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 銀川せれなは今日二杯目のコーヒーを飲み干したが、その間に紗良が口にしたコーヒーはわずかにも満たなかった。

 紗良は、銀川せれなから聞いた話を頭の中で整理していくうちに、ひとつの真相が見えるような気がしたが、どうにも意識がそれを拒んだ。これは、奈津乃が解き明かす問題だ。だから、自分なんかがおいそれと、土足で踏み入って言い訳がない。紗良は、強くそう感じた。

 それに、銀川せれなの話だけでは、判断材料は不足している。美保子の方で船元の知っている話を全部吐かせて、他にはテレパスについて調べ物をした上で、総合的に判断されるべきだった。今はまだ、見えそうで見えない曖昧な真相なんてものは、空想の域を出ない。無視をするべきだ。

 銀川せれなが何者なのか、考えてはいけない。

 だから、質問をするだけに徹した。

 奈津乃のためだった。

「あの英文……」それを思い出す。暗記をしているわけではないが、知らない文章ではないことを、読んでみて初めて思い出した。「ひょっとして、ジャズの曲、ですか」

「ええ」三杯目のコーヒーの味なんて興味がなさそうに、銀川せれなはその黒い液体を軽く舌先で舐めるようにして啜った。「……あれは、シャドウ・オブ・ユア・スマイルの歌詞だわ」

「いそしぎ、ですか」

「そうよ、あんまり好きじゃないけど」銀川せれなは、頷く。「昔は好きだったんだけど、飽きちゃったの」

 このギター講師は、そう言って笑った。表情は、紗良になんかは見せてくれなかった。

「あのCDは、美空……船元美空の私物ね。捨てちゃったのかと思ってたけど、まだ持ってたのね。捨てる勇気すら、なかったのかもしれないけど」

「箱に押し込んでありました」

「はは。そうしても消えるわけじゃないのに、面白い女ね」銀川せれなは、語った。「私と船元美空は、同窓。同じ大学で、同じサークルに入ってた。仲は良かったわ。そりゃ、今でも交流があるくらいだもの。仲が悪いはずなんて、無いわよ」

「でも、ライバルだったんですか」

「そう。いや、少なくとも、向こうはそう思っていたみたいだけど、私はそうじゃない」

 彼女は、次に何を紡がれるのか、わからないような部分で言葉を切った。

 その唇の動きを待っている間、紗良は呼吸をしなかった。

「私はあの子のこと、私を付け狙う変態だって思ってた」

「変態って……」

 ようやく出た言葉が、少しコミカルな単語だったので、紗良は安堵したが、よくよく考えれば親しい人間に使うような表現でもないし、冗談で口にしたレトリックでもなかった。

「サークルは音楽系で……私達は別々のバンドを組んだ。一緒のバンドだと、正面から戦うってことが出来ないから。バンド活動は、それなりに楽しかったわ。その時は、素直にそう思ったわ。部内にいた他の親しい人間と組んだバンドだったけれど、その中で変に音楽全般に対する知識がついていたのは、私しかいなかった。だから、呼吸がしやすかったの。みんな無知だったから、私の言うことを鵜呑みにした。全能感を、肯定されるみたいだったわ。とにかく、自由だったの。技術も、誰にも負けないつもりでいた」

「……いそしぎは、その時に演奏していたんですか」

「ええ。バンドの、得意曲だったの。全員の演奏の癖みたいなものが、その曲では全部良い方に働いたの。偶然もあるけど、私がアレンジしやすかったっていうのもあるわ。普通に弾くと物悲しい曲だろうけど、アレンジ次第でどうにでも出来る所が好きだった。明るくはならないけど、クールさは出せた。いえ、そもそも暗い曲調が好きだった。明るい曲ばかりが、もてはやされるのが、嫌いだったから。でも、あんなに好きだったのに、今ではもう、どうやって弾いていたのかすらも覚えてないの」

「奈津乃に教えたりは?」

「いそしぎは、悲しくなるから課題に挙げたこともないわ。思えば、彼女の前でギターを弾くことも殆どないの。ギター自体を、もうあんまり触らなくなっちゃったの。作曲の仕事なんてものは、パソコンがあれば出来るから。そりゃ、奈津乃ちゃんにちゃんと教えるときには、ちょっとくらいは弾くけれど、でも……それだけよ。私の生活から、ギターを弾くっていう選択肢は消えた。弾かなきゃいけないっていう強迫観念も、全部なくなった。なんだか、禊ぎを終えた気分ね。ギターという呪いから、解き放たれたの」

 その表情は、とても晴れやかには見えないことを、彼女は知っているのだろうか。



 開いた扉の隙間から、どたどたとした足音が響いて、続いて聞き覚えのある声が聞こえた。

 由麻だ。彼女が、戻ってきた。

「慈光、観念しなさいよ」

「ちょっと、やめろって」

 扉から、由麻。そして由麻に肩を掴まれている慈光沢美が、姿を現す。

「見ていたわ、影から」由麻は説明する。「奈津乃が気づいたら、押し入ろうと思ってた。慈光が逃げるかも知れないから、それだけは許せないと思って、見てたの」

「由麻……」

 私は、立ち上がって慈光に向き直る。長浜と堀切も立ち上がったが、由麻の威圧感に何も出来ないでいた。この三人の間に、バンドメンバーという馴れ合いは、欠片も確認できない。

 慈光沢美は、それでも表情は崩さなかった。

「慈光。説明しなさい」由麻が肩に力を込めながら、尋ねる。

「痛いって……見ての通りよ」慈光が言う。「網城奈津乃が嫌いだから、無理やり閉じ込めて推理をさせていた、それだけよ。そのくらいのことは、あんただってわかってたでしょ、部長」

「ええ。だから、手は打ってある」

 由麻は自分のスマートフォンを、片手で取り出した。

「なにをする。誰かに言うつもり……?」

「そんなことしたって、あんたの心はへし折れないでしょ」

 言いながら由麻は、スマートフォンを私に投げた。

 そこには、いろいろと書いてある。紗良と美保子が、船元と先生に直接聞いて集めてくれた情報や、テレパスの基礎情報などがそこには記載されていた。

 これは……

「これでフェアよ」由麻が笑う。「奈津乃、決めてやりなさい。あの朗読の謎、その正体を、このふざけた女に付きつけるのよ」

 情報だけが、ここにはある。

 答えは、ない。

 私が、自分で導き出さないといけない。

「おいおい! そんなの無しよ!」慈光が叫ぶ。「奈津乃の力だけで解かないと、こいつの推理能力の有無なんて証明できないでしょ!」

「は。あんただって、どうせ下調べや聞き込みをやって、自分の答えにたどり着いてるんでしょうが。奈津乃にはそんな時間もなかった。その代わりを私達がやったに過ぎないわ。あんたに文句を言われる筋合いなんかない」

「でもね、部長! 十九時までって、約束したのよ! 網城奈津乃! 十九時までに解かないとあんたの負けだって、取り決めしたよね!」

 つなげるしか無い。

 紗良と美保子と由麻の努力を無駄にしたくない。

 見えそうだった。

 由麻や慈光や、長浜や堀切の悶着が、聴覚から消える。

 あの日の船元。

 そして、せれな先生が。

 せれな先生が、いつか老人の前で言っていた言葉。

 ――昔、自分より実力のある人間に、思い知らされたことありますから。

 あれは一体、誰のことなのか。

 テレパス。

 作曲能力に特化したギター担当。

 それを悔しいと思った、船元。

 いそしぎ。

 いそしぎに対する、嫌な感情。

 船元に、飲まれてしまって、テレパスを解散した女。

 すぐにでも、わかるような気がしたのに。

 もう少しだって言うのに、

 叫んだのは長浜だった。

「十九時だ! 十九時! 網城!」

 時間が来てしまった。

 私なりの、答えが見つかる前に。

「約束よね、奈津乃!」慈光が、由麻を振りほどいて、口を開いた。「十九時までに解けなければ、あんたに推理能力なんかないってことを、みんなに言いふらすって、約束したわよね!」

「ちょっと、時間制限なんて無しよ」

 由麻が怒ったが、喜びを前にした慈光に届くはずもなかった。

 どうして、

 どうして答えが出てこない。

 ここまでわかっているっていうのに。

 私は、由麻のスマートフォンを落としそうになった。

 その程度の人間だった。

 私なんてものは、結局その程度の……。

「何が探偵よ! クズ女! 銀川先生に答えを聞いていただけの、クズよ! クズ女! クズ女! 反省しろ! 私達を見下すからこうなるんだ! お前なんて、少しも立派じゃない! クズよ! クズ!」

 慈光がそうやって騒ぐ様子を見て、堀切も長浜も笑っていた。

 由麻は、歯ぎしりをしていた。

「じゃあ教えてあげるわ、真相を! 朗読者は、船元先生、本人よ! テレパスのギター、銀川せれなの才能に嫉妬していた彼女は、血のにじむような努力をして、ついには銀川せれなに技術面では勝てるようになったの! それを目の当たりにした銀川せれなは、心が折れてしまったの! だからバンドは解散した! 銀川せれなの、モチベーションが保てなくなったから! けれどプロデビューもしていたバンドだから、そんな簡単に解散をする銀川せれなを、船元は恨んだの! 自分だって目指していたのに、その足元にも及んでいないから! 恨んでいたのよ! 恨みからやった行動なの!」

 ひとりで、

 妙なテンションを保ったまま慈光は、そう述べる。

「いそしぎは、銀川先生のよく演奏していた曲! 同時に、船元美空を努力の道に連れて行った曲なのよ! あの曲に殺されたの、船元は! だから、追い打ちをかけたかったのよ! 自分の望むものを何でも得た女が、それを全部捨てたことが、気に入らなかったから、呪いをかけたかったの! 自分を一度殺した曲で、呪いをかけたかったのよ!」

 いそしぎを聴くたびに、先生は何を思ったのだろうか。

 大量の音源を集めていたことも、なにか意味があったのだろうか。

 ナイフで刺した相手が、それを引き抜いて、逆にこちらの胸にナイフを突き立ててきたようなものだろうか。

 だけど、

 そんな大事なことを、私には一言だって、教えてくれなかった。

「あんた……」由麻が、尋ねた。もうなにかするつもりもないようだった。「答えを、知ってたんじゃないの」

「まさか」

 ようやく落ち着いてきたのか、慈光は深呼吸をしてから口にする。

「推理よ。奈津乃の大好きな、推理」



 外は暗くなっていた。

 慈光は、何処かへ消えた。長浜も、堀切も、由麻とは目も合わさないで、いなくなった。そのまま、永久に存在しなかったことにならないだろうかと、本気で思った。

 由麻とも会話なんてしないで、あの忌まわしい教室から出て、広場に向かった。そこには、紗良と美保子が私を待っていた。私なんか、待たなくたっていいのに、二人は私を見つけると、手を振った。私はどうすれば良いのかわからなくなって、なにもしなかった。

 私には、なにもなくなってしまったのだから。

 ギターも弾かないで、推理も出来ないで、銀川せれなの生徒ですらなくなった私には、なにもない。

 校門を出たところで、紗良と美保子が私の様子を窺った。由麻は、気を使っているのか、何も言わなかった。

「……奈津乃。あいつらに、わけのわからないことをさせられていたの?」紗良は、それでも直接そう尋ねた。「推理出来るのが、本当かどうか試されていたの?」

「……………………ええ。そう」

「結果は……」

「知ってるでしょ」

 睨むように、紗良を見た。五歩ほど距離を空けて、三人は私の後ろを着いて着ていた。

「全部、嘘よ。今までの推理は……全部、せれな先生が考えてくれていたの。私は、あんなに格好良く、推理なんて出来ないわ……。最初はそんなつもりじゃなかったんだけど……いざ、人に認められると気持ちよかった。嫌いな人間が、私を褒めている所が、気持ちよかったの。私は、ただの差別主義者よ。部員はみんなクソだと思ってるし、程度の低いゴミだと思ってる。他人は基本的に嫌い。みんな、嫌い。私は、そんな見下している人間たちより、優れたかったの。優れているという、証明が欲しかった。それだけよ……深く、訊かないで」

 言い切っても、彼女たちから言葉が、返ってこなかった。

 私は前を向いて、また歩き始める。家に帰ろうとしているつもりすら、無いことに気がついた。

「……ねえ、失望した?」

 私が、そのまま尋ねる。

「そんなこと無い」

 即答。それは、由麻の声だった。こういうときの彼女は、何処からそんな確証があるのか、という風な声色を、臆面もなく発する。

 彼女の言葉には、紗良も美保子も、しっかりと頷いていた。

 こいつらは、私を自由にする気がないらしい。

「そんなこと無いから、戻ってこい。練習しろ。私は……せれな先生の生徒だった。あんたには言ったことなかったけど、気づいてたでしょ。だから、あの人の仕業だろうって、あんたの推理を聞いた時に、そう思ってた。だから、今更よ。気にするな。練習しなさい。私は……あんたに、せれな先生みたいに、心を折ってほしくないの。楽器を弾かなくなったあんたを見てると、噛み終わったガムを見てるような気分になるの」

「……なによそれ」笑いもしないで、私は言う。「なんで辞めたの、せれな先生のレッスン。っていうか、なんで私に隠してたの」

「隠してたのは、あんたが気にすると思ったから。私のこと嫌いでしょ、あんた」

「辞めたのは、なんでよ」

「私が気にすると思ったから」由麻は息を吐いた。「せれな先生は、結局トランペットに対しては、知識としては知っているけど、演奏ができるわけじゃない。私は……彼女に、ゲームを良く知ってる生徒ぐらいにしか思われてなかったと思う。レッスンが終わった後にゲームの雑談するほうが長いくらいだもの。でも、あんたは違うと思った。だから、私は邪魔したくなかった。あんたのギターは、もっと高められるべきだと思っていた」

「……そんな良いもんじゃない」

「だったら、いそしぎでもあんたの前で弾いてやるわ」

 何も言えなくなった。

「それにしても、長浜と堀切……どうしてやろうかしら。説教は必要よね。最悪、バンドは解散よ。あいつら……悪い人間では無いと思っていたのに、慈光なんかに良いように使われるなんて」

「じゃあ、うちに入らない?」紗良が言う。「由麻がいたら、怖いものはないと思う」

「良いわね」美保子がはしゃいだ。「奈津乃と由麻が並んで立ってるだけで、絵になると思う」

「……それは、辞めておくわ。音楽性が違うから」

 由麻はそんな適当なことを口にしながら、私を見ているような気がした。

「ねえ」

 私は言った。

「慈光は、本当に推理したのかしら」

「どうせ、してないんじゃないかな」紗良が口を挟んだ。「だって……せれな先生の生徒だったなら、そういう昔話なんかは聞き出したんじゃないかな」

「でも、あいつは調べて推理したって、言ってた」

「それは、直接本人に尋ねなさい」

 由麻が、私に告げる。

「せれな先生が、あんたに今からうちに来いって言ってる。さっきメールで聞いた」

 急だ。

 心の準備なんて出来ていないけれど、言いたいことは山のようにあった。

 悲しみも、寂しさも、喜びも、楽しみも、胸中には無かった。

 あるのは、

「私達は、先に帰るから」と由麻。「明日はギターを持ってきなさいよね」

「奈津乃」美保子。「また、バンドをやりましょう」

「待ってるから」紗良。「奈津乃は……ただ嘘をついて、騙して、人から褒められて喜んでるだけの人じゃないって、私は知ってる」

「買いかぶりだわ」

 分かれ道の先に、足をかけた。三人は、私の背中を見送っていた。

 私を支える骨が、折れていく。



 久しぶりに見た銀川せれな先生の顔。

 通されたリビング。

「奈津乃ちゃん、元気?」

 腹が立った。私に残された、唯一の感情は、ただの怒りだった。

 椅子に座ると同時に、我慢できなくなって頭をかきむしった。

 ふざけんな。

 慈光。

 長浜。

 堀切。

 そして、船元やせれな先生にも、怒りが向いていた。

 私を嫌わなかった、あの三人にも、不満があった。

 何より気に入らないのは、こんな自分。

「悔しいんですよ! 先生!」事情は、さっき説明した。慈光が悪さをして、推理勝負で負けた。それだけのことだった。「あんなやつに負けたことが! 何も出来なかった私に! 謎がわからなかったことも! 先生も先生ですよ! なんで、そんな過去のことを教えてくれなかったんですか! 慈光には話したんですか! 慈光なんかを、なんで家に招き入れたんですか! なんでバンドやめちゃったんですか! 船元なんかに、どうして負けちゃったんですか! 意味がわからないですよ! 先生!」

 ひとしきり叫んだ。涙も出なかった。泣くのは、先生に捨てられた時だけだったが、代わりに憤りだけが湧き上がってきた。

「紗良も美保子も、由麻も……私を叱ってくれればいいのに……なんで、友人のままで居続けるんですか。私に、何の価値があるんですか。全部、なくなっちゃったのに」

「いい友人を持ったわ、って紗良ちゃんには言った」

「一番嫌いなのは、自分なんです。消えたいです。もう、自分のことなんて、見たくもないんです。それを、なんとか誤魔化したかったんです。頭のいい人間に、憧れていただけなんです。ギターも、その手段の一つでしか無かったんです。最低です。私は、最低の人間です。自分と、その他の人間を切り離して、無条件に見下していた差別主義者です」

 ぶつけるだけぶつけた。

 何を言いたいのか、結局わからなくなった。

 慈光に、全てを明らかにされて、恥ずかしいんだろう。きっと。死にたいくらいに、恥ずかしいだけに過ぎない。それだけのことを薄めるために、全てに噛みつきたくなっていた。

 そこへ、せれな先生が言う。

「奈津乃ちゃん。君の長所は、そういうところよ」

「…………へりくだれば良い子っていう発想、昭和っぽいですよ」

「そうじゃなくて」先生は面白かったのか、笑った。「他人より優れたくて、他人より劣っている自分が嫌。でも、それを原動力にして、誰よりも狂ったように努力ができるところ」

「…………そんなことない」

「私はあなたの先生なんだから、私の言ったことは信じなくてもいいから、間違っているとわかっていても良いから、とにかく鵜呑みにしなさい」



 車で、何処かへ連れ出された。何処へいくのかは、聞かされていない。どうでもいい。家に帰りたくない。せれな先生と一緒にいないと、頭が壊れてしまいそうだった。

 私には、もう、他人への妬みしか残っていないのか。

「……慈光沢美には、教えたんですか」

「私の過去のこと?」

「はい」

「教えてないけど……部屋を物色してたことがあるから、それで知ったんじゃないかしら。少なくとも、美空との関係くらいは、まあ簡単に出てくると思うけど。だから、まあ、あのCDだけを聴いて推理したわけではないわね」

 どうでもいい。

「慈光って、どんな生徒だったんですか?」

「美空が最初につれてきて、でもすぐにその理由がわかった。ただ変に目立ちたがってるだけ。そりゃ、とりあえず美空も連れてくるわね、って感じ。私も、トランペットはさすがにあれだけどピアノは弾けるから、教えられないわけじゃなかったけど……あんまり良い生徒じゃなかったわ。向こうも、途中で満足したみたいに、勝手に辞めていったし。プロの仕事してるっていうのも、知り合いのコネクションに過ぎないわよ。それ自体は認めるけど、実力で得たものではないわ」

 どうでもいい。

「由麻は、どんな?」

「ゲームに妙に詳しくて、トランペットも上手かったけど、直接指導するほど私も詳しいわけじゃないから、どうしようかと思って。このままじゃ伸び悩むなって。私もトランペットを始めようと思ったくらいだけど、向こうも気づいてたみたい。ここにいてもゲームの話をして、それだけだなって。あの子、元気にしてる?」

「私の、目の上のたんこぶです」

「美空も、そんな女だったわ。私は、彼女が邪魔だったの」

「……どうして、船元先生はいそしぎの歌詞を吹き込んだんでしょう」

 慈光は、呪いだと言った。

 銀川せれなは、予想に反して、ケロッとした口調で答える。

「さあ。本人には訊いたこともないから知らないけど、私はそれを聞いたとき、はっきりと思った。美空は、私にまた這い上がってきて欲しいんだって。あの曲で、美空を怪物にしたのは私だから。美空も、私を同じようにしようと、復活させようと思ったのかもしれないけど、私にそんなモチベーションも勇気もなかった」

「…………そう、なんですか」

 慈光の考えと、全く違う一つの事実が浮かび上がった。

 なんだ、お前だって間違っているじゃないか。

 こんな曖昧なものの真相を推理するなんて、はなから無謀だったんだろう。

「だから、美空にはまだ頭が上がらないの。生徒を取るつもりなんて無かったけど、美空が連れてくるから受け入れただけ。そんなことがなかったら、私はあなたと、出会ってもいなかったかもしれないわね」

「考えたくないです、そんな人生……」

「まあ、人生の分岐点を後から確認すると、寒気がすることのほうが多いわね」

 車が到着した。ドアを開けて降りても、場所はよくわからない。砂利の上に足を置いた感覚だけがあった。周囲には、手頃な光がなかった。ここは、どこなのか。

 すいすいと進むせれな先生の背後をについて行くと、次第にここが何をする施設なのかが明らかになった。

 長い階段、木々、そして、鳥居、本殿。どこか、O駅近辺の神社だろう。あまり大きくはないし、風が吹けば飛んでいきそうなくらい古びていた。

「ここは昔に、完全に折れてしまう少し前くらいかな。私が、美空を叩き潰す力が欲しくて、来た場所」

「…………」

 それこそ、神様だと思っていたような人間が神に祈るだなんて、バカバカしいなと思った。

「でも、意味なんかないのよ。ここでいくらかの賽銭を木箱に入れて、鈴みたいなものを鳴らしたって、ただそれが行われた運動量があるだけ。その事に気がついたのは、バンドが解散した後だった。だから、この神社にご利益なんて、ないわ」

 笑いながら、鳥居をくぐった先生。

 真っ直ぐに進んで、三段ほどの階段を登って、賽銭箱の前で振り返って、彼女は私を待った。

 手を差し伸べる。

 この人くらいの技量や知識があったって、他人に負けるときは負けるのかと思うと、その虚しさに悲しくなる。

 私はそれでも、彼女の手を握った。

「神様はなにもしてくれないけど、あなたには私がついてる」

「…………はい」

「他人を叩き潰したい?」

「はい」

「正攻法で?」

「はい。全員、叩き殺したいんです。部活の下らない連中、全員……。母親も、出ていった父親も、慈光も、長浜も堀切も……あのマンダラバンドを買い続けるじじいも、紗良のお父さんの友人も、オーナーも……船元だって、気に入らない教師や教授だって、みんな…………。紗良や美保子や由麻は、嫌ですけど、とりあえず認めてはほしい」

「あはは。あなたの原動力にならない人を、憎んでも仕方がないわ。彼女たちは、特別よ。人間は、例外を設ける生物だわ」

 先生は、諭すように言う。

「私の持ってる技術と知識で、あなたを立派にしてあげる。だから、私を信じて。どれだけ時間がかかるかわからないけれど、その時まで、あなたを見捨てたりしない。あなたのギターを、全員が無条件に尊敬するまで」

「……はい」

 先生は階段から下りて、夜景を眺める。木々が邪魔で、少しだって見えない。この人が住んでいること以外は、クソみたいな街だな、と私は感じた。

「他人が嫌いな自分を、誇ってもいいわよ」

 そんな先生の横顔を見ながら、

 私も釣られて笑ってしまう。

 そうか。

 何もなくなったと思っていた私に残されたものは、他人に対する妬みなのか。

 他人を嫌いでも良かったのか。

 それを振りかざすすべがあったのか。

「……ありがとうございます」

「まだ何もしてないわよ」

「でも、私は今、救われたと思います」

 早くギターを弾きたい。

 久しぶりに、珍しくそんな気分になる。

 早くせれな先生と、真剣な時間を過ごしたかった。

 帰りの車の中で、私は眠った。疲れていたからだった。

 夢を見る。

 明日も学校へ行き、そうしたら、紗良や美保子とバンドをやって、由麻と文句を言い合う。そして、また推理する必要がある下らない謎がみつかる。私はそれを、先生に尋ねて、先生はたちどころに解決する。それが、私の飽きるまで繰り返される。

 そして卒業した後も、私達は同じようなことを、途中で死ぬこともなく気楽にやっている。

 そんな、夢なのか記憶なのか完全な願望なのか、よくわからない映像だったが、気分は良かった。

 せれな先生は、口笛を吹きながら、運転をしていた。何の曲かはわからないが、いそしぎで無いことは確かだった。

 なんだか、身体が軽くて、また眠ってしまいそうになる。

 さっきの夢の続きでも見よう。

 私が将来に対して何を考えているのか、わかるような気がするからだった。

 薄目を開けて、サイドミラーに映る自分を見た。うっすらと、微笑みながら映っている。

 神社に行く前のことを、もう思い出せない。

 思い出す必要もない。

 もう会いたくもない、大嫌いだった過去の自分に、私は別れを告げる。

 さようなら、ソフィスティケイテッドされた助骨で取り繕った、昔の私。

 他人の浮かべた風船が、羨ましくて仕方がなくて、卑しく見つめながら滑稽な足踏みを続けていた、昔の私。

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風船とゴシップ視線ダンサー SMUR @smursama

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