赤いきつねの世界五分前仮説
秋村 和霞
赤いきつねの世界五分前仮説
「たった今、世界が始まった」
私が二つのカップ麺に湯を注ぐと、同居人が芝居がかった調子で言いだした。その言葉がまるで、狙った獲物に食らいつく肉食獣のように素早かったので私は警戒を強める。
「世界がどうしたって?」
「君は今、私が食する予定である赤いきつねと、君自身が所望した緑のたぬきへとお湯を注いだ。この瞬間、一つの世界が生まれたのだ」
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。また同居人の悪い病気だ。
「君は世界五分前仮説という思考実験を知っているだろうか。これはイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルによって提唱されたもので、世界が五分前に作られたとしてそれを証明する手立てが無いというものだ」
同居人はまくし立てる様に言う。こうなっては仕方がない。同居人が納得するまで話に付き合わなくては、
「証明する手立てが無いって、普通に五分よりも前の世界はあるでしょう? 私も貴方も、五分より前の記憶を持っているじゃない」
「それは
「そんな訳……」
私は言い返そうとして言葉に詰まる。よくよく考えてみれば、私が過去があると認識できているのは、この記憶があるからだ。その記憶が世界の始まりと同時に作られたものだったとしたら、過去というものは急に不確かな存在になってしまうのではないだろうか?
急に宇宙へ放り出されたような恐怖に駆られていると、タイマーが三分を示すアラームを鳴らす。
「ごめん、伸びるから先食べるね」
緑のたぬきはお湯を注いで三分で出来上がる。私は割りばしをパチンと割って、カップ内を軽く混ぜてから具と麺を押さえ汁だけをすする。温かな出汁の香りが、宇宙で凍える私の心を溶かしてくれた。
「では、話を続けよう。私は五分で完成する赤いきつねを選んだ。そして、お湯を注いだ瞬間に世界が始まった。つまりこのアラームが五分を示す時、完成するのは私の胃袋を満たす赤いきつねだけではない。この世界を満たす世界五分前仮説も同時に完成するのだ。しかし、未だ五分後の世界へ辿り着けていない我々は、未完成であるがゆえに完成された世界への嫉妬を禁じ得ない。まったく、隣の狸は緑に見えるとはよく言ったものだ」
同居人はぐぅと腹を鳴らした。その音でようやく同居人の言いたい事が理解できた。
「いや、それを言うなら隣の芝生は青く見えるでしょ」
「まったく、なんと致命的な欠陥なのだろうか。赤いきつねと緑のたぬきを同時に作ると、二分のタイムラグが発生してしまう。私としたことがこんな簡単な事に気づかないなんて。同時に発生した二つの世界であるにも関わらず、片方は未完成なまま取り残されてしまうのだ。ああ、私の赤いきつねよ。未だ眠り続けるお前はこの二分に何を思う。果たして、赤いきつねは緑のたぬきの夢を見るのか?」
まるで世界の終わりかのように悲壮する同居人。私はどう返答しようかと辟易しているとタイマーが鳴る。五分経ったのだ。
同居人はにやりと笑みを浮かべながら顔を上げる。感情の起伏が激しく、私は少し心配になる。
「さあ、ようやく五分後の世界に追いついた。そして、今この地点から見て五分前に世界が始まったという私の言葉を、君は否定する事はできるだろうか? いいや否定できまい。今ここに、赤いきつねと世界五分前仮説が完成したのだ」
同居人が大層な妄言を披露している間に、私は食事を終えていた。
「別に世界が五分前に始まってようが、五分後に始まろうが関係なくない? 確かに過去を担保するのは記憶しかないかもしれない。だけど、その記憶のおかげで私は過去を認識できて今に続いていると思えている。世界がいつ出来ていたとかは考えるだけ無駄で、大切なのは今を生きる事。そして、今を生きるために食べる事。ほら、麵が伸びるから早く食べた方がいいと思うよ?」
同居人は思い出したようにお腹を鳴らして、慌てた様子でカップ麺を貪り始める。結局人間にとって、哲学よりも食欲の方が大切なのかもしれない。
赤いきつねの世界五分前仮説 秋村 和霞 @nodoka_akimura
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