第4話
昨日の昼頃から今日の昼間に目を覚ますまで、ほとんど丸一日眠っていたからだろうか。夜になっても眠気は訪れず、結局凛々は一睡もできなかった。横になってはいたが、なかなか寝付けず、二時間ほどで諦めた。それからはまた、窓から外を眺めていた。ルーカが持ってきてくれたショールを羽織っていたため、寒くはなかった。
静かに夜が明けていく。朧な月は少しずつ見えなくなり、太陽が姿を現した。
ぼんやりと外を眺めていると、白み始めた景色の中で、何かが動いた気がした。大きさからして、人、だ。
慌てて部屋の中に顔を引っ込ませた。遺恨はある、とはっきり告げたルーカの言葉が過ぎる。
凛々の存在が知れたのだろうか? 誰かが、報復に――
肩が震えた。自分の身体を両手で抱きしめる。壁に寄りかかったまま座り込んだ。床の冷たさが更に寒気を増長させた。
乱れ始めた呼吸を落ち着けるように深呼吸を繰り返す。――笑ってしまう。罰を受けなければと言いつつ、こんなにも恐怖を覚えている。どこまで自分は情けないのだ。本当に、こんな人間が救済者だったなんて、申し訳なくて、悔しくて、堪らない。
整ってきた息を詰め、影からゆっくりと外を窺う。「何か」を見極めようと目を凝らした。
「……ルーカ?」
庭に佇む、少年の姿が見えた。
しばらく逡巡し、ショールを羽織り直してから静かに部屋を出た。
三年前と変わらない屋敷の内装は、凛々を迷わず外へと導いてくれた。
しん、と静まり返った廊下を注意深く進み、ゆっくりゆっくり扉を開き、閉める。
室内で感じる風と、外で肌に受ける風は、やはりまるで違う。明け始めた朝の、少しだけ湿り気を帯びた空気は澄んでいて、美味しい。淀んだ心をほんの僅かに和らげてくれるようだ。
辺りを見回してみるが、既にルーカの姿は無かった。一度屋敷を振り返り、自分の居た部屋を確認する。あそこから見えた場所に行ってみても、彼は居ない。
――人にはできることと、できないことがある。それだけだ。
ツキリ、と。小さく胸を刺す、彼の言葉。
思えばルーカは昔から、よく言っていた。
『僕は何もできないけど、だからこそ、できることを見つけたいんだ』
拙い言葉だったけれど、真剣な瞳で語られたそれを、凛々は何も分かっていなかった。どこか話半分で聞いていた。とても大切な事だったのに。
凛々たちが聖都を出る度にどこか悔しそうに見送った、かつての幼い少年が脳裡に蘇る。
少し不思議で、聞いた事があった。すると彼はしばらく迷ってから、言いにくそうにぽつりと口にした。
『僕は、神官の力を持たないんだ』
――この世界では、神官と神殿は大きな意味を持つ。
《大神殿》の在るこの街が「聖都」と呼ばれているのもそのためだ。
神官は政治家ではないが、政にも大きな影響を及ぼすほどの力と地位を持つ。また、別に特殊な能力を有する場合が多い。
たとえば「先見」という、未来を予見する力。国の為政者も、この力に頼る事が多く、それによって他国との外交を思うままにしたり、自国の商業、経済を保っている面も大きい。優秀な神官を擁する事が、国にとって何よりも重要なのだという。神官とは、国を護り、繁栄させる守護者なのだ。
ルーカは、昔から多くの神官を輩出した名門の生まれだ。彼の父親も例に漏れず神官となり、今では大神殿を統率する「神官長」の地位に在る。
《神の寵児》と呼ばれ名を馳せる名門の生まれでありながら、何の能力も持たない。優れた能力を持つ、優秀な神官である父親の存在は更にルーカに追い討ちをかけた。
神官にも先天的に能力を生まれ持つ者と、後天的に能力に目覚める者が居るが、圧倒的に前者が多い。また、目覚めるとしても、幼い子供の頃――十に差し掛かってしまうと、完全に顕われなくなるらしい。
凛々が出会った時、ルーカは既に十二歳だった。彼は神官になり得る特殊な能力を持たない、平凡な少年だった。
ルーカはとても気にしていた。《神の寵児》でありながら、『普通』という言葉を体現しているかのような自分を。
神官長を父に持ち、更に姉まで神託の巫女という中で、どれほど肩身が狭かっただろう。それでも幼い少年は捻くれる事も、拗ねる事も無く、一心に父を尊敬し、姉を慕っていた。そして、『だからこそ』――と、言ったのだ。
『僕は父上みたいに優れた力も持たないし、姉上のような巫女でもない。僕にできることなんて何一つなくて……本当は、姉上や神威と一緒に行きたいけど、僕が居たって何の役にも立たないのは分かってるんだ。でもね、僕は何もできないけど、だからこそ、できることを見つけたい。できることをしたい。本当に小さな事しかできないけど、それでも、できるんだったらやろうと思う。それでね、いつか――』
朝陽が顔を照らす。
泣き出しそうな顔を髪で隠して、凛々は屋敷を離れた。
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