リトルノ-帰還-
omi
第1話
既視感、とはこういう事を言うのだろうか。
瞳を開けた瞬間に広がった無機質な白の空間。ぼんやりと眺めた後、片岡凛々(かたおか りり)の脳裡をそんな言葉が過ぎった。いや、少し違うかもしれない。だって、二度目だ。懐かしい、と言った方が正しい。
学校の帰り道、突然、淡い緑の光が身体を包み込み不思議な浮遊感が襲った。エレベーターに乗った時と同じ感覚。頭に直接響くような、誰の、とも言えない声が凛々を呼ぶ。思わず目を閉じ、身体を強張らせた。長くもなく短くもない時間、固く瞑っていた目を開けると、よく見知ったセピアの銀杏並木ではなく、薄明かりの差し込む広間の中心に立っていた。
凛々は、前に一度、同じ体験をしている。
静かに流れる水の音、頭上から届く僅かな光、真っ白で無機質な空間。――どれも、覚えがあった。
聴こえる水音は、広間の一番奥にある人工の滝から、光は高く遠い天窓から。見上げれば眩い光が目に入る。丁度、お昼に差し掛かる頃なのだろうか。
音も光も、白い広間に響き、染み込み、神秘的な印象を抱かせた。
胸に刺すような痛みが奔った。息が詰まる。
「――やっぱりおまえか」
声に思わず振り返る。零れそうだった涙が引っ込んだ。
「…………ルーカ……?」
初め、本気で誰だか分からなかった。覚えはあるのに、「知っている」と確信を持って言えない。じっと見つめ、ようやく面影が重なった時は瞠目した。同時に違和感を覚えた。すぐに重ならなかったのは、そのせいもあるだろう。
広間の大きな入り口の前に立っていた少年は、凛々の呟くような声を拾い、微かに眉を動かした。やはり、ルーカなのだろう。広いこの場は、けれどよく響き、遠い相手にも声を届けた。
「よくよく運の無い奴だな。……来いよ」
背を向けたルーカに慌てて続こうとした凛々は、けれど足を踏み出す事に躊躇った。
この一歩を、進んでもいいのだろうか。
迷いが顔にも出ていたのだろう。肩越しに振り向いたルーカが表情を変えずに「来い」と繰り返した。強くは無いが確かな声に、動こうとしなかった足が恐る恐る歩き始める。二、三歩の距離を空けて、ルーカも歩き始めた。
息の詰まる無言の中、歩みを進めながらルーカの背中をちらちらと盗み見た。最後に見た時よりも、ずっと成長している。確か凛々よりも二つ三つ年下だったはずだ。あの頃、真っ直ぐな瞳で見上げてくれた少年の身長は、既に凛々を追い越していた。
どれくらい、経ったのだろう。疑問は、けれど罪悪感と共にぎゅっと喉の奥に押し込められ、言葉を発するまでに至らなかった。それどころか、話しかける事もできない。ルーカの広くなった背中が、拒んでいるように見えて仕方なかった。
次第にうつむいていく顔は、蝋燭のあえかな光しか存在しない真っ白な廻廊で、暗く翳った。
凛々の様子に気付いているだろうルーカは言葉をかけてくれる事は無かった。
仕方が無い、と思う。当然だとも。「来いよ」と言ってもらえただけで、奇蹟だ。
――リリ、がんばろうね。
優しく微笑む女性の姿が脳裡を過ぎる。凛々にかけられる言葉はいつも穏やかで、あたたかかった。
無意識に引き結ばれていた唇が、ゆっくりとほどける。
「……あ、の――カシャ、は?」
歩き始めてからようやくルーカが振り返った。肩越しで、立ち止まることも無かったけれど、幾分か心が軽くになった気がした。
「死んだ」
ルーカではなかった。低く冷然とした声は、背後から聞こえた。ハッとして振り返ると、いつの間にかそこに、白い法衣を纏い冷ややかな眼差しをした壮年の男性が立っていた。
彼にも、見覚えがあった。何より、目が合うだけで汗が滝のように流れてくるような威圧感と、身体を硬直させる氷の瞳は忘れられるはずも無い。
「カシャは死んだ。三年前、お前が逃げ出したとほぼ時を同じくしてな」
「父上!」
凛々の前に躍り出たルーカが、声を上げた。まるで庇ってくれるようなルーカの行動に、けれどこの時の凛々は気付かなかった。ただ、一つの言葉が全身を駆け巡る。――死ん、だ?
心が凍っていく。指先からゆっくりと音を立てながら。表情が凍り、薄く開いていた唇は言葉を発する事もできずその形のまま動かなくなり、呼吸すらままならなくさせた。
全身が氷付けにされたように、動かない。
――ごめんね、リリ。……本当に、ごめんなさい。
唇に悲しげな微笑を浮かべた、どこまでも優しかった人。真摯な瞳に、凛々は一度も応える事ができなかった。
「…………ぁ、」
忘れようとしても、忘れられなかった痛みが心を抉る。針を刺すような痛みは次第に焼かれたような熱さを持ち始めた。無意識に胸元をわしづかんだ。制服のブラウスに皺が寄るのも構わずに、強く、強く。
――もう、いいよ。
カシャは最後まで優しかった。
真っ白に包まれる視界の隅で見える慈しみに満ちた微笑みに涙が溢れた。
彼女のように優しくてあたたかい、――悲しい、光。
目を開けると、始まりの日と全く同じ場所で、ぐしゃしゃに涙を流して倒れていた。立ち上がる事もできず、コンクリートに爪を立てて泣き伏した悪夢の日。
「あれも哀れな娘よ。《神託の巫女》であるが故に、縛られて」
氷に触れるよりも冷ややかな声に現実へ戻される。
気付けば、熱い雫が頬を伝っていた。急に身体全体から力が抜け、くずおれる。
ぼろぼろと涙を溢れさせる凛々の目の前に、小さな靴音と共に、冷たい眼差しの男性が立つ。見下ろす瞳はどこまでも、
「所詮、《神威(かむい)》とは夢幻(ゆめまぼろし)だったのだろう」
凍れるそれは、なのに優しい彼女に重なった。
――貴女が、神威……?
戸惑うようにかけられた最初の言葉。
「っあああああぁぁああああぁぁあ……!」
できる、と信じたあの日。
やってやる、と。思ったのは本当に心からだった。
……けれど、知ったのはただ一つ。
『世界に、神さまなんていないんだ』
ねえ、あたしが何をしたというの?
どうして忘れさせてくれないの?
――お願い。この世界を救って……!
どうして、また、ここに来ちゃったの――
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