第8話

「透真さん、朝ですよ。起きてください」

 涼音に叩き起こされて、透真は目を覚ました。

「うーん、あと五分……五分間だけ寝かせてください……」

「何を言っているんですか? もう午前九時を回っているんですよ? いい加減、起きてください!」

 午前九時。

 涼音のその一言で、透真の眠気はどこか遠くへと吹き飛んでしまった。

「え、もうそんな時間なんですか? 朝美と夕美は?」

 透真は慌てて飛び起きる。

「お二方とも、二時間前に起床して既に朝食も済ませておいでですよ?」

「ご、ごめんなさい! 今から急いで支度をします! 二人にはあともう少しだけ待っていて欲しいと伝えておいてください」

「承知しました。なるべく早く支度をしてくださいね? お二人とも、相当怒っておいででしたから」

 寝所を出ていく涼音を背に、透真は慌てて寝間着から用意されていた服に着替える。

 朝美も夕美も時間にはうるさい。だから時間を二時間も無駄にしてしまうなんて、二人にとっては耐えられないことのなのだ。きっと、間違いなく怒られるだろう。

 透真は急いで着替えを済ませると、寝所前の廊下で待機していた涼音の案内で朝美と夕美の待っているという玄関まで走った。

「……遅い」

「二時間も寝坊とか有り得ないんですけど」

「ご、ごめん……」

 涼音の言っていた通り、朝美と夕美は怒っていた。

「ごめんで済むような話じゃないのよ? あんた、分かって言ってるの?」

「一大事だっていうのに、寝坊するとか本当に有り得ないんですけど? ねぇ、時間を無駄にしてるって分かってるの?」

「ほ、本当にごめん……申し訳ない……」

 必死に透真があやまってもなお、二人の機嫌は良くならない。

「二人とも、もういいだろう。こいつが謝っているんだから、いい加減許してやれ。こんなところで言い争いをしている方が、よほど時間の無駄だと俺は思うがな」

 やり取りを黙って聞いていた彩瀬が朝美と夕美をたしなめる。眉間に深い皺がよっているのを見るに、相当機嫌が悪いらしい。

 ただならぬ殺気を感じ取った朝美と夕美は、それ以上怒るのを止めた。普段は伯父夫婦がたしなめても止めないのに。透真は何とも複雑な気持ちになった。

「全員揃ったことだし、行きましょうか。真神さんの家に」

 桐子を先頭に、一行は最後の宝珠を持つという真神家へと向かう。


 まだ午前中だというのに、森の中は昨日来た時の数倍暗い。鬼火の数も昨日の倍はあるだろうか。一行を取り囲むように漂っている。

「昨日来た時はもう少し明るかったのに……まだ午前中ですよね? おかしくないですか?」

「ああ、そうだな。マヨイがこちらの世界を少しずつ侵食し始めている証拠だ。この状態だと、お前たちの世界にも少なからず影響が出ていることだろう」

「え? まだほんの数日しか経っていないのに、いくらなんでも影響が出るのが早すぎないですか?」

 朝美は素っ頓狂な声を上げる。

「相手は複数体だ。どう動くのか全く読めない。単体でさえ、動きを読むのはかなり難しいんだ。今もきっと、どこかでお前たちのことを虎視眈々と狙っているのかもしれない」

 身体を乗っ取られたくなかかったら、さっさとついて来いと彩瀬は急かす。

 彩瀬の言葉に透真たちは更に不安になってきた。あちらはどうなっているだろう? 家族は何も被害を受けてはいないだろうか?

「あらら? あれだけ憎んでいるはずの家族を心配するだなんて、もしかして頭がおかしくなったのかしらぁ?」

 突然、どこからともなく、透真たちにとって聞き馴染みのある声が聞こえてくる。

「そこにいるのは誰だ?!」

 彩瀬の叫びに呼応するかのように暗がりから姿を現したのは、なんと透真の母親である美奈子だった。

「か、母さん?!」

「えっ、美奈子叔母さん? なんで?」

「嘘でしょ? 叔母さんがどうしてここにいるの?」

 突然現れた美奈子に、三人は驚きを隠せない。

 美奈子は立ちふさがる彩瀬たち兄妹をすり抜けて透真たちの前に立つ。表情は削ぎ落され、まるで別人のようだった。

「透真――あんたみたいな出来損ないなんて、産まないほうが良かったわ。あんたみたいな子、本当は必要ないの」

「な、何を言ってるんだ、母さん? なんでそんな酷い事を? 産まないほうが良かったって……そんな? どうして?」

 母親から発せられた言葉は、精神的に弱っていた透真の心を引き裂くのには充分だった。

「そいつはマヨイが放った幻影にすぎません! どうか惑わされないでください!」

「そうよ、幻影なんかに惑わされちゃ駄目よ! 透真くん、落ち着いて。そんな言葉に耳を貸したらいけないわ」

 涼音や桐子が落ち着かせようと必死になって声をかけるものの、透真は既に錯乱状態に陥っていた。

「そんな……どうしてそんなことっ、母さんまで僕のことを出来損ないだって言うのかよ……そんなの、あんまりじゃないか! 必要ないなら、どうして俺を産んだりしたんだよ!」

 透真は叫ぶ。

 ニヤリと笑った美奈子は、今度は真一郎に姿を変える。

「それは保険のためだよ。真悟にもしものことがあったらいけないからな。万が一の時のためさ。実際、お前のことなど心底どうでもいい。存在しなくてもいいくらいだ。お前なんて、誰からも必要とされていないんだぞ?」

「嘘だ! そんなことない!」

 透真はなおも叫んだが、それは幻影の高笑いによって搔き消されてしまう。

 泣き崩れる透真を、朝美と夕美はただ見ていることしかできなかった。〝必要とされていない〟という言葉が、否応なく二人に突き刺さる。

「本当にその通りだよ、真一郎くん。うちにはもう跡継ぎの男子がいる。だから、女なぞ二人もいらん。女はなんの役にも立たないから、必要ない」

 カラカラと乾いた声を上げ、真一郎の背後に広がる暗がりから姿を現したのは、祖父の高明だった。朝美と夕美に注がれている視線は、いつも以上に冷たい。

「役に立たないなんて、そんなことないわよ! 私たちのことを馬鹿にしないで!」

「そうよ。たかが幻影なんかに馬鹿にされる筋合いはないわ! ふざけないでちょうだい!」

 二人の言葉に、今度は別の場所から笑い声が上がった。非常に甲高い、癪に障るような女の笑い声。

 耳を覆いたくなるような笑い声とともに真一郎と高明は消え失せ、代わりに椿が暗がりから躍り出るように現れた。

「ふざけないでちょうだい? それはこっちのセリフよ。あんたたちが役に立たないのは本当のことじゃない。跡継ぎにもなれない、お義父さんの言うことも聞かない。よくもまぁ、のうのうと生きていられるわね。この穀潰しが」

 役に立たない、穀潰し――

 朝美と夕美は耳をふさいでうずくまる。これ以上、なにも聞きたくないし、見たくもない。

 こんな奴ら、さっさと消し去ってしまいたい――二人は心の中で何度もそう念じる。

 美奈子、真一郎、高明、椿の幻影たちは透真たちを取り囲むと、周囲をぐるぐると回りながら三人に罵詈雑言の数々を浴びせかける。そのどれもが聞くに堪えないものばかりだった。

「黙って聞いておれば調子に乗りおって……! わが領地での非道な振る舞いの数々、許さんぞ! 八つ裂きにしてくれる!」

 怒った彩瀬は本来の姿である狐に戻った。涼音と桐子もそれに続いて本来の姿に戻った。

 彼らは犬の遠吠えによく似た叫び声を上げると、気持ち悪い笑みを張り付けた真一郎たちに襲いかかる。

 彩瀬たちの爪や牙が幻影たちの身体を切り裂いたり、食いちぎったりするその度におびただしい量の瘴気が噴き出す。そのあまりの気持ち悪さに、彩瀬たちは吐き気を覚えてしまう。が、それでもひるむことなく立ち向かう。

「力のある善狐だと思っていたけど、大したことないわね。もう体力もそんなに残っていないんじゃないの??」

 椿の幻影は兄妹の攻撃を笑いながらかわす。

「やかましい! たかだか幻影の分際で、こざかしい!」

 彩瀬は躍起になって幻影たちを攻撃する。だが、指摘の通りで、体力が落ちているせいでなかなか攻撃が当たらない。

「兄さん、そんなにムキになってはいけません! 奴らはそれが狙いなんですよ?!」

「落ち着いてよ、兄さん! これだと奴らの思うツボだわ!」

「ええい、うるさいぞ! お前たちは黙っていろ!」

 涼音や桐子の忠告にも一切耳を貸すことなく、彩瀬は笑いながら逃げ回る幻影たちに向かって走る。

 だが、体力の低下した彼らをあざ笑うかの如く幻影たちは逃げ回り、時には姿を消してしまう。癪に障る笑い声ばかりが暗い森に響く。

 逃げ回る幻影たちを追いかけるために兄妹たちは森に散っていった。

「ちょっと、三人とも! どこに行くんですか?! 置いていかないでくださいよぉ!」

 夕美が兄妹に向かって叫んだが、三人は既に濃い闇の中にまぎれて見えなくなっていた。

 その場に残ったのは、三人分の鬼火が十二のみ。鬼火たちは申し訳なさそうに小刻みに揺れている。

「俺たち、これからどうしたらいいんだ……?」

 透真の言葉に鬼火たちが答えてくれるはずもない。彼らができることといえば、せいぜい森の外まで案内してくれることくらい。

 三人は鬼火に導かれ、ひとまず森の外を目指すことにした。


 「……あら? あの子たち三人のそばについていなくてもいいのかしら?」

 美奈子の幻影の放ったひと言に、兄妹はハッと我に返る。言われるまで、透真たちの存在を忘れていた。

「その顔はもしかして、我々を追いかけるのに必死になっていてあの三人の存在を忘れていたというのか? 上位の妖としてあるまじきことだ。とても信じられんなぁ」

「いい加減そのうるさい口を閉じろ。貴様らごときに惑わされるような我らではないぞ!」

 彩瀬は己の中に広がる負の感情を悟られまいと吠える。奴らに悟られれば、あっという間に付け込まれてしまう。

「いつまでのん気なことを言っていられるかな? きっと今頃、マヨイ本体があの三人を殺しているかもしれんというのに」

「まさか三匹全員ついてくるとは思わなかったわ。全員ついて来た時点で、私たちに惑わされているじゃない。あんたたち、馬鹿じゃないの?」

 高明と美奈子の幻影は胸糞悪くなるような笑い声を残して、薄ら笑いを貼り付けた椿と真一郎の幻影とともに、音もなく消え失せる。

「……くそっ!!」

 彩瀬は己の不甲斐なさに腹が立ち、近くに立っていた木々の幹を手あたり次第何度も引き裂いた。涼音と桐子はそれをただ見ていることしかできない。

 彼が手を止めた時には、木々には生々しい爪痕がいくつも残り、最早木とは呼べない代物に成り下がっていた。

「戻るぞ。一刻も早く、彼らと合流せねばならん」

 散り散りになっていた鬼火が兄妹のそばに寄ってくると、彼らはすぐさま来た道を引き返していく。何事もないよう祈りながら。

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常世異聞録 日浦 かなた @kanata0817

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