其の六十二 半身
太一が逝ってしまう――。
涙を拭っていた腕を急ぎ下ろし、力の抜けた太一の手を慌てて掴み直す。
そこに立っているのは、瞼を優しく瞑り、まるで眠っている様な花の姿だった。先程までの真っ青な顔色は徐々に赤みを帯びてきており、それを見て、ああ、太一は本当に花から出て行ってしまったのだと悟る。
「……花」
俺の呼びかけに、その瞼がたった今目覚めたかの様にゆっくりと開かれると、暫く宙を彷徨った後、こちらを見た。
「宗、ちゃん……」
「やっぱり、花だな!?」
肩を掴み、目の奥にいるのが花であるかを確かめたくて、花の顔を近くから覗き込む。
「うん、私だよ……」
ケホ、と小さな可愛らしい咳払いをひとつすると、花はにっこりと微笑んだ。途端、へなへなと腰が抜けてしまい、熱いアスファルトの上にぺたんと座り込む。太一がいなくなっては嫌だと泣き、だけど花が戻ってきてほっとしているこの矛盾に、己の内部の醜さが浮き彫りにされた様でほとほと呆れた。
だが、花がそこにいるのは単純に嬉しかったのだ。
「う……あ、あああああ……っ!」
止まりかけていた涙が、身体中の水分を出し尽くさんばかりの勢いで再び流れ出す。俺の激しい慟哭を見て花は驚いた顔になり、そして小さな子供を見る様な顔つきになった。
「宗ちゃん、ごめんね、心配かけちゃったね」
花は俺の前に膝を付くと、俺の頭を胸に抱き寄せる。半ば吐き出す様に、痙攣する様に身体が勝手に嗚咽を繰り返した。身体が震え、腕に抱える太一の骨を落とさぬ様、必死で抱え直す。
悲しいのか、嬉しいのか、何もかもがぐしゃぐしゃだったが、これで終わったのだという気持ちだけははっきりとしていた。
「花、花、太一が、太一があああ……っ!」
「うん、見てた。全部見てたよ」
汗でベタベタの首に、花の手が触れる。それは先程までの冷たさはもうなく、今俺の目の前にいるのは生者なのだと理解した。
「俺、俺、太一にずっと酷いことして……! 俺が冷たくしたから、太一が、なのに俺、太一を……!」
絞り出される様に出てくる言葉は途切れ途切れで、ちゃんと文章を喋りたいのにまともに出てこない。
「――宗ちゃん」
「うああ……っあ、ああ……!」
慟哭で返事をした様になってしまったが、花の言葉は耳に届いていた。だから何度もこくこくと頷くと、花が俺の耳元ではっきりと言う。
「いっちゃんは、宗ちゃんが好きってことしかなかったよ」
「へ……?」
ずび、と鼻を啜り、顔を上げる。花が、母親の様な微笑みで俺を見ている。馬鹿なことをやってしまった俺を、ずっと逃げて生きてきた俺を、全部知っていたのにひとりで抱えていた花はそれでも優しく迎え入れてくれるのか。
俺が逃げている間に、花は母親を亡くし、祖母も亡くした。俺は知らんぷりして、心配するふりをして人の死から目を背け続けたというのに。
「でも、でも、太一にあんなことを、太一を殺して、太一をずっとひとりにして、太一を……兄弟なのに、俺はあんなことを太一にさせた……!!」
兄弟なのに、たったひとりの血を分けた半身だというのに、血の繋がりの禁忌を飛び越させたのは俺の所業の所為だ。
花が、俺の首をポンポンと子供をあやす様に軽く叩く。
「いっちゃんは、一度も宗ちゃんを怒ってなかった。恨みにも思ってなかったよ。一日だけだけど、一緒にいたから分かるんだ」
「うう、あああ……!」
俺から出て行くただ悔やむだけの汚い卑怯な涙が、太一が包まれているTシャツを濡らしていく。太一を汚したのは俺なのに、なんであいつは俺を恨まないんだ。首を横に振り続けると、花が俺の肩をパン! と上から叩いた。
「むしろ、怒ってたのは私にかな! 花ばっかりいつも狡い、お前はいっつも宗二を独り占めしてんだから、最期くらいちょっといいだろって、いつものいっちゃんな感じでぷりぷり怒ってた」
「太一が……? 花、太一と話してたのか……?」
花が、微笑みを浮かべながら頷く。
「うん、沢山お喋りしたよ。私も、いっぱい文句言った。小さい頃意地悪されても抵抗出来なかった時の分の文句とか、勝手になに宗ちゃんを誘惑してんのとか、いっぱいぎゃーぎゃー喧嘩してた」
「花と……太一が? 喧嘩?」
「うん。意外でしょ?」
ふふ、と花が笑う。
「あと、謝った。いっちゃんの落ちた場所の嘘をついたこと」
「花……そうだ、花は見てたのに、何でわざわざ嘘を」
花があの場所を教えていれば、太一の死体はすぐに見つかった筈だ。それをわざわざ違う方向を伝えたのは、間違いなく花ひとりの判断だ。
「……宗ちゃんが壊れたり、宗ちゃんと離れ離れにされちゃうと思ったら怖かったんだ」
「花……」
花は、それがさも自分の所為の様に言うが、本当は違うのではないか。俺の気が動転し自分の殻に閉じこもってしまったから、これ以上俺を刺激しない様に嘘をつく道を選ばざるを得なかったのではないだろうか。
「花……ごめん、俺、ずっと花にも嘘つかせ続けて……!」
う、う、とまた嗚咽が漏れる。こんな子供みたいな泣き方をするなんて恥ずかしいが、花にだけは曝け出してもいいと思った。
花は、俺のおぞましいところも全て知った上で、それでも俺を好きでいてくれた。
「太一も花も、こんな俺のどこがいいんだよ……!」
自分のよさが、ちっとも分からない。俺の中は誤魔化しとどろどろの醜い感情が渦巻いていて、毎日それを見せないよう必死で取り繕って生きてきた。きっとこれからも、俺の中の狡さはなくなることはない。ないのに。
俺の肩を、花がぎゅっと掴む。予想外の強さに、俺は呆けた様に花を見上げた。
「いっつも平気そうな顔して、関係なさそうな顔して、だけど優しいところが好きだよ」
「花……」
ずび、と鼻が喉を通り抜ける。
「忘れちゃえばいいことも、放っておけばいいことも、結局放っておけなくて抱えちゃうところが見てて心配になる。いっちゃんも、宗ちゃんのことを心配してた。だから、悔しそうに言ってた」
「太一が……な、なんて?」
「宗二を頼んだぞ! てね」
花の言葉に、俺は。
額を熱いアスファルトに付け、叫ぶ様に泣いた。
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