第5話

 当ても無く歩いていると、いつの間にか街から出てしまった。

 立ち尽くした平原で、ぼんやりとしていた頭が冴えていく。凛々の周りを漂う白い靄のせいで、視界は霞みがかっていた。朝靄か、それとも……「死の霧」か。

 気付いた時には遅かった。

 身体が強張る。

 霧は今、世界のどこまで広がっているのだろう。

 聖都とその周辺は結界によって護られているから大丈夫だと聞いたけれど、三年前の情報だ。二十年で人口が半分になってしまう程の進行速度だ。ここまで来ていないとは言い切れない。……神威であるならば、死の霧に蝕まれる事は無いけれど。

「……もう、違う」

 確かに凛々は死の霧が平気だった。神威であった過去、蔓延する霧の中を無謀にも飛び込んだ事があったけれど、異常は全く見られなかったという実証がある。しかし、今は違う。逃げ出した凛々は、神威じゃない。

 戻らなければ、と。震えだした身体を叱咤した。

 ルーカは、三分の一も残っているか怪しい、と言っていた。三分の一ってどれくらい? 世界って、どれくらい広かった?

 混乱した頭に、覚えのある感覚が奔った。

 我に返り、息を潜めて目を凝らす。

 ――霞みの向こうに、何かいる。

 緊張でカラカラの口内で生まれた唾を飲み込む。喉が、ごくり、と音を立てた気がした。

 石になったように体が動かない。いや、その方がいい。一歩でも動けば、霞みの向こうに潜むものは間髪入れずに襲いかかってくるだろう。

 ――魔物

 ライオンや虎なんかとは似ても似つかない恐ろしい外見をした、恐ろしい生き物。醜悪で凶暴な異形。

 何度味わっても拭えない恐怖。

 三年ぶりに感じる悪寒と、全身を駆け巡る戦慄は、決して歓迎できるものではない。

 できる事なら走って逃げたいけれど、足が動かない。そもそも、凛々が全速力を出したところで、逃げ切れるだろうか。

 ゆらり。魔物が動いた。

 性急ではない、じわりじわりと獲物を追い詰めていくように、少しずつ距離を縮めてくる。

 こめかみから輪郭をなぞるように汗が伝う。

 指先が微かに動く。それをきっかけに凛々は走り出した。――魔物の気配が強くなった。

 必死に足を動かしながら、決して背後を振り返らない。

 抑えていた狂気を垂れ流しながら魔物が迫る。殺意とも憎悪とも言えない、ただ獲物を狙い、追い詰め、そして肉を引き裂く快楽を楽しもうとする、狂った感情が空気を震わせ、凛々に届いた。

 はっ、はっ、と乱れた息が零れ、これ以上無いと思っていた恐怖が更に募る。

 脇腹が痛い、足が重い、息が、苦しい。

 気配が一気に背後に迫る。

 足がもつれ、身体が傾いだ。

 ――もうダメ……!

 頭上を、風が切った。魔物が咆哮を上げ、気配が遠くなる。

 勢いよく地面に突っ伏した凛々の身体を何かが跳び越した。

 何度も鋭く風を切る音が聞こえ、咆哮が耳を劈いた。思わず両手で耳を押さえ、目を瞑り、身体を小さく丸め込む。

 震える身体が立ち上がる事を許さない。

 ――怖い。怖い怖い怖い怖い怖い……!

 魔物は簡単に人を殺してしまう。たったの一振りで人間を吹き飛ばして、命を奪う。鋭い爪が皮膚を裂き肉を抉る。大きな牙はなんとも容易に身体を食い千切り、美味しそうに血を啜る。

 過去が蘇る。思い出したくもないのに、焼き付いてこびり付いて忘れられない。どんなにどんなに塗り変えようとしても、突きつけるように夢という形で現われた。

 ――神威! 巫女様……!

 死ぬ、死んだ、たくさん、皆、仲間も、知らない人も、小さな子供も、凛々を庇って、凛々を守って、……何もできない凛々を。

 ――どうか、世界を救ってください。


「っあたしじゃ無理なのぉ……!」


 誰の願いも、託された想いも、何一つ叶えられなかった。

 凛々は結末すら迎える事ができなかった。

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