恋を、飲む
これじゃあ、まるでグレーゴル・ザムザじゃないか、カフカの『変身』じゃないか、と彼は困惑したのだが、困ったところで、誰かに助けを求めるすべがないことも分かり、まず彼は考えることにした。そもそもなんで自分はコーヒーになって脳がなくなってしまったのに考えることができるんだ、なんで自分はコーヒーになって眼がなくなってしまっているのに周りの景色を見ることができるんだ、と。グレーゴル・ザムザがコーヒー……じゃなかった巨大な虫になったのは目覚めの朝だが、彼は自分がコーヒーになったのが起きた時だったかどうか覚えていなかった。意識を取り戻す前の記憶がまったくなくて、寝ていたのか起きていたのか、定かではなかったのだ。
冷たい、と彼は叫んだ。
長方形の氷の塊が触れた感覚に思わず飛び出たその叫びは、周囲にいる、どの人間の耳にも届いてはいなかった。豆太郎自身もそのことに気付いて、内心で溜め息をついた。そもそもコーヒーになっても人間らしい触覚を持っていなければならないなんて、理不尽だ、と彼は怒りを覚えた。その溜め息と同時に、近くから自分のものではない溜め息が豆太郎の聴覚に届いて、その方向に意識を向けると、豆太郎が置かれているふたり掛け用テーブルの、自分が置かれている側の反対に、学生服を着た女性がいることに気付いた。それが誰か、考えるまでもない。
豆太郎は過去の記憶に想いを馳せることにした。
そうだ、確か冷子と一緒にこのファミレスに入ったんだ、と思い出して、ひとつあやふやだった記憶が明瞭になると、つられるようにして、彼の他の記憶もはっきりとしていった。
『変身』を思わせる不条理な体験をする前の豆太郎は夏期講習を受けていた。その帰り道、足繁く通っているファミレスにでも寄ろうかなと考えながら歩いていると、
「なんで、先に帰っちゃうの。もう」
と彼と同じく予備校の夏期講習を受けていた冷子が、後ろからすこし怒り気味に追いかけてきて、一緒に彼の目指していたファミレスへ行くことになったのだ。
やばいぞ、どうしよう。
豆太郎は平静な振りをしながらも、内心では焦っていて、実際見た目にも表れていた。額にはグラスの表面から滴る水のように汗が流れていたのだが、彼女はそれを不安や緊張から来るものとは思わなかったみたいで、汗かきすぎ、と笑っていた。怒っている彼女よりも、笑顔の彼女のほうが好きなので、笑ってくれること自体は、彼としても嬉しい。ただ、いまはそんな彼女の表情をのんびり楽しんでいる場合ではなかった。
飛衣子は地元の大学に通う二十歳の大学生で、彼らよりも二つ年上のお姉さんである彼女と、豆太郎がはじめて出会ったのは二年前の夏だ。最初に会った時の、どきり、とした感覚を彼はいまも覚えている。豆太郎は先日野球部を引退したばかりで、高校の三年間を野球に捧げたわけだが、そんな彼がまだ一年生だった頃、決して強いとは言えない野球部にあって、決して上手いとは言えない彼のことを、当時の、三年生のキャプテンがとても気に入っていて、引退後の夏休みの間、他の三年生が三年生同士で遊ぶ中、このキャプテンだけは豆太郎をよく遊びに誘って、その時に紹介されたのがキャプテンの恋人だった飛衣子だ。
甘さを持たないコーヒーのように、いっぱいに氷を浸したコーヒーのように、近寄りがたい雰囲気なのに、実際にしゃべると穏やかさが際立つ、素敵な魅力を感じる年上の女性、といった印象に、先輩の恋人だ、と分かっていながら、どきり、とする感覚さえ抱いていたのだ。そうは言っても、その時に何か特別なことがあったわけではない。
『あれ、久し振りだね』
再会したのは、それから二年経って、彼が三年生になってすぐのことだった。豆太郎の所属していた野球部は上下関係が緩く、強豪校のような規律のしっかりとした部ではなかったので、練習後に遊びに行ったり、彼女を作ったりしたとしても、咎められることはない。ときおり嫉妬を買って嫌われる誰かがいても、罰則にすることはなかった。大抵の部員が遊びたいからだ。
だから練習が終わったあとに、豆太郎がファミレスに通っていても、特別咎める相手はいなかった。そもそも彼がそんな場所に通っているなんて知っている同級生や先生は、ほとんどいなかったのだが……。
きっかけは勉強のためで、自宅だと捗らなくて、練習のあとに勉強するための場所を確保したい、という理由からそこを選んだのだ。
その時の久し振りの会話は彼にとって特に印象的で、それは彼女が注文を取りに来てくれた時のやり取りだった。
『伊須亜さん、ですよね。いま、ここで働いてるんですか?』
『うん、そう。あっ、飛衣子で、いいよ。彼はもういないから』
彼がいないから、名前呼びでいい、という感覚が豆太郎には分からなかったが、断る理由もなく、それ以降は彼女を、飛衣子さん、と呼んでいた。
『分かりました。でも……飛衣子さん、キャプテンと別れたんですね』
『大好きだったんだけど、うーん、彼は女癖が悪くてね』
『浮気ですか? そんなことしそうなイメージないですけど』
『彼も最後まで浮気だと思っていなかった、と思う。彼には浮気じゃなかったけど、私にはそうだった。それだけの話。でも、まぁ、いまも大好きだよ』
『会ってはいるんですね』
『会ってないよ。会いたくても、会えないからね。……きみは勉強をしに来たの?』
『家だと集中できなくて』
『じゃあ、注文どうする?』
『アイスコーヒーで』
こんな会話があって、それ以降も豆太郎は定期的にこのファミレスへ行くようになった。名目は勉強だったが、本心は飛衣子に会いたかったからだ。ただそれを言ってしまうと、勘違いを与えてしまいそうなので、その本心を誰かに伝えることはなかった。豆太郎が恋愛感情を抱いているのは冷子で、飛衣子に対する感情はもっと気やすい親しさからだったので、浮気とか、そういうふうに呼ばれるものじゃない、と彼は自分自身の心に言い聞かせていたのだが、それでも実際に冷子と飛衣子、このふたりが対面する状況を目の前にすると、彼は焦ってしまった。
それに、と彼は前回の飛衣子との会話を思い出した。勉強を終えて、ファミレスで会計を終えた時に、
『ねぇ、私もきょうはこれでシフト終わりだから、一緒に帰らない?』
と、飛衣子に言われて、豆太郎たちは一緒にファミレスの外に出て、すこし歩いたあとの、その時のやり取りだ。
『いつもアイスコーヒー、頼んでるよね?』
『好きなんですよ。あの苦味の中に、ミルクとかを入れて甘さの混じった感じが』
『ふぅん。実は私、ちょっと苦手なんだ。あの独特の苦さが』
『そうですか――』
と返そうとした言葉は、彼の口に突然触れる飛衣子の唇によってさえぎられて、豆太郎はパニックを起こしてしまった。
『ふふ、ごめんね』
と口を離して、ごめんね、と笑った時の飛衣子の表情を、彼は何故か怖く感じてしまったが、気持ちを立て直しながら、
『いきなり、何、するんですか……』
『好きなものを挟んだコーヒーなら好きになるかな、と』
『どういうことですか?』
『私、きみのこと結構、好きなんだよね』
彼は、まだその言葉の真意を聞けずにいた。
直近に、飛衣子とそんな会話をしていたこともあって、そんな飛衣子と友達以上恋人未満の冷子が顔を合わせる事態に、後ろめたさはやはり感じてしまう。片方に弁解すれば、片方を嫌な気持ちにさせてしまいそうで、罪悪感からその行動も取れず、自然と彼の言葉数はすくなくなり、注文を聞きにきた飛衣子が、
『豆太郎は、いつもアイスコーヒー頼むもんね』
なんて彼に楽しげに笑いかけた時には、三人の間だけ、エアコンの効きが良いとはお世辞にも言えない生ぬるい店内が、ひんやりと冷たくなったような気がした。
そこまでは思い出したが、しかし、といまの彼にとって、もっとも気になる記憶が欠落していた。
〈なんで、俺はアイスコーヒーになったんだ!〉
と、もう一度、叫んで、ミルクの白の混ざった黒の液体の表面を揺らしてみるが、周囲に声が届いている様子はない。やっぱり、これもこれで理不尽な話だ、と彼は思った。脳がないのに考えることができて、眼がないのに周囲を見ることは可能なのに、しゃべることはできないなんて。本人の都合の良さを一切考慮しないからこそ、不条理と呼ぶのかもしれないが。
「あの、煎焙くんは? トイレから戻ってきたら、いなくなってて……」
そんな声が聞こえて、過去に馳せていた意識を、声のほうに向けると、口調と表情から明らかに落ち込んだ様子の冷子が、店内にいる飛衣子を呼んで、尋ねている。
〈ここにいるよ。ここに〉
と彼自身は何度も声を出しているのだが、届く気配はない。
「あぁ、用事が出来たから帰る、って言ってたよ」
「こんなすこしの時間で、ですか? 帰るなら、なんか私に一言あると思うんですけど……」
「……本当のこと言うと、あなたがトイレに行った時に彼と話したんだ。結構、怒ってたよ。あいつ、いつも彼女面してきて困るんだよ、って」
〈言ってない。そんなこと一言も!〉
記憶ははっきりとしていないが、自分がそんなことを言うはずがない、という自信が彼にはあった。
豆太郎の言葉が冷子に届くことはなかったが、彼の気持ちは通じたのか、
「煎焙くんは、そんなこと言わない」
と言う。
「まぁ、彼は優しいからね。でもよく考えてみてよ。あなたは彼の彼女なの?」
「それは……、違いますけど。でも――」
「彼女じゃないひとが彼女面しているんだったら、もうストーカーと変わらないよ。さっきの、私のことが大好きで大好きで仕方ない彼に対するあなたの反応なんて、どう見ても彼女面じゃない。このストーカー!」
冷たく言い放った飛衣子の言葉に、冷子は、怯え、泣いていた。冷子は決して気弱な性格ではないが、彼にはその気持ちがよく分かった。豆太郎だって同じように言われたら泣いてしまったかもしれない。そのぐらいに、飛衣子の言葉の圧は強かった。
〈気にするな。そんなことないから……。俺が好きなのは、冷子だよ〉
冷子に届くはずのない言葉は、ただ虚しく、液体の底に沈んでいく。
そして冷子は自分自身のぶんのアイスコーヒーの代金を飛衣子に渡して、逃げるように、ファミレスを出て行った。
「さて、と。豆太郎」
〈ど、どういうつもりだよ〉
飛衣子がアイスコーヒー、つまり彼に話し掛けてきたので、彼女には自分の声が届くのだ、と感じたのだが、聞いている雰囲気はなかった。聞こえていないのか、聞こえているけど聞く気がないのか、判断に困る表情だ。
彼女が一方的に話す。
「ひどい、と思わない。彼女がいるのに浮気なんて。私のこと好きって言ったじゃない。裏切るんだ。あぁ、そっか、きみもきみの憧れの先輩と同じで、浮気じゃない、って言うつもり? でも、どこからが浮気かなんて、浮気されたほうが決めるんだよ。当然じゃない。攻撃したほうが攻撃していない、なんて、そんな理屈が絶対に許されないのと同じだよ」
〈そもそも、俺は好きなんて言ってない!〉
怖い怖い怖い。いまの彼にはそんな感情しかなかった。
「だから、彼女がトイレに行ってる隙に、きみをコーヒーに変えてみました。ねぇ褒めてよ、すごいでしょ。なんでも良かったんだけど、アイスコーヒーが好き、ってきみが言うから。苦いけど、頑張って飲むからね。私、ずっときみを身体の中に留めるよ。絶対、排泄の時に出したりしないからね。きみの大好きな先輩もいるし寂しくもないよ……というか、私と一緒なのに、寂しいなんて、ありえないから」
彼女の手が、彼を持ち上げ、彼は考えることをやめた。
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