第2話

 今思えば、いつも通りの学校の帰り道から悪夢は始まっていたのだ。

 セーラー服に今時どこの学校も使っていないような指定の革でできた手提げ鞄を持って、ちょっとだけ窮屈になったローファーで歩いた銀杏並木。突然視界を覆った、真っ白な光。やわらかくて、あたたかい。心地好いそれに目を閉じれば浮遊感が襲った。それでも「怖い」と思わなかったのは、光があまりに優しかったからだろう。温もりが遠ざかったのを感じて目を開けると、その光とよく似た優しげな女性が、心配そうに凛々を覗き込んでいた。そして、戸惑うように開かれた唇は、

 ――神威……


 すべてを振り払うように飛び起きた。

 息が上がっている。脈も乱れている気がした。

 ――また、あの夢。

 落ち着けるように深呼吸を繰り返す。大丈夫、初めてじゃないんだから、すぐにいつも通りだ。こうしていれば、元に戻る……。

 三年前から、夢を嫌いになった。

 眠る事が怖くて、夜が怖くて、真っ暗な闇が怖くて、泣いて過ごした。

 始まりの日は、そんな事になるなんて思いもしなかった。大きな不安が半分と、ちょっとした好奇心と期待が半分。凛々はどこかで、これをゲームか何かだと思っていたのかもしれない。

 小さな自嘲を口許に浮かべ、凛々は呼吸した。鼻から吸って、口から吐き出す。深く深く、酸欠気味の肺に空気を送り込んだ。

 何度か繰り返してからようやく顔を上げた凛々は、瞬間、強張った。

「……ゆめじゃ、ない」

 やわらかな太陽の光が差し込むガラス窓。開け放たれたそこから入り込む風に、レースのカーテンが緩やかに波打っている。――凛々の部屋に、レースのカーテンなんて可愛らしいものは無い。そもそも、部屋自体が違う。こんなに広くないし、壁紙だって真っ白になんて絶対しない。ベッドだって……天蓋なんて付いているわけない。

 跳ね除けた布団を意味も無く掴んで引き戻した。力のこもった指先が白くなる。

「起きたのか」

「……ルーカ」

 ノックも無しに入ってきた少年に、凛々は僅かに間を置いて呼びかけた。二度目だったが、どうしても過去の彼と重ならなくて、ついつい考えてしまう。

「…………」

 過去、と口の中で呟いた。

 過ぎた事。凛々の中では三年前に起こった現実で、夢だと思いたかったのは本当だけれど、紛れもない真実。ルーカに会った瞬間から、「目を逸らすことを許さない」と言われているようで、仕方が無かった。

 少し離れたところでルーカは立ち止まった。真っ直ぐに凛々を見据える瞳に居心地が悪くて、顔をうつむける。

 罪悪感、なんて。一言で済まされるようなものではなかった。

 濁流が、渦を巻くように。

「……ここは」

「聖都郊外にある屋敷だ。ついでに言っておくと、あれから丸一日経ってる」

 恐らく、ルーカとその父ジュゼールの屋敷だ。確かあの頃も、神殿から離れた聖都の郊外に建っていたから、場所は変わっていないはずだ。部屋の内装も似ている。

 丸一日、と身内で呟く。あの時、天窓から差し込む光の位置から昼頃だろうと思っていたが、実際はどうなのだろう。少しだけ躊躇った後、唇を開こうとした瞬間にルーカが「昼飯を後で持ってくる」と言った。ああ、じゃあ今は昼なんだ。間違っていなかった事に安堵した。

 気まずい空気が流れる中、凛々は昨日の記憶を思い返す。ジュゼールと会ってからどうしたのか、全く覚えが無い。きっとあそこで気を失ったのだろう。ルーカが運んでくれたのだろうか。

「…………カシャ、は」

 ――死んだ

 氷の声が木霊する。

 言葉にした瞬間に後悔した。余計にルーカの顔が見れなくなった。

「――あまり神殿には近付かない方がいい。おまえの事を知らない奴の方が多いが、遺恨はある」

 当然だ。誰も凛々を許しはしないだろう。『救済者』と呼び、凛々に救いを求めた人々のすべてを裏切ったのだから。――逃げ出した凛々に、許しを請う資格も無い。

 溜息が聞こえた。恐る恐る顔を上げると、ルーカが困ったように顔を顰めていた。目が合った瞬間、ぱっと逸らす。再び溜息が聞こえたけれど、今度は顔を上げられなかった。

 しばらく沈黙が続いたが、ルーカは何も言う事無く部屋を出て行った。

 何か言いたい事があるのは分かったけれど、問う勇気は無かった。

 あの広間に立った瞬間、あらゆる詰責を覚悟した。どんな責め苦も負おうと、決めたはずだった。けれど、実際にそんな度胸も勇気も無く、次に飛び出す言葉に怯え、瞳に怒りや蔑みを見つけるのを恐れた。

 それだけの事を、凛々はしたのだ。

「あたしは……」

 救済者なんかじゃ、無かった。

 視界が滲む。どんなに流しても、次から次へと溢れてくる涙なんて嫌いだ。自分の弱さを象徴しているみたいで、嫌になる。

 ――お前が逃げ出したのとほぼ時を同じくしてな。

 その意味が分からないほど、馬鹿じゃないと思いたい。けれど、認めてしまうと今度こそ本気で自分を嫌いになりそうで、怖い。

 カシャは、あたしのせいで死んだんだ。

 三年間忘れたことの無い、忘れようとも忘れられなかった過去が、鮮明に脳裡に描き出される。

 唇を噛み締め、なんとか涙を押し込めた。

 そろそろとベッドからおりて窓辺へ向かう。心地好い風が頬を撫でる。三年前に、太陽の存在は凛々が居た世界と変わらない事を知ったから、今がどれくらいの時間なのかは分かった。目を灼く事の無いやわらかな光は、丁度天辺に差し掛かっていた。

 雲も無いのに、太陽は眩い輝きを地上へ放たない。空も少しだけ霞みがかっている。

『この世界はね、病気なの』

 悲しげに瞳を伏せながら、いつか語ってくれたカシャ。

『何百年かに一度、起こるの。突然、世界の端から霧が生まれて……その霧は《死の霧》と呼ばれているわ。この聖都は大神殿の在る場所で結界に護られているから、しばらくは保つけれど、いつまでかはっきりと言えなくて……。真っ白な霧は確実に広がっていき、いつか世界全てを飲み込んで、何もかもが死に絶える……』

 二十年前に世界の端で霧の発生が確認されてから、人口はその頃の半分にまで減ってしまったと、彼女は言っていた。

 正直、どれだけの重みがあったのか、あの頃の凛々は何も分かっていなかった。ただ、とてもすごい事で、大変なんだ、くらいにしか思っていなかった。

 でもね、とカシャは微笑んだ。

『リリが来てくれたわ。初めは可愛らしい女の子だったからびっくりしたけど……大丈夫。貴女は神威なんだもの。私の祈りに応えてくれた、救済者……だから、きっと世界の病気も治るわ。――一緒に、がんばりましょう?』

 カシャは巫女だった。この世界では神にも等しい存在、神威に仕える、神の御使い《神託の巫女》。唯一、神威を降臨させる事のできる、聖なる乙女。神託の巫女は神威と共に在り、神威を支えるのだ、と言っていた。

 そして凛々は、神威としてこの世界に喚(よ)ばれた。

 霧に侵蝕されつつある世界を嘆いたカシャが祈りを捧げ、凛々が来た。

 正直、喚ばれた、とか、応えた、とか、凛々には分からなかった。突然光に包まれて、声が聴こえて、気が付いたらあの広間に立っていたのだ。戸惑ったし、怖かった。更に神威なんて呼ばれ、救済者だと、世界を救ってほしいと言われた時は、もう何がなんだか混乱して、数日は篭って泣いていた気がする。

 それでも、受け入れることができたのは、カシャが居たからだった。

 よく分からないけど、あたしにしかできないんならやってみようと思ったのだって、カシャが本当に真剣で、とても悲しそうな顔をしたから。

 優しくて穏やかで、あたたかくて、女性らしいやわらかい雰囲気の彼女が「救って欲しい」と言ったから。

 カシャのためになら、なんて、今考えると思い上がりも甚だしい気持ちが始まりだった。

 ――でも、凛々は駄目だった。

 がんばりましょうね、と言われて、がんばる、と答えた凛々は、日に日にその言葉が重くなっていくのを感じていた。

 だって、辛かった。想像していた以上に苦しくて、悲しくて、――なんにもできなくて。

 日本って平和だな、って。懐かしくなって泣いた。

 人が死ぬのを見た事なんて無かったし、戦うとか、魔物とかいう変な生き物だってすごく怖くて。だったら動物園に行ってライオンの檻に落ちた方がまだマシ、っていうくらい恐ろしかった。

 神威、と希望に満ちた瞳で見ないでほしい。

 まだ霧は晴れない、と目に見えて落胆しないでほしい。

 がんばって、なんて……言わないで。

『ごめんなさい、リリ。本当に……ごめんね――もう、いいよ……』

 涙に濡れた瞳を緩めて、微笑んだカシャ。身体中から溢れた白い光に包まれて、凛々は自分の世界へ帰る事ができた。でもきっと、そのせいでカシャは――

「――――っ」

 前のめりに倒れこむ。縁に着いた両手が支えなければ、勢いで窓から落ちていたかもしれない。いや、いっそ落ちてしまえば良かったのか。たとえそうでも、この高さなら少し骨を折るくらいだ。二階くらい、だろうか。

 きっとあたしは、罰を受けるためにここへ喚ばれたんだ。

 辛い事から逃げ出して、世界の行く末を投げ出して、――どうせあたしの世界じゃないんだし、と。どこかで思っていたから。

 偽者の神威。裏切り者の救済者。――あたしは、罪を償わなければいけない。

 ああ、そうか。そのためだったんだ。

 だからここに居るんだ。なんだ、やっと分かった。

 あたしが今またこの世界に来た意味は、そういう事だったんだ。

 裁くのは誰だろう。――誰だっていい。

 はやくあたしを、らくにして。

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