其の六十三 帰還

 嵐の様な感情の爆発が次第に収まってくると、ジリジリと裸の背中が火を吹かんばかりに熱くなっていたことに今更ながらに気付く。


「背中があちい……」


 花の前で全てを吐き出す様に号泣した恥ずかしさを誤魔化す為、花を見ずに立ち上がった。


 俺の背中を、花がそっと押す。


「宗ちゃん、いっちゃんを家まで連れて帰ってあげよう」

「……うん、そうだな」


 腕の中にいる太一を落とさぬようしっかり抱え、残り僅かの距離を花と並んで進む。次の角を曲がれば、すぐに家の玄関が見える。


 太一に、声を掛けた。


「太一、長い間ごめんな。もうすぐ俺達の家だから」


 太一は言っていた。俺が太一を家まで連れて帰らねば駄目なのだと。俺が自分の記憶と共にあの広大な墓場に太一を置き去りにし縛り付けた以上、そこから引き剥がすことが出来るのは俺だけだったのだろう。


 まるで呪詛の様な所業を自分が太一に行なっていたことが、恐ろしかった。だけど、もう恐怖から目を逸してはいけないことも分かっている。俺はこの恐怖も、罪も、狡さも汚さも全部、この身に抱えて生きていくのだ。そうでなければ、太一に笑われてしまう気がした。何やってんだよ宗二、と。


「――あ」


 角を曲がると、道路に父さんと母さんが所在なさげに立っているのが見えた。二人が、俺達に気付く。


「……宗ちゃん!」


 母さんが、必死な顔をして俺を呼んだ。その手に、見覚えのある封筒が握られている。あれは、太一の勉強机にずっと眠っていた、太一が好きだったキャラクターの絵が書かれた便箋セットの封筒だ。


 手紙なんて書かないのに便箋なんて買ってどうするんだよ、と俺が言うと、いいんだよ欲しかったんだからいいだろ。あ、でも母の日と父の日に手紙書いたら喜ぶんじゃねえ? そう言ってニカッと笑った太一の姿が脳裏に蘇る。


 太一は、宣言通りにそれを両親に宛てたのだ。


「宗二、それは……」


 父さんが、顎を小刻みに震えさせながら俺に手を伸ばす。いや、正確には、俺の腕にいる太一に向かってだ。


 俺は父さんの前まで進むと、こくりと頷いてみせる。父さんの瞳に、じわじわと涙が浮き出てきた。


 母さんは、俺の涙の跡や血と泥だらけの手を見てハッと息を呑む。


「父さん、太一を家の中に連れて行ってやりたいんだ」

「……そうだな、そうだな……!」


 父さんは目頭を押さえると、小さな押し殺した様な嗚咽を漏らした。


「花、行こう」

「え、でも私は……」


 俺達家族三人の間に割って入ってはならないと思っていたのか、花は一歩離れたところから俺達を見ていた。


「花ちゃん、貴女も一緒に、ね……?」

「おばさん……!」


 母さんが、ガクガクと震える手を花に伸ばす。花はくしゃりと顔を歪ませると、母さんの手を取るべく駆け寄った。二人は手を取り合うと、先に玄関へと向かい、戸を開ける。父さんが俺の肩に手を置き、中へ入る様促した。


 太一を胸に抱き、家の中へと一歩入る。


 その瞬間、腕の中からすうっと俺とほぼ同じ大きさの赤いTシャツの男が飛び出してきた。


 半透明のその背中は、たたきを一歩進む毎に、小さく幼くなっていく。一段上がった廊下にぴょんとジャンプして乗ると、笑顔で俺達を振り返った。


 口が、四文字の短い言葉の形に動く。声は聞こえなくとも、何と言っているかはその嬉しそうな様子で分かった。


 俺の背中側で、父さんと母さんの慟哭が聞こえる。


 泣きぼくろの付いた目元をにっこりとさせると、この家を最後に出た時の姿に戻った太一は、そのまま跳ねる様に廊下の奥へと消えて行った。


 どさ、と床に倒れ込む音がして振り返ると、母さんがたたきに座り込んで太一が消えた廊下を涙で濡れた顔を真っ直ぐに向けて見つめている。


「いっちゃん……! おかえり、おかえりいぃ……っ!」


 母さんにも、太一の姿が視えたのだ。


 俺の隣で呆然と立ち尽くす父さんを見る。いつもは殆ど表情を変えない落ち着いた父さんが、俺にゆっくりと振り向き、やがて大きくひとつ頷いた。


 父さんにも、太一の姿は視えたらしい。


 父さんは靴を脱ぐと、消えた太一に向かって大きな声で呼びかける。


「太一! おかえり! ずっと、ずっと待ってたぞ!」


 そして俺が抱えていた太一の骨を受け取ると、泥と血まみれの俺の姿を見てぎょっとする。今気が付いたらしい。頬を伝う涙を拭うこともせず、俺の手を見てしかめ面をする。


「怪我が膿んだら大変だ。ちゃんと洗ってきなさい」

「……うん」


 父さんが、花に助け起こされながら立ち上がった母さんを振り返り、笑顔で言った。


「やっと家族が全員揃ったな、母さん」

「ええ、ええ……!」


 大人も子供も皆ボロボロ泣く。だけど今、多分太一だけは泣いていない。きっと、二段ベッドや子供部屋や縁側を、笑顔で駆け回っていることだろう。



 母さんが、靴を脱ぎながら俺に手紙を開いて見せる。


「太一ってば、こんな手紙を書いてたのよ。相変わらず言いたいことしか言わないんだから」


 母さんの手に握られていた手紙には、こうあった。


『父さん、母さん。太一だよ。落ちて死んじゃったけど、宗二といっしょにかえるね。じゃあね。太一』


「あいつ……こんなんで分かるかよ」


 何が自分で落ちたと伝えた、だ。可笑しくて、涙が溢れ出してきた。


 双子の兄、山根太一の失踪から七年。


 太一は、家に帰って来た。

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