虫歯物語

浅野浩二

虫歯物語

純は真面目な学生である。

将来は東大法学部に入って大蔵官僚になり、日本を立て直してやろうという高い志を持っていた。そのため一心に勉強に打ち込んだ。ただ頭を使うと疲れるので、純はいつもチョコレートやオレンジジュースなど、甘い物を食べていた。

「痛いっ」

ある時、激しい歯痛が起こった。純は七転八倒して、床の上をのたうち回った。純は急いで、近くの歯医者に行った。治療椅子に座ると、純は恐怖で全身がガクガクしてきた。純は、あのキュイーンで、歯を削られる歯科治療が死ぬほど嫌だったのである。歯科医は、あまり優しそうな先生ではなかった。まずレントゲンを撮った。

「うーん。これはかなり深くまで虫歯になっている。少し痛いかもしれなが、我慢して」

歯科医はレントゲンを見ながら言った。純は顔が真っ青になった。キュイーンの治療が始まった。治療は、想像を絶するほど痛かった。純は、思い切り太腿をつねって痛みに耐えた。やっと歯科治療がおわった。歯科医はレントゲン写真を指しながら、

「今、痛んでる歯だけでなく、ほとんどの歯が虫歯になっている。これは、かなり治療が長引くよ」

歯医者は、そっけなく言った。純は愕然とした思いで家に帰った。机に向かって教科書を開いても、歯科治療のことが気になって勉強など頭に入らなかった。

その日から純は、うつ病になってしまった。学校に行っても、歯科治療の恐怖のため、勉強など、頭に入らなくなってしまった。

「どうした。純。この頃、元気がないな」

ある日、学校で、憔悴している純に担任教師が聞いた。

「悩み事があるなら聞くぞ」

「いえ。いいです。これは僕、個人の問題ですので」

そう言って純は首を振った。その日の授業中、純は考えに考え抜いた。そして、とうとうある結論に達した。それは死ぬことだった。死ねば地獄の歯科治療から、開放されて自由になれる。

純は、遺書を書いた。

「お父様。お母様。先立つ親不孝をお許し下さい。わけあって僕は死にます。骨は粉々に砕いて太平洋の沖に流して下さい。戒名はいりません。坊主を儲けさせるだけですから。天皇陛下万歳」

純は、自殺の方法も考え抜いた。

『人間の死は小さなものであってならない』

それが純の信念だった。そのため三島由紀夫のように市ヶ谷の自衛隊駐屯地で演説して切腹して死のうと思った。しかし、これはやめた。一人では自衛隊の敷地内に入る事が出来ない。それに一人では、すぐに自衛官達に取り押さえられてしまう。それで金閣寺を放火して死のうかと思った。しかし純は金閣寺を憎んではいなかったので、それもやめた。それで、靖国神社の前で、昇る朝日を前に切腹して死ぬことに決めた。

昼休みになった。純は校庭に出て、ベンチに座った。同級生の一人の女生徒がやってきて純の隣に座った。この少女は、京子といって純を熱烈に好意を持っていたが、純にとっては彼女は、どうでもいい存在だった。

「純君。どうしたの。最近、元気がないわね」

京子は陽気に話しかけた。

だが純は返事をしない。

「何か悩み事があるの?」

「いや・・・」

純はそっけなく答えた。

「何か悩み事があるのね。純君。授業中もボーとした表情で、ノートもとってないもの」

「・・・」

純は黙っている。

「ねえ。純君。今週の日曜、教会に行かない?」

京子は敬虔なクリスチャンで、日曜日には、かかさず教会に行っていた。

「いいよ。教会に行っても解決する事じゃないから」

純は無神論者で宗教というものを嫌悪していた。

「それはわからないわ。もしかすると悩み事が解決するかもしれないわ。行きましょうよ」

「・・・」

黙っている純に京子は熱心に誘った。京子があまりにも熱心に誘うので、純は、宗教というものに望みを託してみたいという一抹の思いが起こってきた。

「じゃあ、行ってみるよ」

純は、あまり乗り気でない口調で言った。

「よかった。きっと、いい事、あるわよ」

少女は飛び上がらんばかりに喜んだ。


   ☆   ☆   ☆


日曜日になった。

純は、生まれて初めて教会という所に行った。教会の近くで京子と出会った。京子は純を見つけると、笑顔で手を振って急いで走って純の所に駆け寄ってきた。

「おはよう。純君。来てくれてありがとう」

「ああ」

純は五月蝿そうに返事した。京子と一緒に教会に入ると、オルガンの重厚な音が流れている中で、たくさんの信者が礼拝が始まるのを待って座っていた。背広を着た誠実そうな顔つきの男が出てきた。

「あっ。先生。こんにちは」

京子が男に声をかけると、男は振り返って京子を見た。

「やあ。京子ちゃん。こんにちは」

「先生。今日は友達を連れてきました。純君です」

そう言って京子は純に振り向いた。

「純君。この方が、ここの教会の牧師先生なの」

京子はそう言って紹介した。

「は、はじめまして。純といいます。よろしく」

純はペコリと頭を下げた。

「はじめまして。加藤と申します」

牧師も純に一礼した。

純は京子の隣に座った。礼拝が始まった。まず賛美歌が歌われた。純は、賛美歌も聖書も持っていないので、京子の賛美歌を見せてもらって歌った。次に献金が行われた。信者の一人が、黒い壷のような袋をもって、一人ずつ献金を無言で集め始めた。信者達は、財布を開けて、いくばくかの金を献金袋に入れていった。それが純の所に来た。純は奮発して大枚二千円を入れた。勿論、キリストや教会のためではなく、自分の歯科治療が痛くならないようにと、祈ってである。献金の次は、牧師の説諭だった。

進化論の否定だの、処女懐妊だの、キリストの行った奇跡、だの、甦りだの、を聞いているうちに純はバカバカしくなってきた。

『こんなものを信じているヤツはアホだ』

牧師の説諭を一心に聞いている信者達を見て純はそう思った。

「痛いっ」

奥歯の一本が痛み出した。

『せっかく二千円も、払ったのに、神はオレを救ってくれないじゃないか』

純は、歯の痛みに耐えながら、不愉快な気持ちになってきた。

三時間くらいして、やっと退屈なバカバカしい礼拝が終わった。

二人は教会を出た。

「ねえ。純君。お腹すいたわね。マクドナルドに寄って、何か食べていこう」

京子が誘った。別にことわる理由もないので純は京子と一緒にマクドナルドに入った。二人はチーズバーガーとアイスティーを注文した。

「どうだった。今日の講義?」

「バカバカしいの一言に尽きるね」

「そう」

京子は、寂しそうな表情でチーズバーガーをモシャモシャ食べた。

「宗教なんかじゃダメなんだ」

純は吐き捨てるように言った。

「ねえ。純君の悩みって、一体、何なの?」

少女は首を傾げて聞いた。

「もう、いいよ。僕はもう決心してるから」

「何を決心してるの?」

「死ぬのさ。死ねば僕の悩みは解決するんだ。もう、遺書も書いたし、死ぬ方法も決めているんだ」

「ええー」

京子は目を皿のようにして純を見た。

「じゅ、純君。純君の悩みって一体、何なの?」

京子は身を乗り出して聞いた。純はしばし迷っていた。が、こうまで熱心に自分を心配している京子のことだから、本心を言ってみようか、という気持ちが起こってきた。

「歯医者の治療が痛いから」

純はボソッと小声で言った。

「あははははは」

京子は吹き出して笑った。

「純君。歯医者の治療がイヤで死んだなんてことが、わかったら世間から笑われるわよ」

純はむっと京子を睨みつけた。

「君なんかに、僕の苦しみが分かってたまるか」

純は怒りを込めて言った。しばし京子は思案げな表情で純を見ていた。

「純君。それじゃあ、いい歯医者があるから、そこを紹介するわ」

「ふん。歯医者なんて、どこでも同じさ」

「それはわからないわ。純君の悩みが、何だかわからなかったから、教会に誘ったの。でも今度は、悩みの理由が分かったから、きっと今度は、悩みが解決するわ」

京子は自信満々の口調で言った。純は黙っている。

「ねえ。純君。行ってみて」

京子は純の腕を揺すって言った。京子があまりにも熱心に誘うので、純に、もう一度だけ試してみようという気持ちが起こってきた。

「じゃあ、行ってみるよ」

純はボソッと小声で言った。


   ☆   ☆   ☆


翌日の月曜日になった。

「はい。純君。これが歯医者の場所と電話番号」

そう言って京子は、歯医者の場所の地図と電話番号が書かれたメモを純に渡した。放課後、純は京子の紹介した歯科医院に行った。

ちょっと他の歯医者より、腕がいいか、優しい性格の歯医者なのだろう、と純は思った。だが。

『歯医者が変わったからといって、原因は自分の虫歯にあるんだから、治療が変わるわけでもない』

と純は、たいして期待していなかった。歯科医院の戸を開けると、受け付けには、きれいな顔立ちの女の人がいた。純は思わずドキンとした。

「初めてですか」

「はい」

「保険証は持っていますか」

「はい」

「では、これに記入して下さい」

彼女は純に問診表を渡した。純は、保険証を出し、問診表に記入して提出した。


患者は純一人しかいなかった。すぐに名前が呼ばれ、純は治療椅子に座った。歯科医が来た。まずレントゲンを撮った。

「あーあ。ほとんどの歯が虫歯になっている。これは治療が長引くよ」

院長は無神経に言った。受け付けのきれいな歯科助手が横についた。虫歯を削る歯科治療が始まった。気が小さい歯科治療恐怖症の純の口からは、激しい緊張のため唾液が、洪水のように次から次へとあふれ出た。歯科助手がそれを唾液吸引器で、吸いつづけた。やっと治療がおわった。

「はい。今日の治療は、これでおわり」

院長が言った。純は、ほっとした。

『別に前の歯医者と較べて腕がいいわけでもないし、性格が優しいわけでもない。いい歯医者でもなんでもないじゃないか』

純は京子が腹立たしくなってきた。今度、会ったら、うんと文句をいってやろう、と思った。その時、歯科助手がやってきた。

「歯石が多いので、とります」

そう言って、歯科助手は純の傍らに座った。

「はい。アーンと大きく口を開けて下さい」

言われて純は、目をつぶったまま口を大きく開いた。歯科助手が探針で、歯石をとり出した。何だか、その歯石のとり方が丁寧で、やさしくて気持ちがいい。まるで、かわいそうな純をなぐさめているかのようである。純は、だんだん、この歯石除去が気持ちがよくなってきた。純は少し、求めるように自分から大きく口を開いてみた。すると純の顎に柔らかくて温かいものが触れた。それは歯科助手の手だった。彼女は、そっと純の顎を片手で押さえて、歯石をとりはじめた。純は益々、興奮した。人差し指が、純の口唇に触れた。甘い感触に純は、ますます興奮した。

指は純の口唇を撫でるように、ゆっくりと動き出した。

純は、はっきりと歯科助手の意思を感じとった。彼女は純を弄んでいるのだ。純の興奮はいっそう、激しくなっていった。純は激しい興奮でハアハアと息が荒くなってきた。唇の内側からは、粘々した唾液が出始めた。それを面白がるかのように、歯科助手は指を純の口唇の上に這いまわらせた。純は、激しい興奮のため、勃起してきた。純は全身がガクガクしてきた。顎に乗っていた手は、だんだん純の頬を撫で出し、純の首筋から胸へ移動し、そっと純の手を握った。純は握られるままにまかせた。それは極楽の快感だった。純も歯科助手の手を握り返した。歯科助手は、片手で純の手を握りながら、ゆっくり弄ぶように、歯石を時間をかけて取りつづけた。

「はい。終わりました。口をゆすいで下さい」

そう言って歯科助手は、握っていた純の手を離し長い歯石とりをやめた。


純は真っ赤になって、そっと身を起こし、紙コップで口をゆすいだ。

「はい。今日の治療は、これで終わりです」

そう言って歯科助手は、紙のエプロンをとった。そっと見ると歯科助手がニッコリ笑っている。純は、恥ずかしくなって真っ赤になった。

「ありがとうございました」

純は小声で言って、治療室を出て、待ち合いのソファーに座った。

「次の治療はいつにしますか」

歯科助手が純を呼んで聞いた。

「い、いつでもいいです」

「では、来週の月曜はどうですか」

「はい。それでいいです」

彼女は純に保険証と診察券を渡した。それには、小さな紙のメモが添えてあった。それには、こう書かれてあった。

「よろしかったら表のデニーズで待ってて下さい」

純は吃驚した。一体、どういうことなのか。純は医院を出て、彼女の指示に従ってデニーズに入った。純はアイスティーを注文した。一時間くらいして、彼女がデニーズに入ってきた。彼女は、純と向かい合わせに座った。ウェイターがきたので、彼女もアイスティーを注文した。

「ありがとう。待っててくれて。今、医院がおわったところなの」

「い、いえ」

純は小声で返事した。

「ごめんね。さっきは悪戯しちゃって」

「い、いえ。すごく気持ちよかったです」

純は用事は何だろうと頭を捻った。

「よかったら私のアパートに来ない?私、純君が好きになっちゃったの」

「僕も、一目、見た時から、あなたに一目惚れしてしまいました」

「嬉しいわ。私、佐藤由美子っていうの。よろしくね」

「よ、よろしく」

「じゃあ。行きましょう」

二人はデニーズを出た。駐車場には由美子の車がとめてあった。由美子は純を助手席に乗せて、車を出した。純は夢のような気持ちだった。車は夕暮れの市街地を走った。30分ほど走って車は、ある寂しい一軒家の前で止まった。

「ここが私の借家なの。さあ、降りて。純君」

「はい」

純は車から降りた。由美子は、すぐ近くの駐車場に車を止めた。二人は家に入った。

「ああっ。好きです。由美子さん」

二人きりになるや否や、純は由美子に抱きついた。

「ふふ。私も好きよ。純君」

そう言って由美子は純の頭を優しく撫でた。しばし純は由美子の胸に顔を埋めていた。由美子は純を引き離し、ベッドに身を投げ出した。

「さあ。純君。さっきは私が純君に悪戯しちゃったから、今度は純君が私に好きな事をして」

そう言って由美子は目をつぶった。純はゴクリと唾を呑んだ。目の前に、女が横たわっているのである。こんな事は純にとって、生まれて初めての事だった。純は、ベッドに乗って、由美子の顔をいじくったり、髪の匂いを嗅いだり、太腿を触ったり、足指を一本、一本、開いてみたりした。

「純君。遠慮しないで、何でも好きな事をして」

由美子が言った。純は、服の上から、こんもり盛り上がった由美子の胸を触ってみた。柔らかい。由美子は目をつぶったまま、ブラウスのホックをはずした。こんもり盛り上がったブラジャーが露出した。純はブラジャーの上から由美子の豊満な胸をそっと触った。

次に純はスカートをめくってみた。パンティーが体にピッタリとフィットしている。純は興奮しながら、太腿やパンティーを触った。しかしそれ以上は出来なかった。純はウブなのである。

「由美子さん。お願いがあるんです」

「なあに」

「ビキニ持っていますか」

「ええ。持ってるわよ」

「ビキニに着替えてもらえないでしょうか。由美子さんのビキニ姿が見たいんです」

「わかったわ」

由美子は起き上がって、洋服箪笥を開け、ビキニをとり出した。

「純君。ちょっと後ろを向いてて」

言われて純は後ろを向いた。ガサゴソ服を着替える音がする。

「もう。いいわよ。純君」

純は振り返った。心臓がドキドキ高鳴った。スラリとした、抜群のプロポーションにセクシーなビキニがぴったりフィットしている。

「ああっ。素敵だ。由美子さん」

純はベッドから降りて、由美子の太腿にしがみついた。純にとって、最も興奮するのは女のビキニ姿だった。純は太腿に頬ずりしたり、尻を撫でたりと、ビキニ姿の由美子の体を触りまくった。

「あん。純君。そんなに触りたいのなら、ベッドの上で触って」

そう言って由美子は、ゴロンと、ベッドの上に体を投げ出した。

「ああっ。由美子さん」

純は餓えた野獣のように由美子に襲いかかった。もし下着だったら純は、襲いかかれなかっただろう。ビキニは実質的には下着と同じだが、下着の女に襲いかかることは、劣情からであり、してはならないことだが、ビキニの女の体は触ってもいいというのが、社会通念である。そして人間は実質よりも、社会通念を無意識の内に常識として受け入れてしまうのである。純はビキニの由美子の体を触りまくった。臍を舐めたり、尻を触ったり、太腿を抱きしめたりした。

「ふふふ」

由美子は余裕で笑っている。しかし純は、やはり、自分のしている行為は、はしたない行為だと恥ずかしくなってきた。それで純は考えを変えた。

「由美子さん。うつ伏せになって下さい」

純は言った。由美子は純に言われたように、クルリと体を反転させ、うつ伏せになった。

「ではマッサージします」

そう言って純は足の裏の指圧から始めて、脹脛、太腿、尻、背中へと力を込めてマッサージしていった。大きく盛り上がったヒップを眺めながら。女の体を網膜に焼きつけるように眺めながら。また、女の体の感触を隅々まで確かめるように。

「力、強くないですか」

純が聞いた。

「ううん。すごく気持ちがいいわ」

由美子はうつ伏せのまま、力を抜いて、純に体を任せている、といった様子である。純はマッサージしながら柔らかい女の体の感触を心ゆくまで楽しんだ。

「では、今度は仰向けになって下さい」

言われて由美子はクルリと体を反転させ、仰向けになった。純は今度は仰向けの由美子をマッサージしていった。由美子は気持ちよさそうに目をつぶって純に身を任せている。アソコの盛り上がりが何とも悩ましい。今まで週刊誌のグラビア写真でしか見れなかったものを、今は、目の前で実物をしっかり見ているのである。まさに夢、叶ったりである。純は太腿の付け根を念入りに指圧しながら、女の盛り上がった部分を目に焼きつけるように、しっかりと見た。純は激しい興奮によって、ビンビンに勃起していた。太腿の次は、胸郭を押したり、華奢な腕を揉んだり、掌を指圧したりした。由美子の美しい顔をまじまじと見ながら。女の体は太腿に比べて腕の何と華奢なことか。ちょっと力を入れすぎたら折れてしまいそうなほどに見える。しかし、そのアンバランスが非常に美しく悩ましい。そんなことを考えながら純は、時の経つのも忘れ、一心に由美子をマッサージした。

「ありがとう。純君。もう、疲れたでしょう」

そう言って、由美子は目を開けて、ゆっくりと起き上がった。

「気持ちよかったわ。ありがとう」

由美子はニッコリ笑って純の手を握った。

「ありがとうございます。由美子さん」

純も礼を言った。時計を見ると、もう九時になっていた。

「純君。もう、こんな時間になっちゃったから、家に帰らないと」

「はい」

由美子はベッドから降りた。

「純君。すまないけど、ちょっと後ろを向いてて」

「はい」

純は後ろを向いた。ガサゴソ服を着替える音がする。たとえ、裸同然に近いビキニ姿を見られた後でも、女にとっては、着替えを見られるのは恥ずかしいものである。

「もういいわ。純君」

由美子に言われて純は振り返った。由美子は、ブラウスにジーパンを履いていた。

「さあ。純君。もうこんなに遅くなってしまったから今日は帰りましょう。車で送るわ」

「はい」

そうして二人は家を出て、車に乗った。由美子は、純に家の住所を聞いて、カーナビで目的地にセットした。真っ暗になって、車の流れも無いので、すいすいと走った。30分くらいで純の家に着いた。

「今日はどうも、ありがとうございました。今日は僕にとって生まれて最高の日です」

そう言って純はペコリと頭を下げた。

「私もよ」

由美子はニッコリ微笑んだ。

「さようなら。純君。来週の月曜日に、また会いましょう」

そう言って由美子は純を降ろし、Uターンして、家に向かった。純は夕御飯を温めて食べた。そして部屋に入った。もう11時になっていたので、勉強しないで寝ることにした。

その晩、純は、布団に入っても、由美子のビキニ姿が何度も頭に再現されて、なかなか寝つけなかった。否。というよりは。純は、ことさら由美子のビキニ姿を思い出して、最高の快感の余韻に浸った。


   ☆   ☆   ☆


翌日になった。

学校で昼休みに京子が純の所にやってきた。そして、こんな会話がなされた。

「どうだった。あの歯科医院」

「うん。すごく良かったよ」

「それはよかったわね」

「僕の負けだ。やっぱり神様っているんだな」

「じゃあ、来週も教会、行く?」

「うん。行くよ。君は僕の命の恩人だ。君には一生、感謝しなければならないな」

こうして純は敬虔なクリスチャンになった。京子は嬉しそうである。


   ☆   ☆   ☆


さて、その日の晩。由美子の家。

京子と由美子が食卓で向き合って食事していた。テーブルには、ホカホカの御飯と、白身魚とサラダと味噌汁がのっていた。

「お姉さん。どうも有り難う。私の頼みを聞いてくれて」

京子が微笑して言った。

「ううん。あの子、素直でかわいいわ。私も楽しくなっちゃった」

由美子が言った。

「でも、あんまり深入りしないでね。純君は、将来、東大法学部を出て、大蔵省の官僚になるんだから。お姉さんに夢中になってしまったら、きっと勉強が手につかなくなっちゃうわ。私は彼と結婚して、官僚夫人になるんだから」

京子が白身の魚を切りながら言った。

「京子もちゃっかりしてるわね。でも、深入りしないで、と言っても、どうすればいいの。あの子、もう私に夢中になっちゃってるのよ。適度な頃合に、冷たい態度をとるようにすればいいの?」

由美子が眉を寄せて京子の目を覗き込んで聞いた。あわてて京子は手を振った。

「それはだめよ。そんな事しちゃ。彼がまた傷ついちゃって、落ち込んじゃうわ。彼にとってお姉さんは女神なのよ。お姉さんはあくまで彼の女神のままで、いなくなってくれなきゃ」

そう言って京子は白身魚を口に入れた。

「じゃあ、どうすればいいの」

由美子が聞き返した。

「適度な時間が経ったら今の歯科医院をやめて。交通事故で死んだことにして。そうすれば彼も納得するわ」

京子は魚をモグモク噛みながら言った。

「でも、彼がこのアパートに来たらどうするの?」

由美子がさらに聞いた。

「だから、その頃にアパートを引っ越して」

京子は白身魚をゴクンと飲み込んで言った。

「やれやれ。全く手間がかかるわね」

由美子がため息をついて言った。

「ごめんね。お姉ちゃん。一生のお願い。私も引越し、手伝うから」

京子は手を合わせてペコリと頭を下げた。

「やれやれ。わかったわ」

そう言って由美子も食事を食べ始めた。


   ☆   ☆   ☆


翌日になった。

純は清々しい気分で元気で学校に行った。純の目は生きようという強い生命力の活気に満ちていた。昼休み。京子が純の所にやって来た。

「どう。純君、元気」

「ああ。元気だよ。この頃、僕は、人生は、どんなに辛くても生きなきゃならないと思うようになれたんだ。君のおかげだよ」

「そう。それは良かったわね。でも、何でそういうふうに気持ちが変わったの」

「そ、それは、ちょっと秘密」

純は照れくさそうに笑った。

「純君。お願いがあるんだけど・・・」

「なあに」

「さっきの物理の授業でわからない所があるんだけど教えてくれない?」

そう言って京子はノートを広げた。

「うん。君は僕の命の恩人だからね。わからない事は何でも教えてあげるよ」

そう言って純は京子に懇切丁寧に教えた。

「ありがとう」

京子はニコッと微笑んで、礼を言って去って行った。


   ☆   ☆   ☆


そして三ヶ月が経ったある日のことである。その日、学校で純は憔悴していた。俯いたまま、まったく無気力な様子だった。授業中もうつむいたまま、黒板も見ず、ノートもとろうとしなかった。

「おい。純。どうしたんだ」

と授業中に担任教師が聞いた。だが、純は黙っていた。昼休みに京子が来た。

「どうしたの。純君」

京子が訝しそうな目で聞いた。

「い、いや。何でもない」

純は首を振った。だが、だんだん頭が垂れてくる。

「純君。どうしたの」

京子が何度も聞くので純はやっと重たい口を開いた。

「君のおかげだから、君には正直に言っておくよ。実は、君が紹介してくれた歯科医院に一人の歯科助手の女の人がいたんだ。すごく優しかったんだ。まるで天使のような人だった。彼女は僕を彼女の家にまで入れてくれた。僕はそれで救われたんだ。でも・・・」

と言って純は口を噤んだ。

「でも、どうしたの」

京子はつづきを催促した。

「しかし、その人がいなくなっちゃったんだ」

純の目尻には涙が浮かんでいた。

「どうして」

京子は理由を尋ねた。

「交通事故で死んでしまったのさ。僕は信じられなかった。しかし、彼女のアパートに行ったら、もう彼女はいなかった。大家さんに聞いてみたけど、やはり死んでしまったらしい」

そう言って純は、ふうとため息をついた。

「そうだったの。それは気の毒ね」

京子は同情的な口調で言った。

「だから、もう、僕には、生きがいがなくなってしまったんだ」

純の目から涙がこぼれた。

「純君」

京子は大きな声で呼んだ。

「なに」

純は俯いていた顔を上げた。

「でも、交通事故では、仕方がないじゃない。純君。その女の人は天国から、純君のことを、いつまでも優しく見守っているはずだわ。その女の人こそ、若いのに死んでしまうなんて、可哀相すぎるじゃない。純君。その女の人は、純君の心の中で行き続けるわ。彼女の死を無駄にしないためにも、純君がしっかり生きなきゃダメよ」

京子は力強く純を励ました。しばし純は黙っていたが、決断したようにキリッと顔を上げた。

「そ、そうだね。その通りだ。よし。僕は彼女の分まで雄々しく行き抜くぞ」

純は雄々しい口調で言った。

「そうよ。そうしてこそ、彼女も天国で、きっと喜ぶわ」

京子は純の手をギュッと握った。

「よし。僕は頑張って行き抜くぞ。彼女の分まで」

その声には、生きようとする人間の雄々しさがこもっていた。

「そうよ。その意気よ」

京子は力強く純を励ました。純は、気を取り直して、教科書を開いて勉強を始めた。純のつらい歯科治療は、その後もつづいたが、純は、ケースに入れた由美子の写真を、ギュッと握りしめて歯科治療の痛みに耐えた。


純は、一心に勉強に打ち込んだ。成績はぐんぐん上がった。そして、大学受験では、念願の東大文科Ⅰ類に入った。だが合格発表で自分の名前を見つけても純はたいして嬉しくなった。模擬試験で、十分、合格の判定が出ていたからだ。

大学に入った純は、友達もいないし、趣味もない。ので、一心に勉強した。教養課程では、誰も出ない授業にも純だけは出た。純は合コンにも誘われたが、断った。なぜなら、純が永遠に愛する唯一の女性は、天国にいる由美子だったからである。


そして大学時代に必死に司法試験の勉強をして合格した。そして在学中に合格した。そして、東大法学部を主席で卒業した。そして、大蔵省に入省した。純は国民貯蓄課に配属された。大蔵省は、各省庁の中でも一番の権限をもつ。なにせ、日本の予算を実質的に決めているのは、大蔵省だからである。そのトップは事務次官である。純には、出世の野心は無かったが、何事にも勤勉なので、昼間、だらけている官僚達をよそに、日本の予算の本当のあるべき配分を研究していた。そのため上司からもかわいがられた。まさにエリートコースの見本のようだった。


   ☆   ☆   ☆


ある日曜日のことである。

純は、散歩がてら、ある喫茶店に入った。そこは純のいきつけの喫茶店だった。純は、親に、見合いを何度も勧められたが、全部、断った。なぜなら、純が永遠に愛する唯一の女性は、天国にいる由美子だったからである。純は、一生、由美子を心の中で愛し続け、独身を通す固い決意をしていた。

純はコーヒーを啜りながら高卒以来の8年の歳月の感慨にふけっていた。

「ああ。もう、由美子さんが死んでから8年経ったんだな」

純はため息をついた。

外をぼんやり見ていると一人の女性が純の方にやってきた。

「あ、あの。座ってもよろしいでしょうか」

突然、声をかけられて純は驚いて振り向いた。純は吃驚した。なんと京子だったからだ。

「や、やあ。京子ちゃん。久しぶり。座って」

京子はチョコンと、純と向かい合わせに座った。

「純君。久しぶり」

京子は笑顔でペコリと頭を下げた。高校卒業以来、8年ぶりである。純は驚いて目をパチクリさせて京子を見た。なんと8年、会わないうちに、京子の顔が高校の時とは見違えるほど美しく変わっていたからである。さらに、驚いたことがあった。それは、なんと京子の顔に、純の永遠の女神である由美子の面影が、はっきりと感じとれたからである。純は信じられない思いだった。

「いやー。京子ちゃん。きれいになったねー。吃驚したよ」

京子は、照れくさそうに微笑んだ。純が、京子の顔を、あまりにも、まじまじと見るので、京子は照れくさそうに顔をそらした。

「ど、どうして、そんなに私を見つめるの?」

純は、ちょっと躊躇したが、決断して、きっぱりと言った。

「実はね、高校の時、君が歯医者を紹介してくれたでしょ」

「ええ」

「あの時、優しくしてくれた、僕の永遠の女神である、由美子さんに君の顔がとても似てるんだ。そっくり、と言ってもいい。世の中には不思議な事があるもんだなー」

純は目を皿のようにして京子の顔を覗き込んだ。

「不思議じゃないわ」

京子は微笑んで言った。

「どうして」

「だって、私は由美子の妹だもの」

「ええー」

純は、吃驚して言葉につまった。

「一体、どういうことなの。教えて」

純はなにがなんだかわからなくなって、急かすように言った。

「純君。ごめんなさい。実は私が仕組んだことなの。純君が歯科治療で死ぬとまで、落ち込んでるものだから、歯科助手をしていた、お姉ちゃんに頼んだの。純君に優しくしてあげてって」

京子は種明かしをしてペコリと頭を下げた。

「そうだったのか。どうりで優しすぎると思ったよ」

純は、少しがっかりした。由美子の純に対する優しさが、演技だったと思うと。はー、と純はため息をついた。

「純君。でも、そんなにがっかりすることないわ。お姉ちゃんは、純君が、可愛くて仕方がない、と言っていたわ」

京子は純を励ますように言った。

「ほんとう?」

純は目を細めて聞いた。

「本当よ。私がこの耳でちゃんと聞いたんだから」

京子は自信に満ちた口調で言った。

「そう。それなら僕も嬉しいよ」

純は再び、笑顔を取り戻した。純は昔の事を思い出そうと頭を捻った。

「で、お姉さんは、本当に死んじゃったの。それとも、生きてるの?」

「あのね。交通事故で死んだっていうのは、ウソだったの。純君が、お姉さんに夢中になってしまったら、きっと勉強が手につかなくなっちゃうと思ったから。私が引き離しちゃったの」

「じゃあ、お姉さんは、生きてるんだね」

純は目を見開いて身を乗り出した。

「それが・・・」

と言って、京子は言いためらった。

「それが、純君が、大学に入学した年に交通事故で死んじゃったの。つまり、ウソが本当になっちゃったの」

京子は悲しそうに俯いて言った。

「ふーん。そうだったの」

「ところで、純君は、まだ虫歯の治療をしているの」

京子はいきなり話題を変えた。

「うん。先天性象牙質脆弱症候群は、一生、虫歯の治療をしつづけなくちゃ、いけないんだ。僕の宿命さ」

ははは、と純は自嘲的に笑った。

「今の歯医者はどう?」

「つらいさ。由美子さんのような、優しい歯科助手がいないからね」

「じゃあ・・・」

と言って、京子は、ゴクリと唾を呑んだ。

「いい歯医者があるんだけど、そこに行ってみない」

「またかい。今度も君が、いい歯科助手を見つけて、僕に優しくしてって裏で頼むんだろう」

純は皮肉っぽい口調で言った。

「そんな事しないわ。腕がいいかどうかは、わからないけど、純君に、本心から優しい歯医者さんがいるの」

京子は熱心に訴えた。

「今度は歯科助手じゃなく、歯医者か。一体、誰だい?」

純はコーヒーを啜りながら、なげやりな口調で聞いた。

「あ、あの。わ、わたし」

京子は顔を赤らめて小声で言った。

「ええー。一体、どういうこと。君は、早稲田大学文学部に入ったんじゃないの?」

純は目を丸くして言った。

「え、ええ。早稲田大学にも合格したわ。でも第一志望は東京医科歯科大学だったの。それで必死になって勉強したおかげて、一浪して東京医科歯科大学に何とか入れたの」

「じゃあ、君は歯科医なんだね」

純は聞いた。

「え、ええ」

京子は慎ましい口調で答えた。

「どうして歯科医になりたいと思ったの」

純は眉を寄せて聞いた。京子は顔を赤らめた。

「あ、あの。純君が好きだから。私が優しく純君を治療したいと思って・・・」

京子は恥ずかしそうに顔を赤らめて言った。純は、あっけにとられたように京子を見た。

「僕のために、そこまでしてくれるなんて・・・。ありがとう。君に治療してもらうよ。よろしくお願いします」

そう言って純はペコリと頭を下げた。

「でも腕がいいか、どうかは、わからないわ」

そう言って京子は悪戯っぽくペロリと舌を出した。

「悪くたってかまわないよ。僕は、今、最高に幸せだよ」

純は元気よく言った。

「私も」

京子は小声で寄り添うように言った。


   ☆   ☆   ☆


その年の暮れ。東京医科歯科大学付属病院で、一人の女医が同年の男の治療をしていた。二人は一ヶ月前に結婚した新婚ホヤホヤの夫婦である。

「あなた。アーンと口を開けて」

女医が言った。

「はい」

男は気さくに返事した。夫は、言われたように口を大きく開けた。

「じゃあ、治療を始めますよ。ちょっとでも痛かったら、すぐ左手を上げてね」

「はい」

夫は嬉しそうに返事した。そこには歯科治療を怖がる様子は少しもなかった。

むしろ、男の顔は歯科治療を楽しみにしているかのようだった。

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虫歯物語 浅野浩二 @daitou8

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