第6話

 小さく丸くなり、小刻みに震えていた凛々の肩に何かが触れた。

 大きく身体を震わせて、恐る恐る顔を顔を上げ、目を開ける。

「……っる、ルー、カ……?」

 凛々を覗き込むように屈んでいたルーカの目許が和んだ。

「無事だな。聖都の結界だって万能じゃないんだ。あまりうろちょろすると、今みたいに魔物に遭うぞ。知ってるだろ」

 小さな溜息を吐いて、凛々の身体をゆっくりと起こした。優しい動きに、あたたかい温もりに、恐怖で冷えきり固まっていた身体が徐々にほどけていく。

「なんで屋敷を出た? いや、街を出たんだ? 危険な事ぐらい分かってるだろ。幸い、霧はまだここまで届いてないけど……」

 凛々は答えられなかった。ぼんやりと歩いていたら、ここまで来てしまったのだ。理由なんて無い。

 口籠った凛々に何を思ったのか、ルーカは眉を顰めた。

「……死ぬ気だったのか?」

「え、」

「おまえ、ずっと……気にしてただろ」

 表情を険しくしたルーカに、条件反射のように身を竦める。

 真っ直ぐに射抜く瞳に囚われたまま、凛々は言葉を発することができなかった。否定もできないでいると、ルーカが静かに言った。

「おまえが死んだって、何も変わらないぞ」

 ルーカの言葉は正直すぎて、寄り道を許さずに心を抉る。

 何も言えなかった。違う、とも。

 死ぬつもりはなかった。あえて言うなら何も考えていなかったけれど、本当にそうかと聞かれると、すぐには頷けない気がする。

 凛々は確かに裁きを待っていたのだから。

 誰かが凛々の行いを糾弾して、罪状を述べて罰を与えてくれるのを、待っていた。

 そうする事によって、楽になれると思ったから。――凛々だけが。

 凛々が死んだって、変わらずに世界は蝕まれていくし、人の嘆きは増すばかり。

 三年前、凛々の存在が何も救わなかったように、今も、たとえ凛々が命を絶っても、現状が変化することは無いのだ。

 凛々はただ、楽になりたかった。何も考えず、苦しまず、悪夢に魘される事も無く過ごせる場所に行きたかった。単純な思考は、それを「死」と結びつけた。

 けれど、実際には死ぬことすらできない。間近に迫ったそれに恐怖を覚えて逃げ出した。

 ……本当に、どうしようもない……。

 自嘲気味に口許を歪める。ルーカは何も言わなかった。

 長い間、沈黙が続いた。

 少しずつ朝靄が引き始めた頃、凛々もゆっくりと平静さを取り戻していた。その時、ふとルーカの頬や腕、衣服に付いたものに気付いた。

「ルーカ、それ……」

「ん? ああ、オレの血じゃない。魔物だ」

 指差すと、ルーカは手の甲で頬を擦った。既に乾いていたのか、少しパリパリしていて、粉みたいに取れた。

 魔物の、血?

 よく意味が分からなくてきょとんとしていると、一瞬だけ躊躇してから、ルーカは凛々の背後を示した。そこには、一体の魔物が力無く倒れ伏していた。赤黒い液体をどくどくと滴らせた、無惨な姿で。

 ひっ、と喉が引き攣る。思わずルーカの腕を掴んだ。

「もう死んでる」

「わ、分かって、る」

 過去、何度も見てきたのだ。だからといって慣れる事は無かったけれど。どんなものでも、あのような姿を見るのはあまり気持ちのいいものではない。

「……まさか、ルーカ、が……?」

 周りには他に誰も居ない。気付いた瞬間、凛々は今まで以上に驚愕した。まさか、そんなはず。

 しかしルーカは事も無げに頷いた。

「さすがに神官を叩き起こせないだろ。間に合うか分からなかったし」

 よく見ると、片手には槍を携えていた。あの、小さかったルーカが。

「戦えるの……?」

「じゃなきゃ今頃死んでるぞ、オレ達」

 呆気に取られた凛々は、不意に泣きそうになった。

 彼は、また、「できること」を増やしていた。

 凛々の知る限り、三年前の少年は戦えなかった。いや、もしかしたらあの頃から修行や訓練を積んでいたのかもしれない。それでも、ルーカが戦う場面を見たことは無かった。つまり当時の彼は「戦えなかった」のだろう。実践では何の役にも立たないとされていたのだ。そして、ルーカ自身もきちんと分かっていた。

 ――本当に、彼は、いつも、いつだって、自分にできることを、する。

 悔しいはずなのに、歯がゆいはずなのに、いつだって、見つめることを恐れない。できない自分を認められる彼は、とても潔くて、でも、決してそこで諦めない。

 自分にできることとできないことを知ろうとする彼は、きっと誰よりも強い。

 ――あたしは怖かった。自分が「何もできない」ことを認めるのが、とても怖かった。

 だからいつも無茶ばかり、無謀ばかり、できないことをやろうとして、案の定できなくて、失敗ばかりで、口だけで、傷ついて、傷つけて、苦しくなって、……逃げ出した。

 でも、ルーカは、できないことはしなかった。できるようになるまで、我慢して、耐えて、がんばってがんばって力を付けて、――今、凛々を助けた。

 ぎゅっ、と。拳を握る。

 ――あたしは。

「あた、し……あたしも、できるかなっ? もっ、もう一回、やってみても、いいかな? できること、あたしも、っあたしに、できること、を……!」

 できることを、見つけたい。

「――あるさ、絶対。大体おまえは高望みしすぎなんだ。できもしない事をやろうとして、やっぱりできないから逃げたくなるんだよ」

 優しく微笑んだルーカに、涙が溢れた。

 過去の無邪気な彼と重なって、カシャと、重なって。――初めて、進めるような気がした。

 ぐしゃぐしゃに泣き喚く間、ルーカは困ったように眉根を寄せて、それでも側に居てくれた。

 ぎこちなく頭を撫ぜる手。言葉をかける事も、慰める事も無かった。

 けれど、凛々にとってはその手が、世界で一番、優しく感じられた――

 その手が、凛々の背中を押してくれる。弱くて、卑怯で、臆病で、まだ何もできないけれど。もう神威じゃないし、救済者でもない。――それでも、ここからもう一度、始める。

 今度こそ、世界を救えるように。


 ――いつか、僕にしかできないことがあるんだ、って。そんな風に、なりたいんだ。

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リトルノ-帰還- omi @omico88

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