望郷の『赤いきつね』

佐倉伸哉

本編

 大学卒業後、俺は就職に伴って22年間過ごした大阪から東京に転居した。

 特に、地元に愛着を持っていた訳ではない。会社の方針で『新入社員は1年間、東京の本社でしっかりと研修を行う』と説明を受けても、「そんなモンか」と素直に受け止めた。むしろ、「1年間もしっかり研修を受けさせてくれるんか! 太っ腹やなぁ!」と好印象を抱いたくらいだ。

 最初の1ヶ月は、初めての社会生活で慌ただしく過ぎていった。始業時刻に遅れないよう朝はバタバタ、慣れないスーツに身を包んで研修を受けているとメンタル面を中心にヘトヘトになり、アパートの部屋に帰っても朝に出来なかった洗濯をやって、ご飯を食べてお風呂に入って色々とやっていたらもう寝る時間……平日はずっとこんな感じ。休日は昼に起きて、午後は平日に出来ない掃除や買い物に追われ。両親は仕事や家事だけでなく育児までしてくれていたのかと思うと、改めて頭が下がる思いだ。

 5月の大型連休は東京の観光名所を巡り、6月には同期のみんなと一緒に千葉の有名アミューズメント施設に遊びに行き、大阪に居た時には味わえなかった東京の楽しさを満喫した。入社から3ヶ月、だんだんと新社会人生活にも慣れてきて、生まれ育った環境との違いを楽しむ余裕も出てきた。

 それからジメジメとした梅雨に日々天気予報をチェックし、夏を迎えてイベント事でテンションが上がり、やがて暑さも徐々に収まってくると、俺の中で一つの感情が芽生え始めた。


 11月の休日。時計を見ると、11時を少し過ぎたくらい。

 俺はベッドで横になりながら猛烈な衝動に襲われていた。

(……あぁ、出汁の味が恋しい)

 東京にも慣れてきたと自分では思っていたけれど、長く故郷を離れて生活をしている内に味覚のギャップを痛感させられるようになった。

 関東の味噌汁は合わせ味噌が多いが、大阪は白味噌。うどんや蕎麦の汁は東京だと真っ黒だが、大阪は透き通った出汁の味。食事は外食や中食で済ませる事が多かったが、関東の味付けに少しうんざりし始めていたのだ。

 何気にショックだったのは、簡単に作れるカップ麺の類も関西では関西風の味付けになっていた事。東京に来てから初めて食べたカップうどんの味に衝撃を受けたのは、今でも忘れられない。

 粉ものに関しては、何とかなる。切り方や作り方など言いたい事はあるけれど、細かい違いにイチイチ目くじらを立てていても仕方ない。最終的にはソースが全てを包み込んでくれるから。

 だが、うどんや蕎麦に関しては、お店もカップ麺も関東風の味だからどうしようもない。関西風の味を食べたいなら関西に帰るしかないが、一杯の為だけに交通費を出すのは流石に躊躇ためらわれる。

 あぁ……おうどん食べたい。お揚げさんだけでいいから、あの透き通ったおうどんが食べたい……。大阪に居た頃はお昼ご飯にうどんが出てくるとガッカリしていたけど、食べられないとなるとあの時の自分に「贅沢なこと言うな!」と𠮟りつけたい気分になる。

 悶々とした気持ちでベッドでゴロゴロしていると――呼び鈴が鳴った。

「はーい、どちらさーん?」

「宅配便です」

「はいはい、今行きまーす」

 宅配便って、誰だろう。ベッドから起き上がり、髪の毛や衣服を整えてからドアを開ける。そこには宅配便のお兄さんが段ボールを抱えて待っていた。

「こちらにサインお願いします」

「はい……ご苦労さんです」

 宅配便のお兄さんに労いの言葉をかけてから、ドアを閉める。送り主は……お母ちゃん。持った感じ、軽い。中身は何やろか?

 段ボールを開けると、一番上には便箋びんせんが。

“ちゃんと食べとるか? いつでも帰ってきてえぇんやで”

 大きな文字で、勢いよく書かれた筆跡。お母ちゃんらしいなぁ、と文字を読んだだけで懐かしさを覚える。ノートの枠目に収まるように文字を書いていたら「そんな小っこい文字を書いていたらアカン! 枠に収まらんくらい大きく書かんかい!」と叱られたっけ。

 昔の事を思い出しながら便箋を畳んでテーブルにほうる。その下にあったのは……沢山の『赤いきつね』。段ボールいっぱいに詰め込まれた『赤いきつね』を見た瞬間「なんや、『赤いきつね』か……」とガッカリした。どうせ送ってくれるなら、こっちでも買える『赤いきつね』じゃなくてもいいじゃないか……と思ってしまった。

 直後、腹の音が部屋に響く。……腹減ったなぁ。

 せっかくだから、お母ちゃんが送ってきた『赤いきつね』を今日の昼ご飯にするか。

 薬缶やかんに水を入れ、コンロに置いて火にかける。自炊はしていなくても薬缶のお湯を沸かす事と米を研いで炊飯器のスイッチを押す事くらいは出来る。

 お湯が沸くまでの間に、下準備。『赤いきつね』の蓋を半分くらいまで開いて、中に入っている粉末スープの袋を取り出して、粉末スープをカップの中へ。

 お湯が沸騰したら、熱湯をカップの中へ。内側の線まで熱湯を入れたら、蓋を閉めて上に重石を乗せ、あとは5分待つだけ。あら、簡単。

 テーブルに放った手紙をもう一度開いて、実家に居た時の事を思い返していると、あっという間に4分が過ぎていた。危ない、危ない。箸を用意してテーブルにカップを持って行くと、ちょうど5分が経った。重石をどかして蓋をがす。

 ふっくらお揚げさんが中央にドーンと鎮座する、おうどん。湯気を立てているのが食欲をそそる。

「……いただきます」

 これは実家に居た頃からの習慣。『ご飯を食べる時は、作ってくれた人に“ありがとう”の想いを込めて「いただきます」は絶対に言わなアカン』とお母ちゃんにきつく言われていたが、その習慣は一人暮らしでカップ麺を食べる時も抜けない。

 まずは麺から。フーフーと冷ましてから、一気にすする。

(――ん?)

 咀嚼そしゃくしながら、直感的に何かを感じたことを自覚する。何だろうか。

 もう一度、麺を啜る。また何か、感じる。これは……何だろうか?

 一生懸命考えながら、スープに口を付ける。その瞬間――疑問に感じていた事が分かった。

(――そうだ、関西の味だ)

 お揚げさんを少しだけめくって、スープの色を確かめる。透き通った、薄い琥珀こはく色。一口啜れば、出汁の香りが広がる。……これだ、この味だ。

 関東のうどんが不味いという訳じゃない。ただ、食べ慣れていない味で少し驚いてしまうだけなのだ。自分の中のうどんは、やっぱりこれなのだ。

 大きなお揚げさんにかぶりつく。揚げの中からスープが出てくると共に、お揚げさん特有の甘さが口の中に広がる。……懐かしい。

 脇を添える玉子も、スープをたっぷり吸っていて美味しい。かまぼこも、何か入っていると嬉しい気持ちになる。さっきまで『お揚げさんだけでいい』と思っていたけど、他の具が入ってないとやっぱり寂しい。青ネギも嫌いじゃないけど、この玉子やかまぼこもいい味出している。いいじゃないか。

 懐かしさを覚えながら『赤いきつね』を無心で食べ続けていると、一気に平らげてしまった。スープも一滴残らず飲み干してしまった。

 食べ終わると、体がポカポカすると同時に、心もポカポカしてきた。懐かしいおうどんを食べれて、お腹も心も満たされた。

(……年末、大阪帰るか)

 からになった『赤いきつね』のカップをボーっと眺めていたら、そんな事をぼんやりと考えていた。5月の大型連休も、8月のお盆休みも、結局大阪に帰らなかった。……年末くらい帰らないと、お母ちゃんもやかましいからな。

 俺はスマホを手に取って、年末の新幹線の混雑状況を確認した。今のところ、空席はあるみたい。お母ちゃんへのお土産は何にしようかなと考えながら、大阪行きの新幹線の予約に取り掛かった。


(了)

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望郷の『赤いきつね』 佐倉伸哉 @fourrami

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