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思いの外短い時間で、目的の教室と思しき場所は見つかった。そのことに対して、中兼由麻は安堵する。体育倉庫だとか、そんな陰湿な場所に閉じ込められていたのなら、奈津乃に対してどう声をかければ良いのか、わからなくなっていたからだった。
三階、奥。ここは空き教室で、日がな一日誰一人近づかない日があることを、由麻は知っていた。なぜそんなことを知り得たのかは、記憶になかった。いつか、授業か何かで聞きかじったのだろう。
その教室の前には、女が一人いた。由麻も知っている、ジャズ研究部の女だった。
関わるなと言われたけれど、大人しく従うほど由麻は素直でもなかった。この女が奈津乃をいじめているとするのなら、船元か誰か教員の前で、酷い目にあわせなければ気が済まなかった。
由麻は女に声を掛けた。女はおどおどしていたが、それでも普通に挨拶を返してきた。けれど、この教室の前で何をしているのか、その様子からは少しも推測できなかった。
直接尋ねてみても良かった。中には誰かいることは明らかだった。音楽も流れている。鑑賞会をやっている、という様子でもない。それに、流れているのはどう聞いても、さっきジャズ研究部で聞いた、あの船元のCDだった。
「中に誰かいんの?」
とりあえず、そう訊いてみた。すると女は、案の定「鑑賞会をしている」と口にした。自分は、後から来る人のチケットを管理する人間だとも付け加えた。「学内で、チケット制で勝手にそんな催しをしているのが、良くないことだとはわかっている。頼むから密告はしないでくれ」とも口にした。
そこまで言われると、無理やり押し入る気力もなくなった。どうせ嘘だろうが、これはこいつらの仕掛けたゲームだろう。ここでぶち壊して、無理矢理に奈津乃を連れ出したって、こいつらを完膚なきまでに叩き潰した、という実績にはならない。ゲームだというのなら、中途半端に逃げ出したら、そのあとは嫌味なくらいに糾弾されるのがオチだった。ここは、しばらく静観するべきだろう。
推理をさせられているのなら、過程はどうあれ、相応の推理を叩きつけるしかこいつらは納得しない。
なら、奈津乃に有利な情報を、私から与えると、こいつらはどんな顔をするのだろう。そう由麻は、悪質ないたずらを思いついたような表情を浮かべて、チケットを確認していると嘯く女の髪に触れた。
「崩れてるわよ、ポニーテール」
そうして、由麻は女の特徴を口にする。
わざとらしく名前を呼んでは、奈津乃に伝えようとしていることが、こいつにも理解されてしまう。
奈津乃、気づいて。この女が、あんたを陥れようとしている。
女の近くに、紙とペンが置いてある。これで、中の人間に指示を送っているのだろう。そのことから、奈津乃が中に閉じ込められていることは、確定的になっていた。女の指先にも、インクが付着している。さっき使用したという証拠だろう。
女の顔は焦っていた。
彼女は、嘘を吐くのは上手かったけれど、由麻のような人間をあしらうことに於いては、もう少し努力が必要だった。かわいそうに、と由麻は感じた。けれど、奈津乃を陥れようとしているお前が悪いんだ、と面と向かって言っているような気分にはなった。
なにか、もう少し、この女の特徴を奈津乃に伝えたい。
由麻は思い出していく。
この女が、普段何をやっていたのか。
「ピアノ」
伝える。
「目立ちたがる行為」
伝える。
そして後もう一つ。
そこまで言ってしまえば、名前なんて出さなくても、この女が誰なのか、わかる人間にはわかる。
「あんた、プロの仕事は最近どう? こんなところで油売ってて大丈夫?」
女は、どんなコネクションを用いたのかは知らないが、最近はプロの仕事を手伝うようになっていた。当然相応の日当も出ると、本人が自慢していた。軌道に乗り始めており、忙しけれど楽しいし認めてもらえる、なんて自慢げに話していた。
それなのに、奈津乃に嫉妬をしているなんて、醜い人間だ。
奈津乃は、この女がそんなことをしていたって、知っていただろうか。
目の前にいた中兼由麻は、彼女の特徴を口にすると消えていった。その時彼女は、畏怖の感情さえも身を持って実感していた。
きちんと閉じられて、中には網城奈津乃がいる扉の前に、彼女は腰を下ろした。一息をつくためでもあったし、誰かが今すぐにでもここへ駆けつけて、全てを破壊してしまうかのような想像が、頭を掠めたからでもあった。
どうして、自分はこんなことをしているんだろう。冷静になってしまった頭で、そんなことを考えてしまう。
息を吐くと、白く空気中に立ち上るようだった。思えば、こんな廊下の真ん中なんて、寒いに決まっていた。それでも何も感じなかったのは、網城奈津乃を陥れいているという、麻酔のような喜びがずっと働いていたからだった。
あの女、奈津乃が気に入らなくなったのは、今年の五月くらいからだった。
いままでは目立たない、付き合いの悪い暗い女だとしか思っていなかった。実際に、それ以上の印象を抱くほど、奈津乃は社交性を持ち合わせていなかった。つまり、よくわからないだけの女だった。ギターの技量は高いようだが、中兼由麻部長が影で褒めているのを、面白くないとは思っていた。
レコード店に出没する、同じレコードを買い続ける老人の謎。その真相を奈津乃が見抜いたという話が耳に入ってきた時に、ようやく自分は、あの女に先を越されるのが気に入らなかったんだということを、はっきりと自覚した。
奈津乃の態度は、日に日に悪くなっていた。本人は気づかれていないと思っているのかも知れない。けれど奈津乃を軽蔑する彼女には、その体中からにじみ出てくる奈津乃の本音が、鼻をつまんでいたって嗅ぎ取れるようだった。
この女は、他の部員の全てをバカにしている。
推理能力をひけらかして、お前たちより私のほうが優れている、ということを、はっきりと示して、それで喜んでいるような女が網城奈津乃だった。それが、ずっと嫌いだった。
けれど同時に頭の隅では、奈津乃の推理能力を、既に疑っている自分がいた。始めは希望だった。この女が、嘘の真相をそれっぽくみんなに伝えているペテン師に過ぎないのだろう、そうであって欲しい、とだけ思っていた。
なにか不思議な謎が現れるごとに、数日経ってからその真相を部員たちに聞かせる工程があることに気づいたときに、その希望は簡単に確信へと変わった。この女は、きっと自分で推理なんてしていない。本当に頭のいい人間であれば、現場に立っただけで、真相なんてものは手に取るようにわかるに決まっていた。
なのに、奈津乃がそうであったことは、一度もない。
虚偽。
嘘クソ。
もう、奈津乃に対してはそんな言葉しか浮かばなくなっていた。
奈津乃がギターの弦を切られたときには、心の底から喜んだし、小麦粉を撒いたのは恐らく彼女だろうと思ったときには、愉快でたまらなくなった。部員の前で、嫌うような発言をしたのを、みんなが覚えている。それを広めたのは、他でもない、奈津乃を閉じ込めた彼女だったが。
だから、あとは証明するだけだった。奈津乃の評判が、ヘドロくらい汚くなっている今がチャンスだった。ここで、彼女に推理能力なんて無いことを、見せつけてやればいい。そうなると、二度と奈津乃を慕う人間なんてものはいなくなる。部長だって、奈津乃を見限るに決まっていた。
彼女は推理をしていない。となると、背後にいる人間がそのブレーンとなっている。考えられる人間は、一人しかいない。
銀川せれな。彼女が加担している。現在、銀川せれなと網城奈津乃は疎遠状態にある。邪魔が入る心配はなかった。
今回提示する謎には、前から目をつけていた。以前に船元の私物を整理していた時に、見つけたCD。そこに収録されている謎の音声。これが何なのかを、解かせるのが良かった。あのとき友人に協力を頼み、わざと船元の私物の整理を部長に提案させて、このCDを見つけさせた。かつてこれについて、必死で情報を集めたこともあった。今では、それが真相なのかはわからないが、ひとつの答えは得ていた。
アンフェアだと言われるだろうが、この孤立した状態から推理に必要な情報が出揃うことはない。音声情報だけでは、どう頑張ったって音声に対しての真実が見えるはずもなかった。
奈津乃。
無駄だろうが、せいぜい挑むといい。
こっちの推理は出来ている。
お前にはそれが出来るのか。
真相がわからないだろうが、納得させられる答えを導き出せれば、負けを認めることも考えよう。
まあそんなことは、不可能だろうけれど。
もう眠ってしまおうか、とすら思う。
私は机の上に頭を載せて、ずっと流れている音楽を意識から追い出して、ただひたすらにぼーっとしていた。そうすれば、時が解決してくれると信じていた。他に信じられるものがなかった。けれど、何もしていないということが、完全な徒労に終わったと気づいたときには、抱えなくてもいい罪悪感すら覚えた。謎を解けと言われているのに、私は何をしているんだろう。
頭を捻ったって、何も出てこない。
スマートフォンを気にしているが、紗良や美保子や由麻からの連絡はなかった。
さっき扉の向こうから聞こえた、由麻の声も、もう響いてこない。
由麻が教えてくれた、私をここに閉じ込めた主犯の情報も、紙に書き留めたが、それをじっと眺めたって、一体誰なのかは少しも浮かんでこなかった。もう少し、他人に興味を持てばよかった、と後悔した。
けれど、もう少しで思い出せそうな気が、どことなくしている。簡単なきっかけで、ちぎれて崩壊してしまう吊り橋みたいに、そいつについてを思い出すときはあっけないのだろう。そのきっかけを、神に祈るような気持ちで、ずっと待っていた。
いつの間にか、曲が終わっていた。続いて、水たまりでも踏んでいるかのような、緩慢な足音が耳に届いた。
「また流す?」
目線を上げて、その声の方を見た。長浜がプレイヤーの隣に立って、微笑みながら私に向かって尋ねていた。
「いい」私は、首を振った。「しばらく、考える」
「わからないんだ」
「わかるわけ無いでしょ、こんな少ない情報で……」私は卑しく訊いてきた長浜の顔なんて、少しも見ないで答えた。「朗読なんて、こいつの奇行なんじゃないの。説明できるわけ?」
「情報に矛盾がなくて、筋が通っていて納得の行く説明ができるならそれでもいいよ、あの人が言ってる」長浜はプレイヤーに肘を置いて、私を見下しながら言う。「その推理が優れているなら、負けを認めてやってもいいってさ。だから別に、あんたと勝負がしたいだけだよ」
「嘘をつかないでよ」
「どうかしらね」
沈黙。
暇なのか、落書きをし続けている堀切のペン先が擦れる音だけが、聞こえた。
長浜のスマートフォンが鳴った。彼女は面倒くさそうにそれを読むと、何処か嬉しそうに私に話しかける。
「今連絡があったよ。これより時間制限を設けるって」
「はあ? ちょっと、勝手に決めないでよ」私は噛み付くように身を乗り出して言う。
「こっちだって、あんたが駄目すぎて退屈してたところだから、丁度いいよ」長浜は背伸びをした。「十九時よ。十九時までに説明できなければ、あんたの負け。明日、部員全員に言いふらす。あんたが、推理能力なんて無いってことを」
慌てて時間を見た。もう一時間程度しか残されていない。
「こんなことして、何になるのよ!」私は怒った。「ふざけないでよ……子供よ。頭の中が、ガキだからそんなことして喜んでるだけよ」
「ガキはどっちだよ。私達を見下してるくせに」
「見下されて当然よ、お前たちなんて……」
「この差別主義者が」
言われて、私は姿勢を戻す。連絡は、まだない。
「さっさと再生ボタン押しなさいよ」
解くしか無い。
虚栄心のために、解くしか無い。
長浜は、もう仕事を終えたかのような表情を見せて、ボタンを押した。
聞き飽きた、もう聞きたくもない曲が、部屋に満ちていく。
美保子は、じっと待っていた。
船元の研究室の前だった。具体的に何を研究しているのか、どれほどゼミ生がいるのか、そもそもそれほどの立場なのか。船元に関して、思えば彼女は何も知らなかった。ジャズ研究部にも、顔を見せることは殆どない。それは、部長が優秀ということの証左なのだろうけれど、顧問教師としてはどうなのかと常日頃から思っていた。
紗良から頼まれた後、すぐに向かった研究室には、問題なく船元はいた。話を聞きたいんです、と彼女に告げると、「ちょっと雑務と……片付けがあるから待ってて」と言われて閉め出された。それから、三十分近くも待たされていた。部室にある私物、あの様子では、きっと研究室もまるで整頓されていないのだろう。美保子は母親に、そういった身の回りのことは、きつく躾けられていたので、逆に船元や銀川せれなのようなだらしない大人に、野生動物を見るような珍しさを覚えていた。
「檜原さん、ごめん。待たせたわ」
船元がようやく美保子を呼んだ。船元の額には、うっすらと汗すらもにじみ出ていた。
研究室の手前にある椅子に腰掛けた。さほど大きくないテーブルに、いくつか備え付けられたものだった。ここから部屋の奥のほうが見えるが、そこへは立ち入りさせてもらえなかった。というよりも、見るからに散らかっていた。興味を持たないほうがいいかも知れない。研究室の奥には本来窓がついているはずだが、大量の物があるせいか何処にも見当たらなかった。
照明は地下室みたいに不自然に明るかったし、埃臭い。
「で、どうしたの? 部活は、滞り無い?」
船元は美保子の正面に腰掛けた。机に肩肘を置いた。疲れているみたいだった。こんなところで、くつろいでいる彼女を見るのは、すこしイメージを損なうような気がした。
船元の見た目は幼い。短く、ボブカットとも言えるその髪型が、彼女の細身の体型に合っていた。年齢は三十二。その地位からすれば、かなり若いのかも知れないが、美保子には大学の教員がどういう仕組みになっているのか、調べたこともなかった。
若輩の印象があるというのに、いつもきっちりとしたスーツを着込んでいるのが、美保子はもったいないと思っていた。
そんな彼女の様子を見ながら、気を使ってもしょうがないと美保子は、船元に質問をする。
「先生、訊きたいことがあるんですけど。テレパスってバンドのCDのことなんですが」
テレパスという名前を出しただけで、船元の表情は強張った。彼女の恥ずかしい過去を、自分が面と向かって口にしたみたいで、美保子は酸っぱいような嫌な気分になる。
「……そっか、あれって部室に置いてあったっけ」船元は、ため息を吐いた後に、そう漏らした。「私の身の回りから取り除けば、消えてくれるのかと思ってたけど、間違いだったなんてことに、見つかってから気がつくなんて」
「あのCDって、なんなんですか?」
「別に…………私物よ。昔の……知り合いのバンドなの」
そう語る船元の言葉に、嘘の成分を感じなかった。美保子は、鍵のかかったドアが開かれるような感覚を、安堵とともに覚えた。
奈津乃のためになるのであれば、何でもいい。
「私物を勝手に漁ったのは、悪いとは思うんですけど……」
「良いわ。邪魔だったら、片付けてくれて良いって、前から言ってたから」
「そうですか」美保子は言う。「聞いたこともないバンドだし、面白いCDかと思って、みんなで聞いてたんです。市販されてる方と、コピーされた方があったんですけど、コピーの方を聞きました。そしたら、曲の合間に、英文を朗読してる音声が流れてきたんですけど……」
「あれは、いそしぎの歌詞。知ってる? いそしぎ」
美保子は首を振った。いや、名前くらいは聞いたことがあるが、その方が船元から話を聞き出せると思ってそうした。船元は、いそしぎとはジャズ・スタンダードの曲である、と説明をした。
とても、嫌そうな顔をしながら。
「いそしぎ……元は映画の曲だったっけ。観たこと無いから、知らないんだけど。はっきり言って、嫌いな曲よ。個人的に。思い出したくもなかったわ」
「あの朗読のこと、知ってるんですか?」
「……まあ、私のCDだし。全部箱に入ってたと思うけど、一緒に入ってた写真は見てない?」
覚えがない。誰もそんな話はしていなかった。奥の方で、くしゃくしゃにでもなっているのかも知れない。美保子は、知らないと首を振った。
「まあ、写真は良いわ。私の、学生時代の姿が映ってるだけだから。だから、間違いなくあの箱は全部私の物よ。いらないと思っても、捨てきれなかった。捨てたら、何かが終わる気がしたもの」
「…………」
「プロの仕事をね、先に得た知り合いがいたの」
具体性の欠く話を、船元は始めた。煙草でも吸いたいかのように、唇の辺りを彼女は触った。
「そいつとは、仲が良かったわけ。大学で知り合ったんだけど、幼馴染みであるかのように、親しくしたわ。しばらくして、テレパスってバンドを、そいつは組んだ。私も負けないと思って、必死で練習して、自分のバンドを組んだ。でも、プロへの声がかかったのは、テレパスの方。だっていうのに、テレパスは解散することになった」
「それは……どうして、ですか」
「ギターの奴……つまり、私の友人が、自信をなくしたのよ。急にね。演奏活動で、やっていけないって実感したみたいで。私が喉から手が出るほど欲しかったプロという地位を、虫を潰すみたいに、あっさり捨てたってわけ」
船元は、拳を握って、首を後ろに反らせて椅子にもたれかかった。怒っているのかも知れない。呆れているようにも見えた。
「あのCDが解散ライブの音源。別に、さほど売れはしなかったけど、知り合いだから貰った。っていうか、ライブ自体に招待されたわ。私は、あの場にいた。一般客も何人かいたけど、ほとんど知人よ。ちゃんとやってれば、あんな会場くらい、すぐにいっぱいに出来るはずなのに……はずなのにあいつは……」
「……いそしぎを吹き込んだのって、誰なんですか?」
船元は、一瞬だけ黙った。
そして首を戻して、口にする。見ていたのは、美保子の方ではなかった。
「教えない」
上着の裏に隠していたスマートフォンが、揺れる。
私はその瞬間に、驚いて身体を揺らせてしまったのだけれど、長浜の方は私のそんな様子に対して、まるで感づいてはいなかった。堀切は言わずもがな、ずっと暇そうに落書きをしていた。
こいつらも、すでに飽きているに決まっていた。私への憎しみだけで、よくここまで付き合えるな、と思った。
こっそりと、私は書き物をするふりをして、ディスプレイを覗き見る。
紗良からだった。一体そこには何が書かれているのか。あまり期待しないように、それでもそこには救いがあるくらいには考えながら、メールを開いた。
私の目に飛び込んできたのは、頭を木刀で殴られたような、目眩がする一文だった。
『せれな先生に、奈津乃のことで会いに行ったんだけど、会いたくないってさ どうしよう』
そんな……
期待なんて、していなかったのに。
いざ目の前を閉ざされると、その失意が背中から垂れ流されるようだった。
明確な拒否。あんなに親密だったのに、こんな扱いなのか。私は、この程度の扱いなのか。先生の中では、由麻や慈光沢美と似たような人間に過ぎないのか。私達の関係は、もっと特別なものだったんじゃないのか。
そう思っていたのは、私の方だけだったのか。
ぐちゃっと、目の前のメモを、片手で握りつぶして丸めた。
「諦めたのか?」そんな様子だけ、長浜は見ていた。「あと一時間もないけど、どうすんの? やめる?」
「うるさいな……」
私は丸めた紙を、プレイヤーに向かって投げる。
「腹がたっただけだよ」
紗良には、一種の諦めの悪さがあった。
奈津乃がなにか嫌なことをされている、だから助けたいという動機。そして、何があったのかは詳しく知らないが、自分の生徒を蔑ろにする銀川せれなにに対する憤りがあれば、一度断られたくらいで簡単に引き下がる道理にはならなかった。
エントランスの辺りで、銀川せれなにメールを送り続け、そしてインターフォンで呼び出し続けていると、根負けした銀川せれなは、紗良を家に招き入れた。迷惑行為だといえばそれまでだが、久しぶりに見た銀川せれなの顔は、明らかに寂しさを帯びたものだった。
「まったく、いい友達を持ったものね」
玄関先で、彼女は呟いた。それが紗良ではなく奈津乃に向けられた言葉であることを理解すると、やっぱりこの人は奈津乃のことしか考えていないのだなという確信を得た。
リビングの椅子に座らされた。いつも、奈津乃がくつろいでいたであろう席だった。
紗良は、少しも楽しそうな顔も見せない銀川せれなに対して、これまであったことを説明した。奈津乃が嫌な人間の嫌がらせを受けて閉じ込められている。推理能力があると証明すれば、開放してもらえる。謎は、テレパスというバンドのライブ音源。そこで呟かれている英詩。
それらを全て、このギター講師に聞かせれば、なにかヒントが出てくると思った。彼女の音楽知識は、並のレベルではなかった。奈津乃だけの推理で、今までやってきたことではないと、紗良も理解していた。奈津乃の裏で、銀川せれなが助言をしていたから、奈津乃は明快な推理がはじき出せる。そういうシステムになっていると思っていた。
「なにか、わかりますか?」
紗良の話をすべて聞いた上で、じっと目を瞑って考えこんでいた銀川せれなに、紗良は尋ねた。その一言を、天啓のようなヒントを、ならばいっそのこと正解や真実そのものを口にしてくれるかと期待した。
反して、銀川せれなの口からこぼれ出たのは、嬉しい類の言葉ではなかった。
「私が答えを言うことで、奈津乃ちゃんのためになる?」
咎めるような視線を、銀川せれなは向けた。
紗良は心臓の裏まで見透かされたような気分になったが、食い下がった。
「それは、わかりませんけど、でも、奈津乃が困ってるんです」
「自分で解かなきゃ意味ないわ」
突き放すように、彼女はそう口にする。
「人からの優越感を、そうやってインスタントに得るだけのつまらない人間になっちゃ、駄目なのよ」
けれど、そう話す銀川せれなの裏には、
もう、なにか解答があるような気がした。
「……わかったんですか、真相」
間を開けないで、即答するように彼女は、
「ええ」
美保子は、船元のする話を、黙って聞いていた。
こんなに雄弁な船元は、入部して以来、一度も見たことがなかった。葬り去った思い出なのかも知れないが、それはそれとして、誰かに話してみたかったという露出狂のような欲望が、彼女にはあったのだろうか。
「あいつ……テレパスのギターの奴……同じ学年だったのに、相当上手くて……悔しかったから、私は必死で練習した。朝も昼も夜も、ずっと練習した。あいつがどうしてプロの仕事をもらえて、私はもらえないのか。似たような立場にすら、なんでなれないのか。それを全部ぶつけた。そしてついに、確信したの。私が抜き去ったんだって。演奏を聞いた時に、自分のほうが、あいつよりも上手い次元に達したんだって、思った瞬間があった。でも、抜き去ってみたら、あっけないもんよ。あいつの心が簡単に折れたの。なによそれ。本当、ふざけてるわよ。そんなの……私がテレパスを解散させたようなもんじゃない」
船元は、両手で自分の顔を覆った。悲しんでいると言うよりも、憤っている表情を、美保子には見られたくなかったのだろう。
「先生」恐る恐る、美保子は尋ねた。「解散ライブのとき、先生たち……つまり、バンドの友人たちっていうのは、どのあたりに配置されていたんですか?」
「ああ……最前線よ。ステージの直前。特別席だって言ってたけど、普通の席だった。録音用のマイクが、近くにあった。客席に配置されてたから、あんな朗読が残せたのよ」
「どうして、CDが二枚あるんです?」
「一枚は製品版。そして、コピーされたほうは、あの日、ライブ終了後に会場で貰ったものよ。友人たちには、記念に配ったのよ。製品版は、いそしぎの朗読の部分や、曲の合間の無駄な時間がないはずよ。編集でカットされているから、曲だけがスムーズに繋がるようになってるの。聴いたことがないから、知らないけどそうだって言ってたの、知り合いが」
そして船元は、聞いてもいないことを口にし始める。
「テレパスのバンド活動自体は、順調だったのに……あいつが、突然やめるって言い出して……。それから解散までは早かった。あいつが作曲とアレンジ部分を受け持っていたから、あいつにモチベーションがないと、無理だって思ったんでしょうね……あいつは、リーダーでは決してなかったけど、そういうデスクワークみたいな方面に長けていたの」
船元が、両手を外して、手のひらを見つめた。
空気しか、そこには乗っていない。
謎なんて、もうどうだってよかった。
また垂れ流しになっている、吐き気すら連動して思い出してしまう曲のことを忘れ、私は扉の外を睨む。姿は見えないし、まだそこにいるのかどうかもわからなかった。
だけど、怒りをぶつけずにはいられない。
私を陥れて、私を閉じ込めて、こんな惨めな気持ちにさせる人間を、はっきりと言ってしまえば、生きたまま家に帰すつもりはなかった。ここがそういう時代であれば、私は自分の命を賭してでも、あいつの息の根を止めていた。
ただただ、憎い。
部員なんて連中に、良い感情を抱いたことなんてなかったが、これほどの憎しみを自覚したのは初めてだった。けれどもともと嫌いな連中に、ここまでの憎悪を向けるのは、爪楊枝をへし折るくらいに簡単なものだな、と頭では感じた。
誰なんだ。
せめて、その人間が、誰なのかをはっきりとさせる。
私の脳は、全てそれを解明するためにリソースを割いた。憎いあいつの、悪行をせめて知らしめてやらないといけない。
「なによ」
と扉の近くにいた長浜が訊く。どうでも良いから、無視した。お前の顔なんて、見たくもない。堀切は相変わらず、バカみたいに落書きを続けていた。一生そうやっていて欲しい。
そもそもの話。
この状況は、私を孤立させようという目的に沿って作られているのではないか。私を閉じ込めて嫌な目に合わせるというより、私が誰か外部の人間と連絡を取ることを、嫌っている。私の推理能力を試したいのであれば、スマートフォンまで取り上げる必要もない。
思い出す。由麻の口にした特徴。
ピアノ、そして、ポニーテール。目立つことを好むその態度。プロの仕事をしているなんてことは、考えてもわからないから無視する。
私の推理能力を疑う理由。それは、他にそういう頭の回る人間に心当たりがあって、私とその人物が繋がっていることを知っているからだろう。
外部の人間とは、銀川せれな先生。
境界条件は、銀川せれなとその推理能力を知っており、ポニーテールで、ピアノを演奏するジャズ研究部員。
簡単だ。
銀川せれなを具体的に知るジャズ研究部員なんてものは、この世に三人しかいない。
私、由麻、そして、
「慈光沢美……あんただったの」
私は立ち上がって、プレイヤーを止める。
知らない世界の音楽は死に、耳が痛くなるほどに静かになる。
扉に向かって、私は叫んだ。怒りを覚えた私は、自分を止められなかった。
「慈光沢美! なんのつもりよ!」
長浜は慌てて私に駆け寄って肩を掴んだ。堀切は目を丸くしている。
「網城! 推理をしなさい!」
「黙れ長浜!」
私は振りほどく。長浜は壁にぶつかった。
扉の向こうから、動揺のような物音がした。
「出てきなさいよ、慈光。面と向かって話しましょうよ」
諦めたように、扉が開かれた。
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