其の六十四 回帰

 悪夢か吉夢か判別つけ難い、狂おしいまでに記憶に焼き付けられたあの夏の後。


 俺は、本来の山根宗二として社会的に生きることになった。


 高校の間は無理に宗二の名を名乗らなくてもいい、と父さんには言われたが、自ら戻すことを選んだ。元々、登録は全て宗二の名でしてある。所謂配慮というものをされていたことも知らず、呑気に太一として過ごしてきた訳だ。


 それを知った時は、さすがに羞恥で布団を被り簀巻きになりたくなったが、それでも見捨てずこうして傍にいてくれる人達がいたことには、感謝しかない。


 太一の名は、太一のものだ。勝手に使ってはならないものなのに、俺はずっと、自分の罪から目を背ける為にその隠れ蓑を被って生きてきた。自分が殺した本人という皮は俺にとって都合も居心地もよかったが、あの長い夢から覚めた後では、考えてみたら随分と悪趣味な行為だったと思う。


 花は、太一と思い切り言いたいことを言い合った後、それまでの遠慮がちだった性格が段々と前向きなものに変わってきた。本人曰く、これまでずっと言いたくて言い返せなくて頭の中であの時こう言えばよかったと反芻はんすうしていた言葉をぶちまけることが出来たからだそうだ。


 守らないといけない花はもうそこにはおらず、どちらかというと俺が花に守られている気がしたが、それはそれで心地のいいものだ、と暫くの葛藤の後に悟った。


 俺は今までも、誰かに支えられ見守られながら生きてきた。それを知らずに、花を守ってやらなければと必死になっていたのは如何にも浅はかな子供の考えだが、それが俺達の絆にもなっているのだから、もうそれでいい。


 結局は、俺が殺した太一ですら、最後まで俺を守ろうとした。俺の罪を一度も責めなかったあいつは、やはり俺にとって永遠に頼りになる兄なのだろう。


 本来であれば人殺しとして一生贖罪をしていかねばならない筈だった俺の心を解き放ったのは、俺が殺した太一本人だった。この恩は、一体どうやって太一に返していけばいいのだろうか。事ある毎に考えるが、答えは未だに出ていない。


 あの日以来、時折家の中で子供の太一の姿を見かける様になった。前の様なおどろおどろしいものではなく、普通にそこで遊んだりくつろいでいる姿だ。包丁を握る母さんの横でつまみ食いをしたそうに手元を覗いていたり、花も交えて花火をしていると、いつの間にか隣にしゃがんで楽しそうに眺めていたりする。


 前までの俺への過度な接触は、一切なくなった。太一のことを嫌っていないとはっきり口にしたことで、方向を見失っていた嫉妬心が浄化されたのだろうと思っている。時折俺の隣で足をプラプラさせている太一は、俺と抱き合ったことなど忘れさせる程に無垢な存在に見えた。


 花は、大学には進まず地元に就職をした。やはり勉強は苦手なままで、もう勉強は懲り懲りだと卒業式に清々しい笑顔を見せていた。


 母さんと花を置いて地元を離れることに抵抗があった俺は、家から通える大学に通った。教師には、山根だったら上の大学も狙えるのにと惜しまれたが、親と一緒に居てあげたいんですと答えたら、うちの事情を知っている教師はもう何も言わなかった。


 大学は無事四年で卒業し、商店街にある広告代理店に就職した。WEB広告がメインの地元密着型の会社で、パソコンさえあれば家でも仕事が出来るのが就職を決めたポイントだ。給料はさほど高くないが、これからに期待して、せっせと溜めた三ヶ月分の給料を真っ先に花の為に使った。


 太一がこの家に帰ってきて失踪期間と同じ時間が経った頃、段々と太一を見かける頻度が減ってきた。


「いなかった分を取り戻して、満足したのかしらねえ」


 母さんが少し淋しそうに笑うと、父さんは相変わらず殆ど変わらない表情で「そうかもな。そうだといいな」と答える。


 父さんも淋しいのだろうが、ずっと成長しない太一をここに留めておくべきじゃないとでも思っているのかもしれない。


 結婚した俺と花は、基本は俺の家で、花の親父さんがいる時は花の家で過ごしている。


 だが、今は母さんがあまりにも心配する為、花はさながら箱入り娘の如く俺の家で上げ膳据え膳の生活を強いられ、苦笑していた。


「お義母さん、お医者さんにも歩きなさいって言われてるんですから」

「生んだ後が大変なんだから、今の内に寝溜めしておくのがいいわよ! あれは本当、毎日が地獄だったから……」


 当時は男性の育休などはなく、双子の面倒をほぼひとりで見た母さんは、遠い目をしてそう言った。母乳が出し尽くされようがまだまだ空腹のもうひとりが常に泣いている状態だった様で、食べても食べても追いつかなかった、と懐かしそうに笑う。


 いつの間にか、太一との思い出もこうして何気なく語れる様になったのだと、改めて月日の流れを感じた瞬間だった。


 それから数日後、予定日を一日過ぎた日に、いよいよ花が産気づいた。俺が在宅勤務をしていた時だ。


「そ、宗ちゃん、何かお湯みたいなのが出てきた……!」

「――破水だ!」


 急ぎ会社に休暇の電話をすると、花を車で町の病院まで連れて行った。母さんは、父さん達に連絡して後から行くそうだ。


 こういうのは旦那さんが傍に付いているといいのよとウインクされたが、何故こんなにも痛がっている花を前に今更余裕を見せられるのか、母さんが理解出来なかった。


「宗ちゃん、落ち着いて」


 分娩台に横たわる花にまでそう言われてしまい、俺ひとり気が動転していたことを知る。よく見たら、何度も顔を合わせた助産師も俺を見て可笑しそうに笑っているじゃないか。


 すでに母親の貫禄を持ち始めている花の指示に従い介助していると、そろそろだからと分娩室を追い出された。分娩室からは花の叫び声が聞こえ、俺は恐怖で耳を塞ぎたくなったが必死で耐えた。


 何故か、花の叫び声があの夏の日の滝の様に降り注ぐ蝉の声を連想させ、ひとりあの時に戻った気分になる。


 どれ位そうしていたのだろうか。


 花の叫び声が止んだかと思うと、暫くして赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。だが、分娩室の扉は開かないままだ。花がどうなったか気になり彷徨いていると、暫くして助産師が布に包まれた赤ん坊を連れて出てきた。


 聞けばこれから花は胎盤の処理をし、赤ん坊は羊水を吸い出し身体を拭くのだという。


 俺がソワソワしていると、赤ちゃんを見ていいよと言われ、綺麗にされ泣き止んだ、目を閉じたままの我が子を見に行った。


 助産師はまだ花の処置が残っているからと、俺と赤ん坊を二人きりにしてしまう。


「え、ちょっと……!」


 不安になるが、あっという間に扉の奥へと行ってしまったので、恐る恐る赤ん坊の手に人差し指で触れた。すると、ぎゅ、と思ったよりも力強く握り返される。


「わ……可愛い……」


 股を見ると、女の子だ。俺は、女の子の父親になったのだ。


 どんな目をしているんだろう、この目はいつ開くのだろうと拳より少し大きい程度の顔を眺めていると、その目が突然ぱちりと開いた。


「えっ」


 驚き顔を近付けると、まだ大して見えていないだろうその目は確かに俺を見て、可愛らしい声で笑う。


 まるで鈴が転がる様なその笑い声に、俺もつい笑顔になった。


 すると。


 赤ん坊が、言った。


「そうじ」


 思わず、目を見張る。


「――え」


 だが、赤ん坊はすぐに目を閉じると、俺の指を掴んだままスーッと寝てしまった。


 どく、どく、と自分の鼓動が耳に響く。


「……太一、お前なのか……?」


 口に出した途端、すとんと腑に落ちた。そうか、そうだったのだ。もう数ヶ月の間太一の姿を見ていなかったのは、太一が俺達の子供に生まれ変わったからだったのか。


 目頭も吐く息も熱くなり、気持ちよさそうに寝ている我が子であり同時に太一である赤ん坊を、滲んだ視界で見つめる。


「太一、今度は、今度こそお前を守るから……!」


 嗚咽が漏れ出す。こんな泣き方をしたのは、あの別れの日以来だ。


 これは、太一が俺にくれた贖罪の機会なのだろうか。今度はちゃんと生を全うしたい、そうして俺達の元に戻ってきてくれたのか。


 ならば俺はこれから、お前を全身全霊で守り抜くことを心に誓おう。


 お前が笑顔でいられる様、俺が傍にいる。


 お前が泣いたら、俺が隣で慰める。


 だから、思う存分生きていってほしい。それが太一への恩返しになるならば、俺は全身全霊でそれを遂行しよう。


 押し寄せる庇護の感情に、涙が止まらない。すると、「あらあら」と扉から先程の助産師が出てくると、号泣している俺を見てタオルを貸してくれた。


「さ、奥さんのところに行ってあげて」

「はい、ありがとうございます……!」


 太一である娘の手から指をそっと抜き、タオルで涙を拭う。


 花にはこのことは伝えない方がいいかもしれない、とどこか冷静な頭の片隅で考えながら、分娩室へと向かった。


 太一。


 沢山笑って泣いて、それでももし、もしもお前が生を自分で断ちたくなる様なことがあったら、その時は。


 その時は、俺がその原因をあの巨大な墓場に封じてでもお前を守ってやる。


 だから、安心して伸び伸びと生きていって欲しい。


 何故なら、あそこへの縛り付け方を、俺はもう知っているのだから。

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