拭き、ゆっくり息を吐いて、魔女を抱きしめた。
「決めた。病院に行くよ。識さん、お見舞いにきてね」
のんびりと雨野さんが笑う。この人はまだこの顔をして笑うのか。立ち尽くす俺に雨野さんは深く頭を下げた。魔女を抱きしめたまま、頭を下げて、そして顔を上げたとき、
やはり雨野さんは笑顔だった。
雨野さんの準備は簡単だった。必要な品はほぼカバンに詰めてあり、連絡先はまとまっていた。病院に連絡したらものすごく怒られた。すぐ入院、というのをずっと放っておいたらしい。お金、通帳や権利書、遺品の整理の希望や対応する業者の電話番号。
俺の遺せるものなんてたかが知れてて、と一式を俺に預けて雨野さんは微笑んだ。魔女はあんまり言うことを聞かないから雨野さんに少しテレビを見ていて、と追い出された。
「日本シリーズは病院でかあ」
雨野さんがぽつりと言う。今年は雨野さんの贔屓の球団がめでたく久々の優勝を果たしたのだ。
「病院にテレビあるかなあ」
「ありますよ。一緒に見ましょう。なんならあの燕のキャラクターグッズ買っていきますよ」
この辺じゃあんまり売ってるところないんだよね、いいチームなのに、と雨野さんが苦笑する。
「識さんとあんまりこういう話できなくてね。あの人、勝ってほしいななんて言うと勝たせましょうかって言うんだよ。勝ってほしいけど、それはちょっと違うでしょう」
勝たせられるんですかね、と問うと、勝たせられそうだったよ、と雨野さんは真面目に言った。
「でもせっかくだし、今年は頼んでみようかな。冥土のみやげにもなるからね」
俺は返す言葉に詰まり、雨野さんはあわててこういう冗談は言われた方が対応に困るよね、ごめんね、と謝った。俺は声を出したら泣きそうなのがバレてしまいそうなので無言で首を振った。
少し会話が途切れた。
「魔女さんのこと、名前で呼んでるんですね」
ふと俺は尋ねた。雨野さんはそうだねえ、と照れくさそうに笑って、渋さんも名前で呼んであげてよ、と言った。
「悔しくないですか、俺に取られたら」
雨野さんはきょとんとして俺を見た。俺はこんなこと言うつもりはなかったのに、続けてしまった。
「こんなに大事にしてきた人を、他の奴に取られるなんて許せなくないですか。いっそ」
一緒に連れて行ってしまいたくなりませんか。言いそうになって、止まる。ならないだろう、雨野さんなら。だって彼女が幸せに生きることが何よりの望みなのだから。自分の痛みなどいくらでも耐えられる人だ。
雨野さんが困ったように微笑んでいる。俺はまた涙が出てきてしまって、何度も目を擦った。雨野さんがそっと俺の背に手を置いた。
渋さんならもう、いいよ。
入院の支度は程なくすんで、俺はタクシーの番号を調べていた。雨野さんが久しぶりに外出用の服を着て部屋を出ると、テレビを見ていたはずの魔女が飛んできた。
「だめ!行かないで、家にいて」
「どうしたの識さん、だめだよ、俺病院に行くんだから」
あまりの剣幕に、雨野さんも驚いて魔女をなだめる。魔女は引かなかった。
「病院には行かないで、家にいて!」
「家ではこれ以上は難しいんだよ」
雨野さんが懸命に諭すが魔女はきかない。
「病院に行ったら治るの?治って帰ってくるの?」
俺と雨野さんは答えに詰まった。おそらく、家を出たら、もう帰ってこられない。
「だめ、行かないで、家にいて!」
魔女は絶対に譲らなかった。俺と雨野さんは魔女の説得を試み、長くなったので雨野さんに休んでもらってからは俺ひとりで何とか頑張ったのだが、どうしてもきいてくれない。午後から入院の予定が間に合わなくなってしまった。
俺はとりあえず病院に連絡し、入院を明日からにしてもらった。くどいくらいに早くしてください、と念をおされる。俺が思っているより状況はずっと深刻なのかもしれない。雨野さんにもその旨を伝え、引き続き魔女の説得に当たる。
だが説得も何も、魔女の主張はいや、だめ、行かないで、だけだ。何ともならない。ともかくいやでだめで行ってほしくないだけだ。しかし俺もここは折れる訳にはいかない。
「何かあった時、病院だと安心でしょ」
「いや」
「俺だって必ず何でも助けられる訳じゃないんですよ」
「いや!」
いい加減にしろ。宥めたいと思っていたのに突然限界を超えしまって、俺は床を拳で殴りつけた。我慢できなくなってしまった思いを魔女に叩きつける。
「何がいやなんだよ!大体俺がいない時に何かあったらどうすんだよ!あんたじゃ助けられないだろ!」
「あなたがずっといて助けたらいいのよ!」
「そこまで言うならあんたの魔法とやらで助けろよ!すごい魔女なら、治してみせろよ!」
痛いところをついたらしい。魔女は目にたくさん涙を溜めて、寝ている雨野さんの頭の下の枕を抜き取り俺に投げてきた。雨野さんがもそもそ起き上がるのを横目に、俺は難なく枕を受け止めて投げ返す。倍の速度で戻ってきたそれを魔女は受け止められず、枕は肩に当たって落ちた。魔女は負けずにそれを掴むと、今度は枕で殴りかかってきた。俺も枕を殴り返して抵抗する。
「バカ有栖!」
「バカ魔女!」
同時に叫ぶ。
なんでわかってくれないんだ。俺だって雨野さんだってずっとこうしていられたらこうしていたいんだよ。俺はままならないイライラを、暴れる魔女にぶつける。枕はあっちにこっちに、揉まれて無茶苦茶だ。
埒があかないので俺は枕を奪い取って放り投げ、魔女の肩を掴んだ。
「雨野さんに苦しい思いさせたくないだろ!」
「させません!薬たくさん飲んでもらいます」
「今だっていっぱい飲んでるじゃないか!バケツ一杯飲ませる気かよ!どれだけ苦しませるんだよ!」
魔女が肩を振りほどいて俺の頬を叩いた。ぱちん、と小さく頬が鳴る。もう、そっちがそうくるならこうだ。俺は魔女の両側の頬をつまんで引っ張った。
「女だと思って手加減してやればあんたは」
魔女は頬を引っ張られたまま何かふにゃふにゃ言った。多分、手加減なんかいりません、みたいな可愛くないことだ。それなら、と俺が頬を引っ張る手に捻りを加えようとすると、さすがに雨野さんが仲裁に入った。
「だって」
「あっちが」
口々に主張する俺たちを、雨野さんはまあまあと宥めながら目を細めた。久しぶりに元気な見せ物を見て楽しい、という顔だ。人ごとのようにしているが、この聞き分けのない甘えん坊怪獣を作ったのは雨野さんだ。助けろよ、雨野さん。
叱って下さい、と目で訴えると雨野さんは渋さんの言うこと聞いてね、と魔女に言った。そうじゃない。俺は雨野さんのために戦ってるんだぞ。
魔女を、叱って、下さい。再度訴えると、雨野さんはようやく俺の怒りに気づいて笑顔を引っ込め、魔女に、言うこと聞きなさい、と強く言った。しかし、言ったからね、と言う顔で俺をチラ見したからまだ余裕がある。気付いてるからな。
その後魔女はすねて雨野さんにくっついていたが、疲れたのか、雨野さんのベッドにもたれると急にぱたりと眠ってしまった。雨野さんも枕を直してまた横になった。
「識さんのこんなところ初めて見たよ。渋さんと遊んでると楽しそうだな。見てて面白いね」
雨野さんが魔女の頭を撫でて言う。やっぱり面白がってた。俺の顔に気付いて雨野さんはあわてて反対側を向いた。
「必殺技を教えてあげるよ。識さんが聞き分けなかったら、抱きしめて、言うこと聞くまで離さないんだ」
雨野さんが向こうを向いたまま言う。恥ずかしいのだろう。俺がそれやってもいいんですか、と聞くと、雨野さんはやってみて、すごく効くから、本当に可愛いから、と小さく答え、そのうち眠ってしまった。
ふたりとも眠ってしまうと急に静かになる。俺は魔女に膝掛け用の小ぶりな毛布を羽織らせて、その上からそっと肩に触れてみた。そのまま手を回してみようかと思ったが、やっぱり俺がここで必殺技を出すことは憚られた。代わりに無邪気にすら見える寝顔を見ながら考える。
どうしてそんなに嫌がるのかな。雨野さんの前で言いにくいのなら、後から聞いた方がいいのかな。わかってほしいんだ。そして俺と魔女とふたりで、雨野さんをどうしたらいい形で見送れるか考えたいのに。
寝てすっきりしたら少し話も聞いてくれるようになるかと思ったが、程なくして起きた魔女は相変わらず頑なで、しかも寝たからまた元気になったらしく暴れ出した。仏心を出した俺が悪いのか。殴られて俺も手を出し、また雨野さんが仲裁に入る、それを繰り返して日が暮れた。
夜になってしまった。さすがに俺も疲れた。病室は個室だから今と同じくらい側にいられると教えても、病院の方が何かあった時にお医者さんが見てくれるから安心だと言っても、いや、だめ。子供か。
枕は1日でぼろぼろになってしまった。しかしこれを奪い取った方が枕を振るうことができるので、俺たちは手をゆるめず枕を引っ張り合う。魔女は素手でも手を出すけれど、俺は枕しか使わないことにしているんだから、譲ったらいいんだ。
枕は俺が勝った。魔女は体当たりで俺を負かそうとしてくる。危ないってば。
「バカ魔女!」
「バカ有栖!」
雨野さんが時計を見て、ため息をついた。
「渋さん、面白いけど今日はこのくらいにしよう。魔女は俺が説得するから。悪いけどまた明日よろしく」
魔女が病院はだめ!と抵抗するのを引き寄せて、雨野さんは苦笑して言った。
「大丈夫ですか」
「今日は薬多めに飲むようにするよ。明日は渋さんが来るまで魔女さんをここに入れないようにするから」
魔女は雨野さんの腕の中でまだ抵抗している。
ふたりにはふたりの説得と納得の仕方があるだろう。いつもより早かったが、俺は言われた通り帰宅することにした。
雨野さんにはやっぱりなれそうにないな、と複雑な気持ちで玄関で靴を履いていると、背中に何か軽いものが叩きつけられた。
それはものすごくたくさんの錠剤だった。たくさんありすぎてカバンに詰め込んであり、開いた口からこぼれ出た分だけでもシートで十数枚、百錠以上ある。雨野さんの痛み止めだ。
「薬ならあるの!病院は行かなくていいの、家にいるの!」
魔女だ。俺は困って魔女を見た。
「蓮が病院に行きたいって言っているのは、嘘よ。有栖もわかるでしょう」
やっぱりそうか。魔女も嘘がわかるのか。確かに雨野さんが病院の話をする時の笑顔には嘘の匂いがする。それがわかるから、だから、魔女はあんなにいやがるのか。でも。
「気持ちは嘘かもしれないけど、でも、嘘じゃないよ。雨野さんも、本当に入院した方がいいって思ってるんだよ」
魔女は小さく首を横に振った。伏せていた目を上げて、俺を見据える。
「蓮を連れて行こうとするなら、もう、二度と来ないで」
聞いたことのない、冷たい声。魔女の目が蒼く光って見える。俺ははっとした。
殺意の匂いだ。過去、殺人犯を目の前にして一度だけ知る機会があった、強烈な、間違えようもない匂い。
魔女が俺を殺したいと思っている。
そんな。目の前がくらくらした。でも間違いない、殺意は明らかで魔女は俺を見ている。
しかし雨野さんの状態は魔女が望むようにはならない。それなら少しでも雨野さんが過ごしやすい方法をとりたい。
「明日また来るよ」
俺は震える声で言った。
刹那、身を貫かれるような、……錯覚があった。
俺は魔女から目を離さないまま、自分の体を確かめた。怪我はない。しかしわかった。今のは魔女の警告だ。彼女は本気で俺を殺せることを教えたのだ。
あれだけ近くにいた魔女が、知らない人のように遠くに見える。
でも。首から下げた指輪を服の上から握りしめて、俺も魔女を強く見つめた。
病院に行くだけではすまない別れが迫っているのだ。今すぐじゃないけれど、これから本当にくる別れを彼女が超えて行けるように、俺は側にいなければならない。雨野さんを一緒に見送らなければならない。
「また、明日」
俺は精一杯の思いを込めて言ったが、魔女は冷たく繰り返した。
「二度と来ないで」
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