なに食べる?

snowdrop

うどん

 父は、うどんが好きだった。

 昼ごはんになにを食べたいか尋ねると、きまって「うどん」が候補に上がる。うどんの次がラーメンであり、ひやむぎやそうめん、蕎麦にパスタなど、麺類全般が好きだった。

 多くの麺好き愛好家とおなじように、手軽さと食感が食べたい理由だ。

 なにより、関西の出である。大阪ではうどんがポピュラーな食べ物。透き通る黄金色した汁に泳ぐもちもちの真っ白なうどんは、たしかにうまい。それはわかるし、認めよう。ゆえに、食べる側の気持ちはわかる。

 とはいえ、だ。

 作るとなると話はべつ。非常に手間を要する。

 麺を茹でるための湯をたっぷりと沸かさねばらない。麺とはべつに汁を作らなくてはならない。うどんは食感もさることながら、出汁が命だ。それに栄養バランスを考え、入れる具材も用意する必要がある。なにより、片付ける鍋の多さも問題だ。

 どんなに時間をかけて作っても、食べるのはあっという間。一瞬だ。頭では、おいしいものを作るための時間を惜しんではならないことはわかっているのだけれども、作る側としては、片付ける手間をどうしても減らしたい。

 私はきまって、「蛇と長いものが苦手」と言いながらも、渋々作っていた。作るだけでひと仕事、片付ければふた仕事である。

 だから、たまには気が乗らず、どうしても嫌に思うときもあった。

 そんなとき、我が陣営に救世主として駆けつけてくれたのが、皆様御存知のインスタントカップ麺である。

 お湯を注いで三分。あら不思議、魔法のごとくできあがるのだ。異世界転生しなくても、便利な世界に私達は暮らしているのである。

 人の叡智に感謝しつつ、恩恵を授かれることに喜びを禁じえない。 便利さとは不便利。肩代わりのなせる業。お湯だけで完成するよう、誰かの尽力があってこその、インスタントなのだ。

 子供だった私は、大きな油揚げ一枚がのったうどんが、実に神々しく見えた。カチカチに固まった木の板みたいなものが、湯の風呂に浸っただけでふやけ、あろうことか甘辛くも食べごたえがある油揚げに変貌したのだ。

 江戸時代の人間がみたら、実に面妖なといいながら、狐様に化かされているのではないかと我が目を疑うだろう。

 これが、赤いきつね、との邂逅である。

 この出会いがなければ、きつねうどんを好きになることもなかっただろう。

 とはいえ、である。

 カップ一杯だけでは栄養バランスや食事の量は足らない。正直、いなり寿司やおにぎりをつけたくなるところ。父も、物足らなさを感じていたように見受けられた。

 どんなにおいしいインスタントカップ麺でも、父が望んだ「うどん」ではなかったのだ。

「麺、出汁、油揚げ。どれが欠けてもおいしいうどんにはならない」というほど大阪人はうどんを出汁で食べる。父もまた、うまい油揚げに昆布と鰹のきいた出汁に浸る腰のある熱々のうどんを、父は食べたかったにちがいない。

 ご飯がなく、手軽さゆえのインスタントの選択である。緊急避難的処置でなければ、あえて食べようとはしなかっただろう。次回からはべつの方法を、と食べながら誓ったのを思い出す。

 以来、赤も緑も食べたことはない。

 うどんはのどごしが大事、と申していた父に従い、いまでは冷凍うどんを常備するようになった。

 蛇と長いものが苦手なのは相変わらずである。

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