記憶の残骸

Hiro Suzuki

第1話

生きること 、それは他人であることだ 。

感覚することですら 、昨日と同じように今日も感覚するなら可能ではない 。

昨日と同じことを感覚することは 、感覚ではない 。

──それは昨日感じたことを今日想い出すことであり 、昨日は生きていたのに 、今では失われてしまったなにかの 、生きた死体であることだ 。

フェルナンド・ペソア

 11月。それは僕の住む街でいちばん美しい季節なのかもしれない。紅葉や銀杏の落ち葉を踏み締める音とカラヤンが指揮するマーラーのシンフォニアno.5 第四楽章がぴったりと寄り添う。く渋谷駅の喧騒から逃れるかのように南青山方面へと彼女の手を引く。アルマーニやティファニーの店を横目に僕は彼女に、そんな陳腐な高級店は何の意味も今はないんだ、と言うと、そうね、目の前に広がる多彩な色の前には資本主義も勝てないわよ。そう言い切って僕と彼女は陸橋を駆け上がり、タブッキの広げた両腕に広がる平日午後の青とオレンジを見つめ、僕達はインドの砂浜に戻り、彼女は僕の少し前を裸足で歩く。これは夢なの?僕が彼女に尋ねると、彼女は後ろを振り返ることなく、記憶の残骸が夢なのよ。と言いそのまま水平線に浮かぶヨットへと戻っていった。


 おかしな夢だった。僕はその夢の中に出てきた女を男に変えて妻に話した。その男の人はどこから来たの?渋谷からだと思う。でも砂浜まで一緒に戻って来たじゃない。しかも、インドよ。僕と彼女は渋谷まではどこか海沿いの街から電車できたのかもしれない。そう、、、不思議ね。わたしは出てこなかったの?夢を見ない妻の寝息が聞こえ始めた。いや、出てこなかったよ。ナイチンゲールが窓際に止まる。僕が君に気付かなかっただけで、あるいは君も気付かなかったのかもしれないけれど、僕のそばにいたのかもしれない。


 眠りに落ちた妻を起こさぬよう、ベッドから抜け出し、僕は浴室へ行った。空っぽの白いエナメルのつるつるした浴槽にそのまましゃがみ込み、膝を抱えた。目を閉じて、もう一度砂浜を歩いてみた。女もナイチンゲールもいない。誰もいない真昼の砂浜で僕は考える。このまま僕は何も変えることなく、運命を決定付けていくのか。砂浜を歩いた女の別れ際の言葉を僕は考えることにした。記憶の残骸が夢なら、夢を見ない妻の記憶はどこかに流れ着いたのかもしれない。持ち主である彼女の元に戻ることなく、目の前に転がる丸石や、波の泡に戻されていることだってあるかもしれないけれど、彼女の記憶の残骸は窓際のナイチンゲールに宿っているかもしれない。


 波の泡を見つめるのをやめて僕はまた砂浜を歩き出す。すぐ前方には別れた女がいて、僕に手を差し伸べた。彼女は僕の手を引いて、無邪気に駆け出した。あなたって変な人ね。どうして?傲慢で何でも自分の思う通りにやりたがるくせに、寂しがるし、自分では傲慢だと思ったこともないのでしょうけれど。僕はそんなに傲慢?傲慢よ。あなたが理性的になっていたら、あんなことも起こらなかったし、彼女もあなた自身も傷つかなかったでしょ?そうかもしれない。でも、それはもうとっくに終わった話なんだ。終わったの?終わったよ。じゃあ何であなたはわたしを必要としているの?わからない。わかってるくせに。ごめん。わかってるくせにごめんしか言えないの?ごめん、今はやめてくれ、その話は。僕が彼女の手を振り解こうとすると、彼女は両手で僕のレゾンデートルを撫でながら、口に入れた。僕は彼女の髪を優しく掴み顔を上げさせると、その瞳にはナイチンゲールと僕が映っていた。ごめん、僕は君とこういうことをしちゃいけないんだと思う。誰が決めたの?彼女はやめようとしなかった。僕はそんな風にしていきたくなかった。僕は彼女を抱き抱えて彼女の中に入った。


 こんなのは、ありきたりの欲求不満のときに見る夢だ。白いエナメルのツルツルした空っぽの浴槽で僕は服を脱いで、シャワーを浴びた。窓から迷い込んだ鳥が寝室から浴室まで天井に壁にぶつかりながら飛んでいる。僕は玄能を振り回して追いかけた。逃げ惑う鳥がやがて動かなくなり、もう一度僕は浴室に行き、真っ赤に染まったシャツを脱ぎ捨てた。冷たいベッドに潜り込む。夢を見ることのない女が裸のまま背を向けている。僕のあるべき場所も、僕のあるべき姿も、その女を通して僕自身によって作り上げられる。朝が来たら、赤黒くなった部屋を片付ければいい。それまで少しだけ彼女のそばで眠りたい。僕はシーツを引っ張り上げ、声にならない声を上げ泣き続ける。不意に彼女が僕の方へ振り向き僕の上で翼を広げた。


 愛の証が下水管からインドの浜辺を横切り、やがてリスボンに辿り着くころ、僕は彼女と手を繋ぎ表参道の並木道を散歩する。前にふたりで来た時はマスクなんてしていなかった。今はマスクがマナーだ。目に見えない何かをお互いに移さないようにしなきゃいけない。陸橋の階段で見知らぬ女とすれ違った。僕も彼女もお互いを知っている。けれども僕らは知らないふりをして、通り過ぎていく。それぞれの夢の記憶を辿ろうとし落ち葉の中を彷徨う。陸橋の上で紅葉や銀杏を見つめる彼女の横顔。僕は僕と彼女のマスクを少し下げてキスした。


夢は記憶の残骸。


 


 

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記憶の残骸 Hiro Suzuki @hirotre

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