『赤いきつね』と母の愛情

和希

『赤いきつね』と母の愛情

 よく冷えた冬の夜。

 私は六畳一間の部屋のカーテンを開け、暗い窓の外をぼんやりと眺めていた。


 雪が降っていた。

 それは綿毛のようにふわりと舞う可愛らしいものだったけれど、東京では雪自体が珍しいのか、さっそくニュースで取り上げられていた。


「うう、寒」


 私はカーテンを閉めると部屋の中央へと引っこみ、毛布をかぶって横になった。



 雪を見ると、しぜんと故郷を思い出す。

 私が青春時代を過ごした故郷は、雪がよく降る地域だった。


 雪の日には、部屋にこもって本を読んで過ごすのが常だった。

 子供の頃は家でじっとしていられず、よく戸を開けては外に飛び出そうとしたものだ。

 けれども、強い風雪の襲いかかってくるような恐ろしさには勝てず、結局家に引っこむしかないのだった。


 そんな雪の夜、妙に食べたくなるのがカップ麺だった。

 きっと寒さに耐えきれず暖を求めたのだろうが、母が作ってくれる手料理よりもカップ麺を欲しがるほど夢中になっていたのだから、当時の私はよほど取りつかれていたらしい。


 特にお気に入りだったのが『赤いきつね』だった。


 お湯を注ぐだけでできあがる、魔法のような不思議さに引きつけられたのか。

 あるいは、鮮烈な赤いパッケージが子供心にも深く刻まれたのか。

 はたまた、うどんやお揚げの美味しさに純粋に魅了されたのか。

 とにかく、私は母に『赤いきつね』をせがんでは、よく食べさせてもらっていた。



「まったく、しょうがない子ねぇ」



 母はすっかり呆れながらも、柔らかい微笑をこぼし、カップにお湯を注いでくれた。

 そんな母の優しさが嬉しくて、私は子供ながらに、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じていた。




 ◇◆◇




 私は大学進学と共に上京し、一人暮らしをはじめた。

 慣れない都会での暮らしはけっして順調とは言えず、恋人はおろか友達さえもできず、私は人生で初めて孤独を知った。


 故郷に帰りたい。

 また母と食卓を囲んで、和やかに笑い合いたい。


 けれども、苦労して私を育て、東京の大学へと送り出してくれた母の期待を裏切るわけにはいかないと思うと、おいそれと故郷に帰るわけにもいかない。


 私は時おり『赤いきつね』を食べては孤独な夜をやり過ごした。

 そうすることで、子供の頃に感じていた母の温もりを思い出し、自分をなぐさめようとしていたのかもしれない。



 大学を卒業すると、私はそのまま東京の企業に就職した。

 精神をすり減らすような毎日だった。

 都会は、人の流れも時の流れも私には速すぎる。

 やがて燃え尽きた線香花火がぽとりと地面に落ちるように、気持ちがふつりと切れてしまうと、私は逃げるように会社を辞めてしまった。



 私にとって、六畳一間のワンルームが都会で唯一心休める場所だった。

 私はこの狭い孤城にこもり、朝となく夜となく、誰と会話するでもなく、かつて雪の日に故郷でそうしていたように、静かに本を読んで過ごしていた。



 けれども、食べていくためには働かなければならない。

 私はまだ癒えない心をわずかに奮い立たせ、最低限の生活費を稼ぐため、非正規雇用という形で働きはじめた。


 母にその事実を告げると、


「そんなことでは困ります」


 返ってきたのは厳しい声だった。

 そりゃそうだ。母がいかに私に期待していたのか、それが分かるくらいには私も大人になっていたから、ただ申し訳なさで胸が塞がる思いだった。


「早く正社員にしてもらいなさい」

「あなたのことが心配です」

「誰かいい人はいないの?」


 実家に電話をするたびに、返ってくるのは深刻な声ばかり。

 しだいに私は母と連絡を取るのも億劫おっくうになり、やがて疎遠になっていった。


 私は私なりに、今できる精いっぱいを頑張っているつもりだった。

 けれども、そんな私の努力を認めてくれる人も、凍える心に寄り添ってくれる人も、私の周りには誰もいない。

 それどころか、家族にさえも、私の気持ちは分かってもらえない。

 それが一番辛かった。



 やがて、私は苦しい胸のうちを吐き出すように小説を書きはじめた。

 苦労して書き上げ、WEBサイトに投稿しても、読者はほんの数人だけ。

 それでも、たまに思いがけない高評価を受けると嬉しくて、つい浮かれたりもした。

 いつか、小説を書くことで少しでも生計を立てられたら……。

 そんな夢物語を思い描いては、部屋の隅で背中を丸め、救いを求めるようにキーボードを叩き続けた。



 けれども、現実はそう甘くはない。

 いくらコンテストに応募しても、結局は落選ばかり。

 作品を書き上げるためにかけた膨大な時間がまるで認められず、徒労に終わっていく虚しさ。

 それはまさに、都会に来てから挫折続きだった私の人生そのものに感じられた。



 どうして私はこうも報われないのだろう?

 社会に出て自立した生活を送り、やがて温かい家庭を築いていく。

 そういう、母が望むような当たり前の生活は、今の私にはとうてい叶いそうもない。


 孤独で、みじめで、情けなくて。

 お金になりもしない小説を書き続け、生活は苦しくなるばかり。

 なにをやっても上手くいかない私に、この先救いなどあるのだろうか?

 悲しみばかりが、故郷の雪のようにしんしんと降り積もっていく……。



――母は今頃どうしているだろう?



 ふと、あの優しい笑顔に会いたくなった。

 実家から足が遠のくようになって、もうずいぶん月日が経つ。


 いっそ故郷に帰ろうか。

 けれども、母はきっと私をなじるに違いない。

 それ以上に、いつまで経っても母を安心させてあげられない私に、母に合わせる顔などあろうはずがなかった。




 ◇◆◇




 翌日には雪はすっかりやみ、澄んだ冬の青空が広がっていた。


 その日、私の元に予期せぬダンボールが一箱届いた。

 送り主は母だった。

 開けてみると、なかにはお米やお餅、林檎や蜜柑といった食べ物に加え、『赤いきつね』が入っていた。


 

――まったく、しょうがない子ねぇ。



 子どもの頃に耳にした、母の呆れた声がよみがえる。

 カップにお湯を注ぎながら、口元に笑みを浮かべて、優しい眼差しまでも私に注いでくれた母。

 遠く離れた今となっても、母は私をずっと見守り、微笑みかけてくれていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 私は涙でボロボロになりながら『赤いきつね』をすすった。

 母の愛情に似た温もりが、乾いた心に染みわたる。


 すっかり食べ終え、心まで満たされると、私はスマートフォンを手に取った。


「もしもし、お母さん? うん、元気。荷物届いたよ。ありがとう――」


 久しぶりに聞いた母の声は、昔と変わらず優しかった。




【完】

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