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 櫛淵紗良は用事を終えて広場に向かいながら、網城奈津乃のことを考えていた。

 本館の階段は急だった。いつも、初老の教授が息を切らせながら登っているのを見て、少しかわいそうな気分になっていた。なにか、エレベーターとか、そんな物があれば良いのだけれど、そんなものを設置するほどの予算が、この大学には無いのだろう。

 奈津乃……。

 あの日以来、ギターも弾いていないという。バンド活動も止まった。もともと、さして目指すところが定まってはいない集まりだったけれど、なにもしていないとなると、不安にすらなってくる。紗良自身は他のバンドと掛け持ちをしていたので、感覚が鈍って技量が地に落ちてしまうといったことはないにしても、奈津乃に惚れ込んだ人間としては、手応えのない日々を送っていた。

 美保子も暇をしているだろう。ドラムは家でも叩けるらしいけれど、やっぱり人と合わせるほうが、ずっと楽しいと彼女も言っていた。その点は紗良も同意だった。奈津乃はそういう風でもなかったが、少なくとも彼女の居場所にはなっているつもりでいた。

 それなのに、銀川先生との縁が危うくなるとこれだ。

 自分たちは、奈津乃にとって実はその程度の人間だったのだろうか。余計なことを考えてしまう。そんな腹のさぐりあいなんて、バンド活動には必要なんて無いのに。奈津乃の一番でいなくたって、音楽は演奏できるっていうのに。

 せめて、リフレッシュの相手をしてやろう。気難しい奈津乃に合わせられるのは、自分たちだけなんだから。紗良はそう決めて、足を速めた。急いで行ったっていうのに、広場には網城奈津乃の姿は無かった。

 美保子が、一人でベンチに座っていた。話と違う。二人で待っているという予定だったはずなのに、奈津乃は何処へ行ってしまったのだろうか。

 美保子は紗良を見つけると、手を振って呼び止める。

「奈津乃は?」

 紗良が尋ねると、美保子が煮えきらない顔をして、説明した。綺麗な顔なのに、そんな変な表情を浮かべると、妙な気分になるな、と思った。

「さっき、長浜が連れて行ったのよ。急用だって。急いでる風ではなかったけど、困ってそうだった」

「長浜恵子が?」

 意外な名前が出てきて、紗良は面食らう。長浜恵子なんて女は、奈津乃とはまともに口を利いたこともなかったはずだ。いつの間にか、打ち解けていたのだろうか。いや、奈津乃には悪いけれど、奈津乃の性格から言って、長浜と仲が深まっているなんてことはないだろう。

「何の用事だって?」

「さあ、そこは聞いてないわ」美保子も不思議に思っている。「とにかく来てくれってだけ。来てくれたら、なんか奢るから、とかも言ってたかな。何があったのかな。それから奈津乃も、全然戻ってこないし」

「……リンチでもされてるんじゃないかな」

「長浜って、ヤンキーなの?」

「見た目があれでも、中身は別に、面白いやつだと思ってたけど」紗良は首を振る。「うーん、そういうタイプじゃないよね」

 時間は、夕暮れどきを差していた、これから、奈津乃を連れ出して夜が深まるまで遊んでしまおうなんて考えていたのに、考えもしないことが起きてしまった。

 スマートフォンが鳴った。どうせ、登録した覚えのないメールマガジンだろうと思いながら、ポケットから取り出して画面を見つめた。

 奈津乃からだった。

「美保子……!」

「もしかして、奈津乃?」

 紗良はメールを開いた。何が書いてあるかなんて、少しも予想できなかった。けれどどんな文面であろうと、動じないように自分を律した。

 内容は、

『閉じ込められてる あのCDの謎を解く手がかりを探して教えて』

 それだけだった。

「なによこれ」画面を横から覗き込んでいた美保子が、つぶやく。「閉じ込められてるって? 長浜ってやっぱりヤンキーだったのね……」

「大変だよ、美保子」紗良は意識をして、勢いに身を任せてしまわないようにしながら、口を開いた。「奈津乃を探さないと……」

「紗良、だめ」

「どうして」

 美保子は紗良の肩に手を置いた。言い聞かせるようだった。

「だって、あいつらって、何をするかわからないでしょ。変に奈津乃の居場所を探して、奈津乃に何かあったらだめでしょ。相手はヤンキーなんだから。指でも怪我させられたら、奈津乃がバンドに戻ってくることなんて、無いわよ」

「…………うん」

 美保子の言ったことは、極端なまでに大げさだったのだろうけれど、紗良はとにかく深呼吸をして、奈津乃が送ってきた文面を、もう一度眺めた。

 彼女を閉じ込めているのは、長浜で間違いない。とすれば、堀切も一緒にいるのかも知れない。なら、考えたくもないことだが、バンドが同じ由麻だって、それに関与しているかもしれない。

 奈津乃を閉じ込める目的って、なんだろう。

 長浜も堀切も、奈津乃のことが、好きじゃない。由麻だって、今までは付き合いで奈津乃と仲良くしていたけれど、それ以前の関係は最悪だった。奈津乃のことが気に入らないから、奈津乃を閉じ込めたとしか、現時点では考えられない。

 奈津乃の推理が、きっと癪に障ったんだ。

 そして、なぜか奈津乃が要求しているCDの謎。多分、あの英文の朗読のことだ。長浜たちは、この謎を無理矢理解かせようとしているのだろうか。

 その答えなんて、最悪の場合、誰にもわかるはずがないのに。

「CDの謎って……」美保子が言う。「あの変な声よね。あれが……きっと宝の暗号にでもなってるのかしら。いやらしわねえ」

「違うと思う」紗良は冷静に否定する。「多分…………奈津乃に、本当に推理力があるのかどうかを、試してるんだよ」

「……そんなの調べてどうするの?」

「きっと、奈津乃に推理力なんて無いって、あいつらは思ってるんじゃないかな。そうだとしても……今回の謎って、答えなんかわかるわけないのに、無茶を言うよ。始めから無理なんだよ」

 長浜の顔を思い浮かべて、殴った気になる。彼女は、結局は濡れ衣だったようだが、外部演奏会の時に、奈津乃のギターの弦を切断した疑いのあった人物だ。疑われたこと自体も根に持っているはずだった。弦を切った犯人が誰なのかは、奈津乃は結局教えてくれなかったが。

 あのCDについて、奈津乃は殆ど知らない。だからこうして、紗良に助けを求めるメールを送った。文面も簡単だ。おそらくは、長浜の目を盗んで、それだけ打って送信したと推測できる。

 自分たちに出来ることは、謎の手がかりを見つけることだったが、奈津乃はつまり、本当はこう言いたかったんじゃないか。

 ――せれな先生に尋ねて欲しい。

 銀川せれな先生であれば、この謎にもそれなりの解答を出せるだろう。紗良も、銀川せれなといろいろと話したことがあるが、彼女は時々恐ろしくなるくらい、偏執的な知識量を誇っている。いままでだって、きっと奈津乃一人で謎の答えを見つけてきたわけではないだろう。

 奈津乃は、今は疎遠の銀川先生に頼りたかったけれど、それに臆してしまって、代わりに紗良にメールを送った。そうに違いない。

「…………」

 本当に頼られるのは、やっぱり銀川先生なのか。

「美保子……私、銀川先生に会いに行ってくる」

「そうなの? 私も行く」

「ごめん、美保子は、船元を捕まえて、あのCDのこと訊いて。ここは、ふたりで別れたほうが良いと思う。なにかわかったら、メールして」

「うん、船元先生ね?」

「じゃあ、お願い」

 紗良は駆け出す。銀川先生の自宅までの道のりは、そう遠くもないという理由から、完璧に記憶している。問題なのは、この急な下り坂を、走って駆け下りるのは、登るときよりも体力を使うという点だった。

 運動なんて、少しも得意じゃない。妹は身体を動かすほうが好きみたいだったけれど、紗良はそんな妹を軽蔑して、見下して、心の底からバカにしていた。

 下りながら、銀川先生にメールを送ろう。いきなり尋ねても、迷惑になるだけだ。留守ということは、奈津乃の話からすると、恐らく無い。家にさえ行けば、確実にいるはずだった。

 なんとしても、

 奈津乃の役に立ちたいと、紗良は祈るような気持ちで、そう思った。



 中兼由麻は、学外のコンビニに軽食を買いに行った帰りに、校門のあたりでこれまで見たことがないくらいに慌てている櫛淵紗良を見かけて、何事かと思って呼び止めた。

 紗良は驚いた顔をして止まった。まるで、由麻がここにいることが、意外だと思われているみたいだった。

「どうしたのよ、紗良」

 膝に手をついて、酷く息を切らせながら、紗良はひねり出すように答えた。

「由麻…………よかった、はあ……はあ……」

「トイレ? こっちにはないわよ」

「ちがうって……えっと、奈津乃が……大変なんだよ」

「大変って」

 もしかして、あのバカは早まって自殺でも図ったんじゃないかと、由麻は想像した。

「長浜たちに閉じ込められてるみたいで……、あのCDの謎を解けって、迫られてるみたいでさ…………奈津乃が、ヒントを探してくれって、私にメールくれたから、私は銀川先生のところに行こうと思って……。美保子は、船元先生のところに……」

「……そういえば、練習が終わってから、恵子たち見てないわね。自主練でもしてるのかと思ったけど」

 由麻は思い出す。長浜恵子と堀切あきは、一度バンドで音合わせをした後、何処かへ消えた。由麻はどうせ、彼女たちがいないと自主練をするか、後輩バンドの面倒を見るのに終始していたので、特に時間を持て余すことも、いなくなったことに対して憤りを覚えるわけでもなかった。由麻としては、そういう煩わしさのない、薄い繋がりの中でバンドを続けていきたいという考えがあったのだけれど、まさか奈津乃に嫌がらせをしているだなんて、想像もしなかった。

 どうしてだ。やっぱり無理にでも合宿を一緒にやっていたほうが良かったのだろうか。由麻は一瞬にして、そこまで深刻に思いつめた。バンドとしての結束を深めていたら、あいつらも奈津乃に嫉妬することもなかったのだろうか。部長は奈津乃の方を認めているのかも知れないと言った疑念が、彼女たちをこの暗黒面に誘ったのかも知れない。

 いろいろと、可能性だけは頭をよぎる。けれど、一人で悩んでも仕方がないと、由麻は結論づけた。

 とにかく、あいつらを叱ろう。練習もしないで下らないことをやっているという事実のみで、由麻の不満は抑えきれないくらいに蓄積された。

「恵子たち、何処にいるって?」

「それがわからないんだよ……奈津乃も、監視されてるのか、短い文面を送るだけで精一杯だったみたいで……」

「わかった。じゃあ私は、奈津乃を探してみるわ」

「あ、ありがとう」紗良は言って、由麻を見つめる。「でも、見つけても関わらないでね。奈津乃が……なにかされちゃうかも知れないから」

「安心なさい」由麻は胸を張る。「その時は私が、あいつらひとりひとりの指を丁寧に折るわ」

 紗良の背中を見送った由麻は、とにかくスマートフォンを取り出して、まずは奈津乃に電話を掛けた。

 一瞬で、コールが切られる。奈津乃自身が、拒否したのだろう。その理由を考える。おそらく、電話が掛かってくると不味いから。長浜には、スマートフォンの使用も認められていないらしい。

 続いて長浜恵子に電話を掛けた。こっちも繋がりはするけれど、コールが垂れ流されたまま、長浜の声が聞こえてくることはなかった。つまり、拒否することもなく意図的に無視をしているか、もしくは何処かに電話を放置しているか。バイト中であれば有り得る話だが、長浜にそんな予定があるなんて話は聞いていない。

 堀切にも掛けたが、同じ反応だった。

 手ひどく裏切られたような気分を、由麻は抱える。

「だったら、探してやるわよ」

 本館に向かって歩き出す。

 人気の薄い教室を全部調べていけば、こういうものはすぐに見つかるに決まっていた。



 メモを取って、考えているふりをするのにも飽きたので、私は堀切に向かって、こっそりと手招きをする。

 堀切は馬鹿正直に長浜の方を伺ってから、私の方へ近づく。長浜は椅子に座ってスマートフォンを眺めていた。ゲームでもしているのか、もう私の方なんかに興味なんてなくしてしまったようだった。

 私はひとつだけ思い当たる節を、小声で彼女に尋ねた。

「ねえ、堀切。あんた船元先生のことに詳しいわよね」

「別にくわしくはないよ」堀切は首を振った。「電話番号だって知らないよ」

「あの人の昔の話とか知らないの? 堀切、一年のころから船元の授業を取ってたんじゃなかった?」

 堀切のことなんて覚えてもいなかったけれど、当てずっぽうにそう鎌をかけると、堀切は頭をかいた。

「去年は取ってないけど……まあ昔の話なら聞いたことあるかな。私と長浜と、あと何人かで飲み会をやったんだよ。船元、あれでも生徒と話すの好きみたいでさ、ダメ元で誘ってみたら、オッケーしてくれて、しかも奢ってもらえたんだから、驚いちゃった」

 普段は鉄の女とでも呼ばれたいのかと思うくらいに、淡々とした授業をやっている人間なのに、意外な側面があるものだった。私自身、せれな先生とは親しいがその友人の船元の話を、彼女からそれほど聞いたこともなく、私も船元と深い関係にあるわけでもなかった。確かに船元は、あのジャズ居酒屋に出入りしているらしいという話は、この間に聞いたばかりだった。学校ではおくびにも出さないが、にぎやかな場所と酒が好きなのかも知れない。

 そこまで話した堀切は、やべえと呟いてから口をふさいだ。

「恵子に余計なこと言うなって言われてるんだった。今のは忘れなさいよ、網城」

 CDの音量を大きめにしてある所為か、長浜はこちらに気づきもしない。音楽に聞き入っているようにも見えないけれど。

 私は、堀切は私が思った以上に船元に詳しいのだろうと推測して、ここに謎を解く手がかりを見出す以外に先がないと決めつけた。私はさらに訊いた。

「こんなの、答えのうちに入らないわよ。雑談よ。あんただって、こんなことに巻き込まれて、暇なんじゃないの」

「暇だけど……」堀切は不味そうな顔をする。「でも、あんたが失敗するところが見たくて協力してるんだよ。だから、何も言わない」

 意地の悪いやつだな、と私は思う。

「……じゃあ、レポートを一回だけ代わりに書いてあげるわ。あんただって、そういうの苦手だったわよね」

「……取り引きってこと?」堀切は私に顔を近づける。「でも網城、自分のレポートも危ういのに私のなんて手伝えるわけ」

「うるさいわね。約束は守るわよ」

「そうか…………じゃあ恵子にバレないように、紙に書いて渡すよ。ちょっと待ってて」

 私は堀切にノートを一枚破いて渡した。長浜のノートだったけれど、そんなことはどうだって良かった。

 堀切は、CDプレイヤーの乗っている教卓の隅で、取り出した筆記用具を用いて、つらつらと船元に関する知っていることを書き始めた。さほど期待はしていなかったけれど、書き上げるまでに十分程度の時間を要した。彼女から返って来た紙を眺めると、文字の並びがそれなりの密度を有していた。

 船元美空。三十二歳だという。そうなるとせれな先生も同じ年齢なのだろうか。私は、この時初めてせれな先生の年齢を知った。

 学生時代は、ジャズバンドをやっていた船元は、その経験を買われて、ジャズ研究部の顧問を任されるようになったらしいのだが、顧問というほど部活に顔も出さないのはいかがなものかと私は思った。何の楽器をやっていたのかは、記述がない。記述はなかったが、とんでもない技量らしいと、誰かに聞いたのかそう書いてあった。誰も彼女の演奏を聞いたことがないのに、本当にそんなに上手いのだろうか。眉唾だな、と私は思う。

 バンドではプロデビューを叶えることが出来なかった。理由は時勢と、世論と、本人の熱意だった。船元には、技量はあれど、そこまでの熱意がなかったのだろう。彼女はバンドを諦め、急に教師への道を志すようになる。人前に出るよりも、何かを作るよりも、人材を育成するほうが自分にはあっている、と酔った勢いで語っていた、とここには堀切の楽しそうな字で書いてある。

 ふうん、と私は鼻を鳴らした。あの船元がバンドをやっていたなんて話は、一度だって聞いたことがない。なにより船元という人間と、バンドという活動的な行為が、まるで結合しなかった。嘘ではないかと、私はまだ感じていた。

 しかも、プロを目指していて、挫折をしてこんなところで教師をやっている。

 船元を、これから同情のような目で、見てしまいそうになる。

「何やってんの」

 突然頭の上から声を掛けられて、私は驚いて首を真上に向けた。

 長浜が、私を覗き込んでいる。

「いや、これは……」

「それ、あきの字じゃないの! なにやってんの!」

 長浜が堀切にそう叫ぶと、堀切は申し訳無さそうに謝った後に、私を睨んだ。お前のせいだぞ、とでも言いたげだった。それはその通りだった。

「もう……何も教えるなって、言われたでしょ」

「だって……網城がしつこいから」

「無視しなさい、無視」

 私は、そんな長浜の背中を片手で捕まえて止めてから、言った。

「あんたも飽きてるんじゃないの?」

「……は。そりゃそうよ」彼女は開き直る。「やりたくてやってるわけでもないからね。あんたが嫌な思いすると思って、協力してるだけよ。早く降参してよ」

「こんな調子じゃ、一生解けないわ。あんた、今日は家に帰れないかも」

「じゃあ諦めろっての」

「嫌よ」

 私が断言すると、長浜は少しだけ、吐き気を抑え込むみたいな、うんざりした顔を見せる。

「あんたさ」私は彼女に囁いた。「テレパスのこと知ってる?」

「知らないって」

「私も何も知らない。でも、そんなの不公平でしょ。推理もクソもない。あんた、誰だか知らないけど、そいつの推理をちょっとくらいは聞いてるんじゃないの」

「聞いてないって。私は……ちょっとだけ、真相だけを聞いただけ。テレパスについては、何も知らない」

「なら、今夜は泊まりよ」

「…………」

 よほど泊まりが嫌なのか、長浜は考え込んだ。私なんかでも、彼女をどうこうできるのだから、長浜は思った以上にわかりやすい人間なのだろう。

 やがて、彼女はスマートフォンを触り、誰かにメッセージを送った。返事はすぐに返ってきた。

「……アンフェアってのが気に入らないから、聞いてやったよ」言い訳がましく、彼女は言った。「あの人と同じ程度には、テレパスのことを知っておいたほうが、良いよね」

 彼女は画面を私に見せる。そこには、テレパスの基本的な情報が書かれていた。

「……ありがと」

「礼は言うな。どうせ無駄だよ」

 テレパス。十年ほど前に存在した、プロのジャズバンド。メンバーは記されていない。非公開だったのだろうか。そういう売り方も、インターネット時代にはよくある。おおよそが二十代だと推測される。プロだけあって、当時は様々な場所で演奏活動をしていた。人気は、若輩のジャズバンドにしてはそれなりにあったほうだが、大成する前に解散。理由は不明。単に、生活環境の変化だろう、と書いてある。

 その音楽性は、ジャズの粋を超えるとも言われていた。ギタリストの作曲及びアレンジ能力が卓越していて、既存のジャズにもフュージョンにもない、人を喰ったような音楽が垂れ流されるのが特徴だった。オリジナル、カバー共に、テレパスの音楽にしかなりえないものが提示されていた。

 アルバムは、スタジオ盤が二枚、ライブ盤が三枚。私が今頭を悩まされているものは、どうやら最後に出たライブ盤、つまり解散ライブのものだという。

 記述はそこまでだった。そんなことを聞いたって、何かわかりそうなものでもなかった。

 私は、スマートフォンを長浜に返す。そして今知り得たことと、とりとめもないことをメモに書き出した。眺めてみると、本当にこの程度の情報で、真相にたどり着いたのか、信じられない気持ちになった。

 なにか、まだこいつらは隠しているのか。

 それとも、私がまだ情報を拾い切れていないのか。

 はたまた、情報は出揃っていて、私の頭ではつなげることが出来ないのか。

 CDの演奏は、今一番盛り上がっている箇所を流していた。悲しいくらい、そして腹立たしいほどに、いい曲だった。



 外から、声が聞こえる。CDが流れている合間にも届いてくる、大きめの声だった。

 聞き覚えがある。思い出すと、すぐに誰なのかを手繰り寄せた。この声は、中兼由麻だった。

 由麻……。さっき、彼女から電話がかかってきたときから、もしかして彼女の耳にも私の現状が入ったのかと期待はした。電話には、悪いと思ったが出ずに拒否した。スマートフォンを隠しているということを、長浜に見つかるわけにはいかなかった。

 私は立ち上がって、扉に近づこうとしたけれど、堀切は私の方を向いて、人差し指を唇に当てた。「黙っていろ」そういう意味だろう。逆らう勇気もなかったので、私はとにかく大人しく従った。由麻を巻き込むことも悪いと思った。

 長浜は扉に近づいて、そっと様子をうかがう。

「中に誰かいんの?」

 由麻の声が、はっきりと聞こえる。どうして、彼女がこんなところに来ているのか。予想もつかなかったけれど、私はそれだけで、無性に嬉しくなった。

 この機を、逃したくなかった。なにか、なにか私がここにいるっていう示しが、彼女に伝われば……

 考えを巡らせた。スマートフォン、今は堀切がじっと見ている。触る余裕がない。咳払いも許されないし、それだけで、由麻は私がいると気づいてくれるのか、怪しい。騒ぎでも起こすか。奇声を上げれば、私だと気づいてくれるか。そうなると、長浜にどんな目に遭わされるのかわからないけれど。

 結局、何も出来ないでいた。

 私は、いつもそんな気がする。

 大事な場面で、選択を誤るんだ。

 すると、扉の外から聞こえる声が、

「崩れてるわよ、ポニーテール」

 そう口にした。

 これは、外にいる人間の、外見的特徴か? 私が中にいると理解していて、状況も飲み込んだうえで、彼女は外にいる黒幕が、どんな人間なのかを私に教えている。

 なんて、頭の回る女だ。

 聞き入る。長浜も、気が気でないらしく、顔は焦っていた。

「……そういえば、ピアノ、良かったわよ」

 ピアノ。

「でも変に目立つ行為は、やめたほうが良いわ」

 人格。

 そこまで言われると、誰なのかを絞り出すのは容易に思えた。

 ああ、

 由麻。

 私は、あなたと仲良くなって、本当に良かったと思う。

 扉の向こうで、由麻が微笑んだ気がした。

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