障子の目

八白 嘘

障子の目

 遠縁の親戚の一周忌に、我が家を代表して出席したときのことです。


 法要を終えたあと、私は、親戚の家へと身を寄せていました。


「今日はうち泊まっていき」


 人好きのする笑顔を浮かべながら、おばさんがそう言いました。

 親戚の家は、駅から随分と離れた片田舎にあり、周辺に宿泊施設が存在しません。

 急げば電車に間に合う時刻ではありましたが、おばさんの厚意を無下にするのも申し訳ないと感じ、一泊していくことにしました。

 では、一晩だけよろしくお願いします。

 私がそう告げたところ、


「いいよいいよお、そう堅苦しくしなくたって」


 おばさんが、私の背中をぽんと叩きました。

 ほんの一年前に旦那さんを亡くしたとは思えない、気丈な笑みです。

 芯の強い人なのだろう。

 そう思いました。


「──あ、お姉さん。泊まっていくんですか?」


 次男くんが、廊下からひょこりと顔を出しました。

 この家は、おばさんと息子ふたりの三人暮らしと聞いています。

 次男くんとは、法要の際に幾度か顔を合わせていましたが、長男の姿はまだ見ていません。

 記憶が確かならば、私よりひとつ年上のはずです。

 彼について尋ねようとしたところ、


 ──ぎしり。


 天井が軋みました。


「──…………」


「──……」


 おばさんと次男くんが、無表情で顔を見合わせました。


 ぎし、

 ぎし、

 ぎし。


 足音のような家鳴りが響きます。

 ふと、出立前に母から聞かされたことを思い出しました。

 この家の長男には、すこし問題がある、と。

 父親の一周忌にすら顔を出さず、客が来ても知らん振り。

 私は、長男の抱えている問題を、無言で察しました。


「……ほら、和室に布団敷いてやり」


「わかった」


 次男くんが頷きました。

 礼を告げると、


「これくらい、いいですよ」


 そう言って、年上の私がどきりとするような爽やかな笑みを浮かべました。

 きっと、女泣かせになることでしょう。




 慣れない法要で疲れていたため、遅めの夕食をとったあと、すぐに客間へ引き上げました。

 電灯を消し、布団をかぶり、目蓋を閉じます。

 ようやくやってきた眠気とダンスを踊り始めたころ、


 ぎしり。


 天井が悲鳴を上げました。


 ぎし、

 ぎし、

 ぎし。


 私は目を開けました。


 きし、

 きし、

 きし。


 音の質が変わりました。

 足音が移動しています。

 これは、階段を下りる音でしょうか。

 私は寝返りを打ち、障子へと視線を向けました。

 障子には、小さな穴がひとつだけ空いています。

 私は、はっと息を呑みました。


 穴の奥に、目があるのです。


 誰かが部屋を覗き込んでいる。

 件の長男でしょうか。

 私は、ぎゅっと目を閉じました。

 起きていることを悟られたくなかったのです。


 さり。

 さり。

 さり。


 なんの音でしょう。

 引き絞っていた目蓋を、薄く開きました。


 さり。

 さり。

 ──ぺり。


 障子の穴の下に、もうひとつ穴が空きました。

 赤黒いものが穴から伸びています。

 舌でした。

 障子を舐めて穴を開けたのだと、どこか冷静な自分が囁きました。

 長男の舌が引っ込むと、その穴から、もうひとつ目が覗きました。


 もうひとり、いる?

 次男くんでしょうか。

 まさか。

 あの爽やかな少年が、覗きなんて──

 私は、心中でかぶりを振りました。

 所詮はただの中学生です。

 そういうことも、あるかもしれません。

 私はすこしがっかりしました。

 早く飽きてくれないでしょうか。

 私なんかの寝姿を覗いたところで、なんの面白味もありません。

 ぎり、と奥歯が悲鳴を上げました。

 私は、自分でも不可解なほどに苛立っていました。

 そして、


 さり。

 さり。

 さり。


 その苛立ちが、自分自身を誤魔化すためのものだったのだと、不意に気がついてしまいました。


 さり。

 さり。

 ──ぺり。


 障子にもうひとつ穴が空き、そこから瞳が覗きます。

 三人いる?

 違う。

 新しく空いた穴は、元の穴から10cmほど右上にありました。

 みっつの穴から、みっつの目が、同時に私を覗いている。

 でも、そんなことはあり得ません。


 人間には、額と顎があります。

 どれほど密着したところで、これほど緊密に目が覗くことなど、到底不可能なのです。

 可能だとすれば、目と口しかない怪物くらいのものでしょう。

 荒唐無稽な想像ですが、それに類するものが障子の向こうから私を見つめているのは確かなのです。

 私は、金縛りに遭ったかのように動けなくなりました。


 さり。

 さり。

 ──ぺり。


 障子に穴が空き、舌が伸び、また瞳が覗く。

 暗闇に閉ざされているにも関わらず、その瞳と舌だけは、はっきりと捉えることができました。


 さり。

 ささり。

 さり。

 ──ぺさり。


 ぺり。

 さりさり。

 さり。

 ──ぺり。


 増えていく。

 障子の目が、増えていく。

 動けない。

 まばたきすらできない。

 目を閉じた瞬間、障子の戸が開いてしまったら──


 不意に、誰かの手が足首を掴みました。

 声にならない悲鳴を上げながら、反射的に引き抜こうとして、自分が本当に金縛りに遭っていることに気がつきました。


 さり。

 さり。

 さり。

 ──ぺり。


 冷たい手は、太腿を這い回り、背中を撫で、驚くほど強い力で私の口を塞ぎました。


 さり。

 さり。

 さり。

 ──ぺり。


 障子の目が増えていく。

 動けない。

 呼吸ができない。


 死?


 こんな馬鹿げたことで、私は死ぬのだろうか。

 私は、金縛りをなんとか振りほどき、その手に思い切り噛みつきました。

 舌の上に血の味が広がります。

 ですが、その手は、何事もなかったように私の口を塞ぎ続けました。

 意識を手放す寸前、私は、その正体を目にしました。

 それは、影でした。

 黒く巨大な顔に、無数の目がでたらめに貼りついた──




 翌朝、私は目を覚ましました。

 口を塞がれた感触が、まだ生々しく残っています。

 障子を見ると、穴はひとつしか空いていませんでした。

 夢だったのでしょうか。

 夢なら、そのほうがいいのです。


 ふらふらと洗面所へ赴き、顔を洗おうとして、私は悲鳴を上げそうになりました。

 口元に、べったりと血が付着していたのです。

 血痕は、心なしか、手のひらの形をしているように見えました。

 間違いありません。

 障子の目は夢だったのかもしれませんが、寝込みを襲われ、口を塞がれたのは事実なのです。

 恐らくは、長男に。

 私は、背筋を震わせながら、着衣の乱れを確認しました。

 脱がされた形跡こそなかったものの、こんな家に一刻だっていられるはずがありません。


 時計を見ると、午前六時でした。

 私は、口元の血液を拭い取ると、慌てて身支度を整え、挨拶もせず玄関へと向かいました。

 そこには、


「──……ぐごー……」


 いぎたなく眠る若い男の姿がありました。

 誰でしょう。

 泥棒ならば、玄関で熟睡はしないはずです。

 靴を履くことができずにうろたえていると、


「あれ、お姉さん。朝早いんですね」


 背後からの声に、びくりと背筋が跳ねました。

 次男くんでした。


「あ、クソ兄貴! おーい、兄貴! 起きろ!」


 次男くんが、若い男を揺り起こしました。

 兄貴。

 次男くんは、たしかにそう言いました。


「すいません。お見苦しいところを見せてしまって……」


「んが」


「ほら、兄貴! 自己紹介くらいしろよ!」


「……んえーい、可愛いお姉ちゃん。ごめんねえ、飲み過ぎちった」


「ったく、父さんの一周忌のときくらい、大人しくしとけよ」


「すまん、すまん」


 思考が停止しました。

 長男は、引きこもりではなかったのでしょうか。


「引きこもり、ですか?」


 次男くんが小首をかしげました。


「見ての通り、引きこもりの逆ですよ。大学生になってから、ろくに家にも帰ってこないんです」


 では、あれは誰なのでしょう。


 私は、長男の手に視線を移しました。

 怪我はありません。


 次男くんの手を確認しました。

 怪我はありません。


 念のため、自分の手を検めました。

 怪我はありません。


 障子の目は、夢だったのでしょう。

 ですが、血痕は間違いなく付着していました。

 誰かに口を塞がれたことも、誰かの手に噛みついたことも、現実にあった出来事です。

 そのはずなのです。


「──あらー、みんな早いねえ」


 騒ぎを聞きつけたのか、おばさんが自室から姿を現しました。

 私は、息を呑みました。

 その、手。

 おばさんの右手に、真新しい包帯が巻かれていたのです。

 昨日はなかったはずの、包帯が。

 私は、恐る恐る口を開きました。


 その、右手は──


 言いかけたところで、


「うふ」


 おばさんの口から笑みがこぼれました。

 そして、


 ぎし、

 ぎし、

 ぎし。


 頭上から足音が聞こえました。

 私は混乱しました。

 この家は、三人家族です。

 そのはずです。

 ならば、この足音の主は、いったい誰だと言うのでしょう。


 ぎし、

 ぎし、

 ぎし。


 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。


 きし、きし、きし、きし。


 聞き覚えのある、音。

 何かが階段を下りてくる。


「──うふ、うひひ」


 おばさんの下卑た笑い声が耳につきました。


 きし、きし、きし、きし。


 近づいてくる。

 近づいてくる。

 笑い声。

 近づいてくる。

 駄目だ。

 見るな。

 聞くな。

 私は、長男と次男くんへと視線を向けました。

 ふたりは、無表情で私を見ていました。

 糸の切れた人形のように、ただただ私を見つめていました。


「くひ、うひゃひゃ、ひひひひ」


 おばさんが、笑う。

 嗤う。


 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。


 足音が変わる。

 階段を下りきった何かが、こちらへと近づいてくる。

 いるはずのない、四人目の家族が。


 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。


 嗚呼。

 もう、耐えられない。

 私は、長男の体を飛び越え、靴下のまま外へと駆け出しました。

 振り返ることなく一目散に走り、駅へと辿り着くころには、足の裏が血豆だらけになっていました。


 二度とあの家には近寄るまい。

 私は、そう決意するのでした。

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