ホーム・スイート・おべやしき

春倉らん

 

 日当たりのいい、とても広い部屋。

 カーテンもソファもテーブルもない、フローリングがひろびろと見えているリビングで、季乃きのは一人、周囲を見渡していた。

「いい家……じゃん」



 話は三〇日ほど前にさかのぼる。



「いやー、いい家ですねー」

 ほけほけと、男はお気楽に言った。季乃は頭にきて、

「どこがよ! 広いのはいいけどどこもガタピシ、スキマ風が通るでしょうが!」

 引っ越しのダンボールをどんどん開き、収まるべきところに収めていく。

 この男が、『せめて素敵な家で暮らしたい』と発作的に言うので、引っ越した。

 古い古い木造の一軒家だった。お屋敷といっていい建物と敷地で、庭も広いが、草ボウボウ。もみじが赤くなっているのだが、その赤もボウボウの中にちょこちょこ見えているだけという残念さだ。

 互いに大学生で、どこからこんな立派な家に住める財力が、と疑われるような年齢にすぎないが、この男は御曹司。

 使えるお金がありあまり、短い一生では使い切れそうもない、というご身分。

 ちなみに季乃の彼氏なのである。

 結婚はしていない。

『だって責任とれないそうもないですからー』

 と男が言ったから。そんな理由だった。

 寂しいこと言わないでよ、責任なんて取らなくていいから、と季乃は思ったものだが、

『親族に遺産狙いだと言われたりして面倒だよ? きっと。だいじな季乃さんに、そんな厭な想いさせたくないなあ。人生、楽しく過ごしたいよねー?』

 と言われて、ああ……、と引き下がった。

 男の名前は雪乃丈。

『ぼくの名前は季乃さんを抱きしめてるんですねえ。ね?』

などと、こっぱずかしいことを、へらへらと幸せそうに語る男だった。

 だいたいいつも、どことなく楽しそうな男なのだ。

 今も、荷ほどきを手伝いもしないで、

「いやいや、いい家ですよ。スキマ風が通るってことは、冬になったら寒いってことでしょう?」

「寒い家のどこがいい家なのよ!」

「それを理由に季乃さんとひっついていられるから、いい家ですよ」

「もう」

 ぺたー、とくっついてくるので、季乃は嬉しいながらも、そこは照れのほうが勝ち、

「しっしっ、まだ荷ほどきの途中!」

 笛でもあったら吹きたいし、白手袋があったらして、指さししたい。

 交通整理みたいに、雪乃丈をあっちこっちとキビキビ動かすことができたら、どんなにいいだろう。

 とろとろと動きのとろい雪乃丈だ。

 ダンボールのテープを一カ所、びびびー、と開封するだけで、たっぷり4分44秒くらいかかる。

「雪乃丈さーん、この家、スキマ風だけじゃなくて、サッシこんなだし壁も屋根も断熱悪そう。やっぱ、どこがいい家?」

「いやいや、いい家ですよ。断熱悪いってことは、夏になったら暑いってことでしょう?」

「暑い家のどこがいい家なのよ!」

「それを口実に季乃さんと素裸で抱き合えますから、いい家ですよ」

「もう」

 ぺたー、と再びくっついてくるので、季乃は根負けして、しばらく抱っこされてやる。

 やっぱり照れるのだが、嬉しくもあった。

 代わりに鳥かごのオウムの緑太郎りょくたろうが、

「ハズハシイ、ハズカシイカラヤメテーッ!」

 オウムというのは、印象的な音だと一発で覚えてしまったりする。

 いつぞや季乃が叫んだのが、印象的だったらしい。

「いやその叫びを覚えられていることが恥ずかしいな!?」

 季乃は一生の失敗だった気がしている。何故、雪乃丈と初めて一緒に布団に入る夜にオウムの籠など近くの部屋に置いていたのだろう。



 そんなふうにして始まった二人の新たな同棲場所での生活は、一週間後、破綻した。



「もういやー! この家に帰ってきたくなーい!」

 季乃は絶叫していた。

 あんなにだだっぴろかったリビングが、すっかり汚部屋になっていた。

 本。雑誌。衣服。家電。布団。バッグ。調理器具。文房具。標本。趣味のグッズ。

 混然一体となった小山の裾が、四方の壁に接触する勢い。

 恐ろしいのは、これが雪乃丈が前の家からすべて移動させてきたもの、という点だ。

 雪乃丈は、前の家に築いていた汚部屋を、この家にそっくり引っ越しさせただけだった。

「何考えてんの!? ついでに整理もできるからって引っ越したんじゃなかったの!? バカなの!?」

「季乃さんの罵倒が聞けるから、この家はいい家です」

 ほけほけと、雑多なモノの海の中で、雪乃丈は本を開いて、楽しそうにしている。肩にはオウムの緑太郎を乗せている。

「ふざけるなーっ!!」

 この事態のさらに怖いところは、これがこの広い屋敷の他の部屋も、順番に浸食しつつあるという点だ。既に三つの部屋が、この雑多な物品の海に呑まれた。

 最初の数日は、季乃はがんばって、海の浸食を阻止しようとしたのだ。

 整理を手伝い、分別し、ゴミ収集所へ持って行く補助をした。けれど速度がぜんぜん足りなかった。

「まあまあ。季乃さん、こういう考え方もありますよ。僕の死後、まとめて業者さんに捨てて貰えばいいかなーっと」

「あんた死ぬまで汚部屋拡大し続ける気かーっ!」

「じゃあ、もうしばらくおかたづけごっこしますか?」

「ごっこじゃなーい! それに私、忙しい」

 季乃はがたん、ごとん、とそこらのものをひっくり返して、捜し物をしていた。

「おっかしーなー、テーブルの上に置いてたのが落ちたとすると、この辺なんだけど」

「なーにー?」

「絵本。明日の授業で提出するの。大事な課題だから、引っ越し前に仕上げて、荷物にいれたのを出しといたんだけど」

「あ」

「待って。その『あ』って」

「落ちてたところへ、緑太郎が粗相したので、こんな状況です。汚部屋に鳥籠は相性が悪かったらしく」

 餌の穀物と水にまみれ、ゆがみ、糞までついた成れの果てを両手で捧げ持って見せられて、

「もういやーっ! こんな家、いやーっ!!」

 季乃はマジ泣きした。

「ハズハシイ、ハズカシイカラヤメテーッ!」

 驚いたからか、喜んでか、緑太郎が叫んで飛びって、羽根が汚部屋にヒラヒラ散った。



「うっうっ」

 泣きながら季乃は、徹夜で課題の絵本を作り直した。

「これこのように折り紙が出てくるから、この家はいい家です」

 雪乃丈はマイペースで、楽しそうだ。季乃があれが必要なのにない、と泣きそうになるたびに、次々に文房具や素材を取りだす。

「これこのように色セロファンも布も糊も出てくるから、この家はいい家です」

「……もとはと言えば、あんたが汚部屋にしてたせいだからね?」

 怒り、泣きそうになりなりながら、どうにか季乃は、夜明けと同時に完成させた。

「間に合わないかと思った……」

 出来た途端に、泣いてしまった。

「よしよし、よく頑張りましたー」

と、雪乃丈が、混迷を極める物品の中から上等のコーヒー豆の袋を出して、キッチンで煎れてくれた。

「いや、あんたのせいなんだけどね!? ……でもまあ、汚部屋の主が、汚部屋の中身を完全に把握しているタイプの主でよかった」

「ふふふ」

「モウイヤーッ! コンナイエ、イヤーッ!!」

「あ」

 二人して、顔を見合わせた。

 叫びが印象的だったのか、緑太郎は一発で覚えてしまったらしい。

「寝起きの第一声がそれとはね」

 別の暗い部屋に置いていた鳥かごを持ってきて、二人で水を替えたりの世話をしつつ、

「なんか変なレパートリーができちゃったなあ、お前。『いい家! ここはいい家!』これ覚えないですかねー?」

 と雪乃丈が言い、季乃は、

「無理じゃない?」

 雪乃丈はその日、季乃が大学に行って帰ってくるまで、緑太郎に向かって繰り返していたが、やはり覚えてもらえなかった。



 そんなことがあって三週間後。

 雪乃丈は、かねてより病気で医者から宣告されていた余命ちょうどぴったりを全うして亡くなり、季乃は、屋敷に一人になった。



 日当たりのいい、とても広い部屋。

 カーテンもソファもテーブルもない、フローリングがひろびろと見えているリビングで、季乃(きの)は一人、周囲を見渡していた。

「いい家……じゃん。……なんて、とても言えないよ、雪乃丈さん」

 雪乃丈の物品は、家族が保存するとかなんとかで、きれいさっぱり持って行かれてしまった。迅速に、手際よく、業者を使って。

 季乃からすると、煙のように、雪乃丈のいた痕跡が、消えてしまった。

「スキマ風で寒い冬、来ないよ、雪乃丈さん」

 季乃は雪乃丈がいつもいたあたりへ向けてつぶやいた。

「寒いのを理由にひっついていられる冬……来ないよ」

 言葉にすると、力が抜けてしまいそうになった。

「断熱悪くて暑い夏も、来ないよ、雪乃丈さん。暑いのを口実に私と抱き合える夏、来なかったよ、雪乃丈さ……」

 もう立っていられない。

 嗚咽がこみあげ、口を覆う。

 抱きしめて一緒に連れて行ってくれてもよかったのに。

 一人残していくなんて。

 もう何も、独り言にも言うまいと、辛くなるだけだからと歯を食いしばる季乃のそばで、

「モウイヤーッ! コンナイエ、イヤーッ!!」

 緑太郎が羽根をバタつかせた。

「ふふ……あははははは」

 笑い泣きに、顔を覆った。

 楽しそうだったのは知っている。

 けれど、ほんとうに楽しかった? 

 楽しかった?

 そうであって欲しい。

 楽しかった?

 雪乃丈さん。

 この家は、いい家だったな、と季乃は深く思った。

 雪乃丈が居たから。

 雪乃丈と一緒の家が、季乃はよかった。

「雪乃丈さんにとっても、いい家だった?」

 どうかそうであって欲しい。

「モウイヤーッ! コンナイエ、イヤーッ!!」

 緑太郎が覚えてしまうほどの叫びをあげるような季乃がいる家が、雪乃丈にとってもいい家だったと。

 季乃は、信じたいと思って、しばらく泣いていた。



               <END>







 

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