宿題はまだ終わらない

 仕事を終えて、外に出ると時刻は、夜の八時をすこし過ぎていた。きょうの夜の空気は真夏にしては、ほんのりと冷たく、視界の景色は淡く青みがかって、どこか幻想的だ。不思議な世界に、うっかり足を踏み入れてしまったような気分にもなるけれど、そもそも今年はいつもと違う、変わった夏で、すでに僕はいままで自分のいた場所とは異なる世界にいるのかもしれない。


「おかえり、きょうは早いんだね」


 自宅のあるアパートに着いて、玄関の戸を開けると、彼女が僕を出迎えてくれた。長くひとり暮らしを続けていたこともあって、帰る場所に、帰りを待つ誰かがいる、という状況にはいまだに慣れない。


「たまには、そんな日もないと、ね。身が持たないよ」


 と、疲れを外に出すように息を吐いた僕に、お疲れ様、と彼女が言った。


 この様子を他人に見られたなら、きっと勘違いされてしまうだろうが、彼女は僕の恋人でも妻でもなく、さらに彼女は、僕よりもひと回り近く下にあたる十代後半くらいの年齢を思わせる外見をしているので、お金で繋がっている、とかそんなもっと悪いイメージを抱くひとも多いかもしれない。


「じゃあ、きょうはゆっくり休んでね。あっ、でも、一応今回のお題だけは伝えておいてもいい? 最後のお題だよ」


「うん、もちろん。でも、せっかく早く帰ってこれたし、今日こそ書かないと。書けそうだ、って思う時に書かないで後回しにすると、僕の性格上、絶対に後悔する気がして」


「もしかして夏休みの宿題、後回しにしてたほう?」


「当たり。まぁ夏休みの宿題なら、できなくても先生に怒られるだけで済むけど、こっちは間に合わなかったら、どうなるか分からないから」



 どうせ死ぬなら、その命、私のために使ってくれない?



 初めて会った時、彼女は僕にそう言った。朦朧とした意識の中にあって、その言葉だけは一言一句違わず、しっかりと聞き取ることができた。


 彼女が僕の前に突然現れたのは、今年の六月の終わりのことで、僕は、死のう、と考えていた。


 その日、自殺しようと決断するきっかけになった出来事はたいしたものではなかった。趣味で書いている小説が公募の新人賞に落選したことを目覚めの朝に知ったからだ。落選なんていつものことで、過去に何度も経験していて、その日の僕以外の僕がその様子を見たら、なんでそんなことで、と思わず言ってしまうかもしれない。そりゃ過去の落選だって落ち込んだけれど、死の理由にするほどのものではなかった。


 だけど今年に入ってからの僕は、職場の人間関係の変化を中心に、色々なストレスを感じることが例年に比べて多くて、ちょうど限界の訪れが、その落選の報せと重なったのかもしれない。塵も積もれば山となるけれど、この落選の痛みはきっと、山を崩してしまう最後の塵だったのだろう。


 母は若い頃に自身の妹、つまり僕にとっては叔母に当たるひとを亡くしている。僕が生まれた時にはもう鬼籍に入っていたのだけれど、叔母は十代で有名な文学賞を受賞した作家でもあり、同じく小説を書いている、という、ただその一点だけで、僕と叔母を重ねたのかもしれない。私より先に死ぬくらいなら、私を先に殺して、なんて言っていたのをふと思い出したけれど、周囲の人間の気持ちを考えるよりも、その時、まず優先したいと思ったのは、自分自身の気持ちだった。


 僕は過去に書いた小説のデータをすべて削除し、職場に向かった。こんな状態でもほとんど無意識に、嫌いな会社に行かなければ、と足は動いて、そんな自身の心に気付いて、僕は会社までの道のりの中で思わず笑ってしまったのを覚えている。いままでの人生で一番の自嘲を決めるとしたら、たぶんあれがそうだ。


 残業が終わった時、その場にいるのは僕だけで、僕は僕の働いている会社がテナントとして入っているビルの五階の窓を開け放って、飛び降りて、死ぬ……はずだったのだが、次に目を覚ました時、見慣れぬ女性が横になった僕を見下ろしていた。


 あ、起きた。良かったぁ。


 本当に心の底から安堵している様子の彼女を見ながら、ここは天国やら地獄やら、と呼ばれる死後の世界だろうか、と考えてしまったが、死後の世界が自宅とまったく同じなんてことはないだろう。周囲を見る限り、自宅のリビングとしか思えない。


 なんで生きているんだ、と困惑する僕に、



 どうせ死ぬなら、その命、私のために使ってくれない?



 と彼女は言った。


 最初は何のことか意味が分からなかった。そもそも彼女が人間なのかどうかも不明だ。ただ自殺しようと窓から飛び降りた人間を救ったうえに、アパートまで運んでいる以上、彼女がなんらかの特別な力を持っていることは間違いないだろう。


 どうせ本来なら失われるはずだった命なのだから、と悩みながらも、僕は彼女の言葉に頷いた。


 そして彼女はきょうも、不思議な頼みを僕に告げる。


「じゃあ、今回の、最後のお題を伝えるね。〈宿題〉。これが最後のテーマ」



 あなたと会えるこの夏の間だけ、私のために小説書いて。



 僕は彼女のために小説を書くことになった。彼女から一週間に一度、お題を出されて、僕は決められた日までにお題に沿った作品を創って、それを提出する。理由はよく分からない。そしてこの彼女の頼みは思いのほか、つらかった。


 僕の人生は彼女がいたことによって終わることなく、まだ続いているわけだが、僕の小説人生は、小説のデータをすべて削除した時に一度、完全に失われてしまったのかもしれない。ふたたび掬い上げる、あるいは再生する、と言えばいいのか、それは簡単なことではなかった。


 最初のお題は〈秘密基地〉で、書いたのは『夏夜の幻』というタイトルのファンタジー要素のある青春小説だったのだが、これを一本書ききるまでが地獄だった。いや、地獄なんて言葉を簡単に使ってはいけないのかもしれないけれど、いつまで経っても文字を書き進めることができず、彼女が定めた期限の前日まで一文字も書けていない状態で、仕事が終わって帰宅したあと、朝になるまでずっと書き、完成の勢いのまま、誤字の修正さえほとんどできていないその作品を、彼女に手渡した。僕とはすこし距離を取った場所で眠っていた彼女を起こして、起き抜けの状態で読んでもらったことには申し訳ない気持ちもあるけれど、そのぐらい完成した嬉しさが大きかったのだ。


 プリントアウトされた原稿と向かい合う彼女を見ながら、僕は思わず息を呑んだ。


 僕はパソコンで小説を書いている。一緒に住んでいるのだから、画面を見せれば、原稿を紙に印字する必要はないはずなのだけれど、彼女からそうお願いされたのだ。パソコンを使ったことがなくて、苦手だから、と。


 読み終えた彼女が言ったのは、


「ありがとう」


 それだけだった。面白いもつまらないもなく、ただその一言はやけに耳に残った。


 それから毎週、僕は短い小説を書いた。


 不特定多数を意識するような、顔も知らない誰かのためではなく、僕と彼女、たったふたりだけのために。彼女はただ読んでくれるだけで、それ以上は何も言わないので、彼女の好みなんて考えず、自分の好きなことをただ感情の赴くままに書くようになった。それは長く味わっていなかった感覚で、はじめて小説を書きはじめた頃の感覚に似ていた。


 とはいえ短くても、小説をひとつ完成させることは簡単ではない。


 ふたつ目のお題は〈打ち上げ花火〉で、僕は『神様からのメッセージ』というショートショートを書いたのだが、これはほとんど物語はできあがっていたのに、結末がぎりぎりまで決まらず、期限を過ぎそうになってしまった。


 もし間に合わなければ何か悪いことが起こるかもしれない、と僕は焦りながら、なんで焦っているんだろう、と自分の心を不思議にも感じていた。ちょっと前まで、死のう、と考えていた人間の感情とは思えない。


 ふたつ目の作品に対しても、彼女は具体的な感想は言わなかった。


「小説、書くの……、楽しい?」


 と読み終えた彼女は、僕にそう聞いた。


「もし嫌いだったら、この年までずっと書いたりなんてしないよ。だけど、楽しい、とも素直に言えなくなってきてるかな」


「そっか。でも、嫌いになっていなくて良かった。私は心底、嫌いだったことがあるから」


「それ、って……」


 彼女は僕の疑問に対して、にこやかな笑みを浮かべるだけで、何も答えてはくれなかった。


 三つ目のお題は〈浜辺の漂着物〉で、四つ目のお題は〈アイスコーヒー〉だった。そんなお題に沿うかのように、僕たちの実際の生活も夏らしい暑さをともないはじめていた。彼女は僕と違って働いているわけでもなく、僕の部屋にいるか、外に遊びに行っているだけなので、〈浜辺の漂着物〉をテーマにした『波打ち際の記憶』を書いている時には、彼女は海岸に行って漂着していたらしい小型の宇宙船のような何かを拾ってきたり、〈アイスコーヒー〉をテーマに『恋を、飲む』を書いている時には、手元にアイスコーヒーを置き、テレビの心霊番組を楽しんでいた。


 自由だなぁ、と呆れつつも、彼女と一緒の生活を楽しんでいる自分自身の心にも気付いていた。


 この二作は、思ったよりも早く書き上げてしまい、彼女に驚かれてしまったが、彼女以上に僕のほうが驚きの量は大きかったはずだ。まったく書けなくなってしまっていたものが、またすこしずつ書けるようになり、その成長を実感して嬉しくなる。小説を書く本質的な楽しさなんて彼女に会うまで長く考えていなかったし、何を楽しいと捉えるかなんてひとそれぞれだ、とは思うけれど、すくなくとも僕にとっての創作の楽しさは、常に以前とは違う自分を創りあげていくような、この感覚なのかもしれない。


 そして最後の〈宿題〉というお題が出された。


 彼女からお題を聞かされたその翌日には、脳裏に書きたいイメージが浮かび上がり、まず導入や結末、そして構成も決めていき、あとはいつものように書きはじめるだけだった。だけどキーボードに置いた指はいつまでも動いてくれなかった。


 書けなかったわけじゃない。書きたくなかったのだ。



 あなたと会えるこの夏の間だけ、私のために小説書いて。



 彼女はそう言った。じゃあこれを書き終えると、もう会えなくなるのだろうか。そんな考えが萌して、僕は一字も書くことができないまま、


 一週間が過ぎた。


 彼女が僕を睨んでいる。


「なんで、書かなかったの? 書けなかった、って嘘はやめてね」


「書いたら、きみと会えなくなる気がして」


「書かなくても、私が誰かと話せる時間はもうすぐ終わりだよ」


「嫌なんだ。きみとこれからも一緒にいたい」


「そもそも私がこっちに来れるのは、夏の間だけなの。そしてこっちのひとと話したりできるのは、今年の夏だけ、今回は本当に特例だったんだよ」


「だったらこの作品は、来年までの宿題にして欲しい。読みに来てよ。でも絶対に書かない。で、また、その次の年も」


「無茶苦茶で、勝手なこと言ってるよ」


「ごめん、でも」


「それ、永遠に完成させない、って言ってるのも同じだから」と彼女が溜め息をつき、その表情が僕のよく知る人の面影と重なる。「分かった。来年もこっちに戻れるように努力はするから、待っててね。これでもし他の女と一緒になってたら幽霊らしく呪うから」


「幽霊だったんだ……。まぁ人間だとは思ってなかったけど」


「気付いてなかったの?」


「まぁ……。でも、きみが誰なのかは、いま分かった。母さんには会わなくていいの?」


「合わせる顔がないから。それに私はあなたに会いに来たんだから。嬉しかった。あなたが小説を好きになって、私と同じように創作をはじめる姿が。ずっと草葉の陰で見守っていたんだよ。出しゃばるつもりなんてなかったけど、あなたにはまだ生きて欲しかったし、小説を好きでもいて欲しくて。だから小説を書くきっかけ無理やり与えれば、って思って。ごめん、私も勝手だね」


「そんなことない……です」


「なんで急に敬語? やめてよ、私はあなたより年下なんだから。……今年は、もう帰るね。じゃあ、また来年」


「うん、また」


 そして彼女……僕が生まれるずっと前に死んでしまった年下の叔母が僕に背を向けて、その姿がとけるように消えていく。


 母に彼女のことを聞こうかな、とふとそんな考えが頭に浮かんだが、やめることにした。今年の夏、実際に見て、話してきた、彼女を何よりも大切にしよう。



 僕は〈宿題〉というお題に沿わない、新たな小説を一から書きはじめた。

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夏の五題 サトウ・レン @ryose

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