第3話

 夕焼けの茜色が少しずつ濃い藍色に染め変えらていき、たった今、完全に太陽が沈み、月が昇った。朧に浮かび上がった白い月をぼんやりと見つめる。

 世界が変わっても太陽の存在があったように、月も同じく空に在った。あちらよりも色が薄青がかっているような気がするけれど、どこか心が落ち着いていく癒しの効果は同じだ。

 あれから凛々は一歩も動かずに、空を眺めていた。空だけじゃなく、この屋敷からは聖都がよく見える。丘の上に建っているからだろうか、周りに何も無いからだろうか。きっと、どちらも間違っていない。

「――何してるんだ」

 ルーカが部屋に入ってきた。目覚めた後に会ってから一度も訪ねて来なかったが、さすがに気になったのだろうか。彼は昔から、優しかったから。

「この屋敷なら、別に歩き回ってもいいんだぞ」

 ――神威、大丈夫? 僕にできること、ある?

 声が随分低くなった。まだ少し大人の男性に比べると高いけれど、あの頃よりずっと男っぽくなったと思う。何より、にこにこと無邪気な笑顔が今の彼には無かった。やわらかかった言葉遣いも、ひだまりのようだった雰囲気も、消えた。……凛々が、奪ってしまった。

 凛々が座り込んでいた窓辺に立ち、ガラス戸を閉めた。「冷える」と小さく聞こえた言葉は、恐らく凛々を気遣っての事だろう。胸がツキリと音を立て、痛んだ。

「……女がそんな所に座るな」

「うん、……ごめんなさい」

 ゆるゆると立ち上がり、ベッドまで移動する。その上に腰を下ろすと、凛々の動きを見ていたルーカも、ベッドの傍らに置かれた椅子に座った。

 いつも、言葉が生まれない。

 凛々はうつむき、ルーカは瞳を彷徨わせ、何も言わない。

「……あれから、三年経った」

 ぽつり、と。落とすように言葉が生まれた。凛々は小さく指先を震わせた。

 ルーカは彷徨わせていた瞳を真っ直ぐ凛々に向け、次の言葉を継いだ。

「一応世界はまだ無事だが……三分の一も残っているか怪しい。――神威も……巫女も、いないからな」

 棘も皮肉も無い言葉は、逆に心を突き刺した。嘘偽りの無い全くの真実で、どれだけ危機的状況なのか、歪む事無く伝わってくる。

 膝の上に置いた両手が拳を作り、無意識に力が入る。

「仲間は皆、行方知れずだ。――生存は確認されている」

 強張った凛々の表情を見抜き、ルーカはすぐに続けた。少しだけ力が抜ける。

「皆、できるだけの事はしようと飛び回ってるらしい。……霧が生まれて二十余年。世界の死は、近い」

 手の平に爪が食い込む。噛み締めた唇。口内に血の味がした。

 ルーカが深く息を吸う気配が感じられた。

「――正直、恨んだ」

 ごめんなさい、と。――言えたなら、良かった。

 けれど彼が求めているのは、謝罪なんかではない。

 熱い痛みが手の平に奔る。爪が皮膚を裂いたのだろう。

 再び沈黙が流れた。二人の息遣い以外、何の物音もしない。締め切った室内に静寂だけがやけに響く。

 顔を上げられなかった。どころか、ルーカの一言一言で沈んでいった。

 長い間そうしていた。ルーカの視線を感じながらも、何も言う事も、する事もできなかった。こんな凛々を、彼はどう思っているのだろう。卑怯者か臆病者か。失望しているのは確かだ。こんな奴に世界を任せた事もあったのかと、情けなく思っているのかもしれない。

「……十五になったんだ、オレ」

 深く息を吐くのが聞こえたと思ったら、彼は不意にそんな事を言った。

 思わず顔を上げそうになり、慌てて押し留める。

「そのくらいになったら少しは何かが変われると思ってたけど、全然だ。何もできないし、できたとしても、大した事じゃない」

 何が、言いたいのだろう。会話の繋がりが読めなくて戸惑い始めた時だった。

「あの時おまえは十四だった」

「――――」

 息を呑んだ。

 手の平に食い込んだ爪が更に加えられた力で奥に突き立つ。肉が抉れた気がした。

 ルーカは、優しい。声も背も、雰囲気も言葉遣いも、何もかもが変わっていたけれど、それだけは変わらない。

 だからといって、甘えるわけにはいかない。

 言い聞かせて、ゆっくりと唇を開いた。

「――で、も……それ、でも」

 子供だったのだ。だから仕方なかったのだ。言うのは簡単だ。言ってしまえれば、楽だったかもしれない。すべてをそのせいにして、「子供のあたしを選んだ世界が悪いんだ」と責任転嫁できたなら。けれど、「子供だったから」――それが何の言い訳にもならない事を、既に凛々は知ってしまっていた。

「あたしは、逃げたっ」

 一度やると決めた事を、途中で放り投げた。もう嫌だ、と放棄したのだ。たとえばそれが、夏休みの宿題だったなら構わない。誰にも被害はないし、誰かの命を左右するものじゃない。ただ凛々が後々困るだけだ。

 凛々が放り出したものは、世界の命運――

 自分のこと以外、何も考えていなかった。

「辛いからっ、て……逃げ出した!」

 ――やだ。これじゃあまるで懺悔みたいだ。

 みっともないだけなのに。見苦しくて、ルーカだって不快だろう。

 小さな音を立ててルーカが立ち上がる。少しの間の後、凛々の前に来て、躊躇うように頭に手が置かれた。

「人にはできることと、できないことがある。――それだけだ」

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