終章
夜の甲板
俺は食堂でいれてもらったコーヒーを両手に、自動車運搬船の中をうろうろしていた。といっても乗組員とは違い、ついでで乗せてもらっている俺達が入れる領域は、そう多くはない。
海が静かなこともあり、この巨大な船の中はほとんど揺れもなく、船の中にいるのだという実感がいまいち薄かった。
船室のあたりに姿がないことを確認した俺は甲板へと出て、柵に凭れて、船の後方を眺めている男の姿を発見した。
「どこに行ったのかと思ったぞ、ヴィンス」
声をかけると、彼は振り向いて、「ごめん」と笑う。
現在時刻は夜の九時。辺りはもう真っ暗で、船から漏れてくる光と、月と星の明かりだけが輝いている。外は寒いかもしれないと思っていたが、南方へ移動している分、どんどん暖かくなっているようで、海風が気持ち良い。
「ほら、コーヒー淹れてもらってきた。ちょっと冷めてるかもしれないが」
俺はそう言いながら、片方のカップを差し出した。自分でもカップに口をつけ、ヴィンスの隣に立つ。
「ありがとう。美味しいね」
コーヒーを一口飲み、ほっとしたようにヴィンスが呟いた。
「そうだな……ヴィンスが淹れた方が美味しいとは思うが」
俺の言葉に、彼は驚いたように目を瞬いて、声をたてて笑う。
「アルン国についたら、また淹れるよ。とびきり美味しいやつ」
頷きながら、俺はコーヒーカップを側に置き、ヴィンスの方へ向く。
「手を出して」と促すと、素直に出された手の包帯を外してみる。そこにはすでに、傷跡すら残っていなかった。驚異の回復力だ。ずっとわかっていたことだが、本当に彼は人間ではないのだ。
美しい肌が戻っていることに安堵しながら、もう片方の手も交代で出させて、包帯を取り去っていく。
「せっかくユージが巻いてくれたのに、ちょっと寂しいな」
そんな冗談を言うヴィンスに、俺は笑う。
「そうそう怪我をすることもないだろうからな。ヴィンスは、アルン国には行ったことあるのか?」
処置を終えると落ち着いた気持ちになって、俺は海の向こうへ目を凝らす。月明かりに照らされた海面がキラキラと光っているだけで、その闇の向こうに何が見える訳でもない。けれど、ヴィンスが後ろを見ていた理由が、俺にもわかる。
「どうだろう。あるのかもしれないけれど、記憶にはないな」
「でも、知ってはいたんだろう? 神が安全にいられる国だって」
問いかけると、ヴィンスは黙って頷いた。行こうとは思わなかったのか、とは聞かなかった。彼が自分の保身だけを考えるような男なら、俺もここまでやろうとは思わなかっただろう。
「ノラも、トイも……あと他二人にしか会っていないが。お前が誘拐していた子供達の人選、間違っていなかったと思うよ、俺は」
俺の胸ポケットには、未だに警察手帳が入っている。持っていたってもう意味はないのに、捨てられなかった。だが刑事という立場をかなぐり捨てて、俺にはこの台詞が言える。
「トライデア・ホテルがあったところ、昔は教会があったんだろ」
俺が勝手に話していることを、ヴィンスは聞いている。
「ノラがさ、お前が誘拐していた子達と一緒に、何とかして、ショド岬に教会を建てるんだって言っていた。さすがに、あのホテルを潰しての教会再建はできないからって」
ヴィンスが目を見開いた。月のような銀の瞳がいっそう輝いて、とても綺麗だと思う。
「お前が尽力した十年は、ミミサキ市に種を植えたよ」
「……ありがとう、ユージ」
海風に吹かれ、顔にかかる髪を抑えて、ヴィンスは微笑む。その柔らかな表情につられて、俺も目を細めていた。
「アルン国、どんな所だろうな。年中暑い国だっていうのは知っているが」
「行ったら、しばらくあちこち観光しようか。ユージは他の国に行ったことはあるの?」
俺は首を振る。海外旅行なんて余裕は、金銭的にも時間的にもなかった。俺はひどく狭い世界で生きていたのだと、見渡す限りの水が広がる、この海のど真ん中で思う。
「きっと、ヤマ国では見られなかったものが見られるね。色々なカルチャーショックを受けるかも」
「そうだろうな、始めて行く海外が、いきなりアルン国じゃ」
ヴィンスがそっと顔を上げた。
「楽しみだね」
その言葉に、胸の奥から形容し難い感情が湧き起こる。
「ああ、楽しみだな」
また、コーヒーを一口。
飲み慣れた缶コーヒーとも、ヴィンスが淹れてくれたものとも違う味だ。
潮風に混ざる、異国の香りがした。
終
ミミサキ市の誘拐犯 三石 成 @MituisiSei
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