かわらないとき

藤橋峰妙

かわらないとき


 

 しんしんと降る雪の中、かじかむ手を擦り合わせ、着込んだ黒い綿入れの、祖母から借りた袢纏はんてんの前を閉じる。

 庭先のまあるいツゲの木の上にふんわりと被さっているのは、綿帽子の雪よりかは大福のような美味しそうな塊。階段だけは誰かが雪を掻き分けたのか、灰色の石畳が見える。

 庭の花壇には祖父が育てていた山野草があるはずで、そこにも分厚く雪が積もっていた。うんと先の春になれば無事に芽がでてくるのだろうか。降り続いている雪に白い息を吹きかけるよう、ゆっくりと肺の中の暖かな空気を吐き出した。

「さささむいぃぃ」

 ガチガチ、歯が震えて音が鳴る。唯一の温もりを連れ去るように、びゅぅっと風が吹き荒れた。

 ぴーっ。給油タンクがいっぱいになった音。身を震わせながら足下を見て、私はストーブのタンクに顔を歪める。いまからキンキンに冷えたこの塊を持たなければならない。なんて苦行だろう!

「つめた!」

 凍った水の中に手を入れたみたいに、指先がぴんとつった。掌が張り付いてしまいそうだ。

「――みさと、ちょっと手伝ってほしいんだけどいい?」

「ななななに」

 ずびずび鼻を啜り、ぶるぶる身を震わせながら玄関の戸を開けると、廊下から母が顔を覗かせた。

 長袖の割烹着かっぽうぎを着ている母も、部屋の中との温度差に腕をさすっている。

「ちょっと待ってさむい! 死んじゃう!」

靴を放って玄関を上がり、少し大袈裟に言うと、母は呆れた様子で眉を寄せた。

「さむいさむい」私は台所へ直行し、タンクをひっくり返してすぐさまストーブに装着、ボタンを押す。無機質なきらきら星の音楽が流れる。ストーブの中でぼっと火が噴き、温かい空気を吐き出し始めた。

「ついでに廊下のストーブも付けておいてね。もう黒豆煮なきゃ。昆布巻きもそっちでやるでね」

「チャッカマンは?」

「仏壇。黒豆はおばあちゃんに聞いて、あと伊達巻きよろしくね」

「卵といた? はんぺんは?」

「卵はまだ。はんぺんはもう机の上。私はちょっと向こうの家に行って、昆布こぶ巻きの干瓢かんぴょうとってくるで」

「はあい」

 私は祖父が微笑む仏壇の前に座った。ふと、そういえば最近線香をあげていなかったと、ストーブのために取り出したチャッカマンを仏壇の短い蝋燭ろうそくに向けた。

 祖父が死んだのは、中学三年生の時。

 祖父は庭の松の手入れをしていた際に石垣から落っこちて入院した。ただの骨折だった。

 でも、入院先で祖父は亡くなった。元々肺を手術していたが、病院で肺炎を患った。ただの骨折は、結局肺炎になった。なぜ? どうして? 

 いくら考えても、分からなかった。骨折で入院したのだから。

 ――おじいちゃん、さっきなくなったの。これからおじいちゃん連れて帰るから。分かった?

 分かった。その言葉には、色々な意味が含まれていたのだろう。

 おじいちゃんが帰ってくるよ。これから忙しくなるよ。本当に、死んじゃったんだよ。語尾を震えさせた母の声は、今でも耳に残っている。

 祖父の死に目に、私はあえなかった。この時の私に、祖父が死んだという実感はなかった。葬式でも、泣けなかった。

 声から忘れていくのは本当。今ではもう祖父の声を思い出せない。

 でも祖父は、壊れた長傘を折り畳み傘に作り直してくれたし、理科の化学反応も教えてくれた。百合の花や山野草を、いつも丹精たんせい込めて育てていた。それは今も、これからも、ずっと覚えている。

 ――じいちゃん。

 チーン。おりんの音が澄む。

 祖父が死んで、私が大人になっても、いつまでもこの音だけは変わらない。音にのせ、今年の終わりを告げることも――



 廊下の片隅で、古いストーブは静かに居座っていた。網格子を開け、火が付く円筒を持ち上げる。スイッチを入れたらチャッカマンで直に点火。

「おわっ!」

 爆発したみたく、ぼんっと音が上がった。

 思わず引っ込めそうになる手を堪えて、レバーを調節し円筒を下げる。簡単に見えて実際に簡単ではあるのだが、コンロのガスをセットすることにもドキドキしてしまう私には難易度が高い。

 チャッカマンを仏壇に戻し台所へと向かうと、祖母は昆布巻きのにしんをザクザク切っていた。バットの上に並べられた鰊の欠片はどれも大きさがまちまちで、でも、それが我が家らしいのだ。

「ばーちゃん、黒豆。鉄入ってるけど抜く?」

「まだいいよ」

「なんで鉄入れるの?」

「ただ煮たら黒くならないから、こうやって錆釘を入れておくの。黒豆はくろぉーく日焼けするほどに、勤勉で健康に暮らせるようにってね」

「ふぅん」

「昆布巻き手伝って」

 はぁいと返事をして、着ていた袢纏はんてんを脱ぎ、鍋を運ぶ。

 並々とした黒い汁の中にてらりと光を放つ黒豆たち。揺れる汁に合わせて光が反射する。

 たしか小学生のころは、この黒豆の一粒が、まるで宝石ような、なにかとても大切にしなければならないもののように思えていたのだっけ。

 台所へと戻った時、祖母がちらりと時計を見上げた。時計の針は十二を回っていた。

「あら、もうこんな時間。お昼にしなきゃ」

「お昼、カップ麺?」

「そうね」

「じゃ、お湯沸かすね」

 スマホを取りだしてコールを鳴らしながら、ポットとやかんにお湯を汲む。

「たぬきは奥にあるからね」

「非常食のやつ?」

「そ。非常食のやつ」

 我が家のたぬきは、非常食の役割を果たしたことがない。



「大晦日といえば『鶏肉生食事件』」

 わっはっは、と食卓に笑いが巻き起こった。父はニヤニヤしながら私の方を見た。

 ――『鶏肉生食事件』。それは私が一歳の頃の話。

 我が家の大晦日の献立には唐揚げある。そしてその年も、まだ幼い私が座るテーブルの上に生の鶏肉の塊が置いてあった。

 食べないよう少し離れた場所にあったが、好奇心旺盛かつ何でも口に入れた私は、わざわざ身を乗り出して鶏肉へと手を伸ばし。

 ――パクリ。

 への字に口を曲げ、私は目の前に置かれた緑のたぬきの蓋を摘まんで弄った。

「またその話?」

「いいじゃないか、大晦日の思い出だな」

 父は眩し気に目を細めた。恥ずかしくなって、私はぺらりと蓋を捲って、また戻す。母も姉も祖母も、懐かしそうに私を見ていた。

「振り返ったら食べてるんだもん、びっくり」

「なんで姉ちゃん止めてくれなかったの?」

「だってテレビ見て――あっ、三分!」

 スマホでセットしていたアラームが鳴り響く。

「どれどれ」祖母がまず蓋を捲った。

「うぅーん、この匂いだよね。緑のたぬきの匂い」

 白い湯気と共に立ち上る、かつお節と醤油とてんぷらの油のにおい。鼻腔をくすぐる濃い香りが、一気に食卓を占領する。母の眼鏡は真っ白だ。

「いただきまーす」

「やけどするから冷ましたほうがいいよ」

 食べる前に言う。いきなりは食べれないので、まずは冷ますことが先だ。勢いよく食べて舌を火傷したことは数え切れないほどある。

「アッ!」

 と、こんな風に。熱かったのだろう、父は舌を出して叫んだ。

「冷ましてから食べなよって」と母が心配そうに言い、コップに水を汲みに行く。

 だから言ったのにと言えば、父は口を尖らせた。まあ父のことはさておき、私は目の前の天ぷらに息を吹きかけ、かぶりつく。

「はふ、あふっ」サクサク、じゅわ。てんぷらの音。「――このサクサク感がいいんだよね」

「俺は柔らかい方がいい」

 父はそう言いながら、てんぷらをスープの中に浸した。

「私もふにゃふにゃの方が好き」と姉が賛同し、

「私はうどんの方が好きねぇ」と、的を得ていないようないるような、祖母の言葉が入る。

 天ぷらの状態は蓋を開けるまで分からない。お湯をかける時は何も考えてないので、サクサクしていないこともある。けれど、手をかけていない状態でサクサクなら、なんだかレア感があるような。

 でも実のところ、サクサクで食べるものなのか、ふにゃふにゃにするのか、正解はどうなのだろう。

「あー、生き返る」

 ほどよい暖かさになったスープを飲んだ父が、幸せそうな声を溢す。ずっと外で仕事をしていたのか、鼻の頭も頬も真っ赤になっていた。

「こんなに寒くなるとは思わなかったわね」

「そうだなぁ。おっ、今日はそりで神社まで行くか」

「もう乗れないよ、そりが壊れちゃう」姉が笑いながら言った。

「昔はここから下の道まで滑ってったんだ。あん時はひいばあちゃんを上から落としてなあ」

「そりで?」

「そりで」

 そりに乗るひいばあちゃんを想像して笑う。ひいばあちゃんに会ったことはないけれど。

 その時、ふと線香の匂いが漂ってきたような気がして、ここにはいない祖父の顔が思い浮かんだ。

「おじいちゃんはどっちが好きかな、きつねとたぬき」

「きつねかしら」と、祖母が言った。

「てんぷらは?」

「さあ。おじいちゃんとは、あんまりこういうのは食べなかったから」

 祖母はふわりと微笑んだ。

「これからあと何作るの?」

 と、持ち上げた蕎麦に息を吹きかけていた姉が聞く。

「伊達巻きは美沙都がやるって。優香はきんぴら作ってくれる?」

「うん」

「どんどん作り方覚えてね、もう作れなくなるんだから」

 祖母は寂しいことを言いながらも、その声は弾んでいた。

「大丈夫、ばーちゃんは百歳まで一緒に作れる!」

「なにゆってんの、百歳なんてもうヨボヨボだよ」

 八十まじかの祖母も、私も、からからと笑った。

「みんなで作ったほうが楽しいな」

「それはそうね」と、母が頬をゆるめた。

 私は持ち上げた蕎麦に吹きかけていた息を切って、顔を上げた。温かいスープをすすって頬を赤くした家族も同じように顔を上げていた。


 ――幸せだなぁ。


 赤い顔を見合って、今年最後のお昼にも、我が家の食卓には醤油の湯気と一緒に笑いが飛んでいった。


 祖母と母が作った秘伝ノートを見ながらおせち料理を作り、昼には緑のたぬきを食べ、おせち料理を食べながらテレビを見て夜を過ごし、二年参りに神社へ、除夜の鐘をつきにお寺に行く。

 そしてまた新しい年がやってくる。

 きっと来年の今日も変わらない。変わっていくのは、重ねた年齢ぶんの気持ちと、一年間の出来事だけでいい。


 だからこの先もずっと、かわらないときで、あって。

 







 




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かわらないとき 藤橋峰妙 @AZUYU6049

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