不信仰告白 (書く人間の本質)への応援コメント
う~む、中々に不甲斐なさを感じてしまいます、自分に。
私はあまりこういった文学に触れてこなかった人間なので
どう上手く表現すればいいのかわからないのです。
が、それでももの書きのほんの端くれとしてオイルの話は
とても面白く感じました。
特有の虚無感は心に刺さるモノがあります。
何度も読み返してしまう魔力があるように感じました。
作者様の執筆活動を応援しております!
作者からの返信
ラジオ・K様
始めまして、坂本と申します。
応援のコメントいただき、まことに光栄でございます。
『何度も読み返してしまう魔力があるように感じました。』
このように言っていただき、ものを書く身としてこれ以上の喜びはございません。ありがとうございました。
追伸
当方も是非ラジオ・K様の御作を拝読させていただきたく存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。
不信仰告白 (書く人間の本質)への応援コメント
Twitterからです。ざくろさんの熱烈レビューで以前から気になってはいましたが、、これは凄まじいですね。
熱量と圧とパワー。圧倒されてしまいます。
所謂パンチラインみたいな所も随所にあって、一物書きとしてチクチク胸を刺されるような気分に…。(笑)
ですが、1つの筋が通った想いでありますので、不快にはならないんですよね。一見無茶苦茶にも見えそうな論拠を、読めば読むほど納得されられる筆力と論理性、キャラクターの印象づけの仕方は正直真似出来ません。
で、何よりこれを書かれている坂本様もまた小説家であるということ。
これは自己を含む物書きの内面や性質を俯瞰し、噛み砕いた上で言葉にされているという。
多分、読んでいるだけの私たちよりさらに苦しく、自問自答の毎日だったのではと存じます。
デリダという哲学家が『テキスト(何か)を批判するには、テキスト(何か)の中から』という脱構築の思想を掲げられています。
まさに小説家という内部から、物書き・ひいては芸術家に対して一定の持論を述べた、恐ろしくドライでありながら、だからこそここまでの引力があるお話になっているのですね。
ここまでの文圧を、Web媒体から感じる日が来るとは思っていませんでした。
自分は、古びた茶色の古書を持っていたのでしょうか?
いいえ、間違いなく最新鋭のiPhone12を持っています。
今後とも楽しみにしております。
作者からの返信
ヒロト様
初めまして、坂本と申します。
どうやら応援コメントだけではなく、レビューも書いていただけたようで、まことに光栄でございます。
また、私の未熟な芸術論まがいの拙文に対しても好印象を持っていただいたようで、なんだか面映ゆい心持でおります。
オイルがここで披歴した一連の思想(不信仰の告白)は、必ずしも私自身の信ずるところのものとは一致してはおりませんが、ヒロト様のご指摘の通り、私は自身の内から引き出せるだけのものを込めてこのお話を書きました。これは確かにつらい仕事ではございましたが、一方でどこか愉快さすら感じていたのもまた事実であります(単に私がマゾヒストなだけでしょうか?笑)。
今後とも楽しみにしていただけるとのことで、(遅筆な私ではございますが)今後ともよろしくお願いいたします。
不信仰告白 (書く人間の本質)への応援コメント
ここまで言うのかぁ、と思いました。
「芸術を愛する心とは、不粋で不遜なものだ」という台詞をみたときは、思わず苦笑いが溢れました。
しかし、この自己批判の精神こそがまさに文学という感じがします。
オイルは散々に小説家(ないし芸術家)の精神や考え方をこき下ろしていますが、たぶん彼の愛情の裏返しでもあるのだろうなあとも思うのですよね。でなければ、オイルは主人公の小説を読んで感想を言うことなんてしないはずですから。芸術の高尚な一面を信じたい、でもまだ信じるに足る何かが見つかっていないからこそ、ああいうキツイ言い方をしてしまっているのかなと。個人的にはそう思いたいです。
これ、書くのきつそうだなあ。字書きだから嫌でも、自分の内面を見つめ直さないと書けないわけですから。俺は書けませんね……。
でも、だからこそ面白いし、自己の抱える矛盾や理想と現実のギャップなどにも目が行って考えさせられます。
続き楽しみです。
作者からの返信
濱風様
なかなか時間が取れず、返信が遅くなってしまい申し訳ございません。
ここ一週間、濱風さんから頂いた素晴らしいレビューの効果が覿面に出たと見えて、大変多くの方からPVならびにコメントを頂戴いたしました。まことに感謝申し上げます。
はじめは批判的なご意見も覚悟してこのようなものを書いたのですが、幸い皆様好意的にとらえてくださったようで、胸をなで下ろしております。
続きに関してですが、このようにコメント一つお返しすることすら鈍間な不精者でございますから、どうか気長にお待ちいただきたく存じます。
不信仰告白 (書く人間の本質)への応援コメント
読ませていただきました。
凄いですね。一種感動すら覚えました。
上手く伝えられるかわかりませんが、この作品は先人たちが残した文学を踏襲している作品だなと感じました。自分が書くような前後で繋がりを持たないただ自己満足で書いている作品とは違う、歴史の重みを感じます。
それと作品の感想とは少し関係なくて申し訳ないのですが、最初のページに書かれている「人類劫初の芸術家」を読んで思ったのですが、「知識」もまた道具なんだなと。自分にとっては難しい表現を使われていますが、こんなにも共感できるのは坂本さんが知識の使い方に優れている証拠だと思います。
長々と語ってしまいすみませんが、
今後とも追わせていただきますのでよろしくお願いいたしますm(__)m
作者からの返信
秀之様
拙作のご高覧まことに感謝申し上げます。
秀之様のご指摘の通り、私の書くものは先達の智慧によって成り立つ部分が大きいです。その分、やはり私自身謙虚にならなくてはいけないとも思っております。。
秀之様の御作についても、当方拝読させていただいております。私にはあのような壮大な世界設定に裏打ちされた物語は到底書けませんので、大変尊敬しております。秀之様は「前後で繋がりを持たないただ自己満足」と仰られておりましたが、本当にただの自己満足ではあのようなお話は書けません。きっと何か、創作を通して成し遂げたい切実なものがあるのだと、勝手ながら想像しております。これは大変立派なことです。今度とも、是非胸を張って執筆を続けていただきたく思っております。
以上になります。
遅筆な私ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。
編集済
不信仰告白 (書く人間の本質)への応援コメント
次回は、反駁が行われるということで、今後このような調子で問答が続いていくんですかね? だとしたら凄く面白い作品だと思いました。今後も追いかけていきたいです。
今回は書くこと(作家)の本質について深く、またクリティカルな分析がされていて読み入ってしまいました。作家の持つ相反する性格のみならず、時代性をからめて論じられている点は興味深かったです。
ただ、これだけのことを語りながらもオイルこそ書くことに希望を見出したくて仕方ないんじゃないのか? そう思わずにはいられませんでした。彼こそ虚無主義を忌避し、奇跡を望んでいるのではないかと。
繰り返しになりますが、次回どんな反駁が行われるか楽しみです!
追記:なにぶん自分は「作者の意図ってこうなんじゃないかなぁ」というのをチクチクするのが好きな性根の腐った人間ですので、ご無理に種明かしをされる必要は全然ないです(*´ω`*) いろいろ妄想を膨らませるのが好きなんですよ 笑
自分も読む速度が遅いので、更新速度はお気になさらず!
作者からの返信
コメントありがとうございますm(_ _)m
オイルへのご指摘の件、正に御明察でございます。
彼は、このように達観した食えない態度で終始おりますが、自身の友人である主人公に対して、大きな希望を抱いている。彼は自身のことを「ニヒリストでは無い」と言いますが、これこそ彼の強がりなのであります。
実は、オイルは、自分のことをどこまでもニヒリストであると自覚している。また、自ら望んでそうしているのではなく、自身の(ある意味での)力不足故に、ニヒリストであることから抜け出せないから、このような強がりを言っているのでございます。
オイルは、今風の言い方をすれば、いはゆるツンデレで、主人公に対してこのような強い主張をするのは、彼が主人公に自身のニヒリズムから救って欲しいと思っているが故のことなのでございます。(彼は、創作とニヒリズムとの不可解な和合について、挫折と羨望とを抱いているのであります)
作者が自作の解釈について種明かしをするのも無粋な気はしましたが、天秤様のご指摘が余りにも私の意図したことを突いており嬉しくなってしまったので、このような返信をさせていただきました。
遅筆な私ですので、更新のペースは遅くなってしまいますが、今後ともお付き合いいただけると幸いです。
この度は誠にありがとうございました。
穢れたタナゴコロへの応援コメント
インターネットというありふれた言葉に違和感を覚えるほど、文章から漂うノスタルジックな雰囲気に取り込まれ、精神が作品に吸い込まれているのを感じました。文体は純文学そのもので、俺は青空文庫を開いたのだろうかと一瞬思ってしまうほどに、溢れ出る語彙の楽しさがありました。
そして、古さと新しさが同居した不思議な世界観。牧歌的で、哀愁を感じさせる空気感は、令和という新しさとの取り合わせの中で、コーヒーとミクルのように上手く混ざり合い、得も言われぬ独特な苦味と甘味を感じられるようでした。
なんか、そういうところがいかにも純文学って感じがするんですよねえ。小説家という生物の、生態と本質にも迫る言葉の数々からして、僕の胸を打つものがありました。オイルの、嘘をついているな、という言葉。僕もどきりとしてしまいましたから。
僕はあまり感想が上手い方ではないですが、読ませていただいて本当によかったなあと思いました。これは、土日にゆっくりとケーキを食べながら、腰を落ち着けて読む作品ですね。
レビューも書きます。
ありがとうございました。
濱風ざくろより
作者からの返信
返信遅れてしまいました。。
申し訳ないですm(__)m
レビューの件。本当にありがとうございました。
カクヨム公式様に紹介された件、最早私の小説よりも濱風さんのレビューの方が価値があるのでは? と本気で考えているこの頃です。(実際そう)
「コーヒーとミルク」という例え、本当にお見事です。古今の入り混じった本作の雰囲気は、半分は私の趣味、半分は意図、と言った具合なので、お気に召していただいたようで、まことに光栄です。
今後ともよろしくお願いいたします!
穢れたタナゴコロへの応援コメント
「私には、自分を青年と呼べなくなる日が来ることが恐ろしかったし、これは純粋に、文学的な苦悩でもあった」という箇所で、かつて自分にもそういう感情があったなぁと懐かしくなりました。
娼婦のくだりでも、会話の中でさりげなく本質を突いているので面白いです。
主人公の発言の矛盾も、その真意を想像するのが楽しいです。
ニヒリストのオイルによる「ものを書く人間がどう言う質の人間か」という話、続きが気になります。
作者からの返信
こちらでの返信を失念しておりました。。
申し訳ないですm(__)m
第三話でついにオイルの発言の意図が明かされたわけですが、まぁ、一話丸々彼の長広舌で終わるという、我ながら中々に攻めた内容になっており「これはちょっと、どうだろうか?」、と言った感じです。。
今後ともよろしくお願いいたします!
編集済
短い反駁への応援コメント
前話でのオイルの独白は物凄い熱量でしたね。それに対する今話での「私」の分析と短い反駁を通して、恐らく次話で開陳されるのであろう「私」の「告白」にも既に熱量が予告されているようにお見受けしております。楽しみです。
etudeは音楽では「練習曲」の意ですけれど、演劇では俳優達がそれぞれの役になり切って台本無しのアドリブで発話する「即興劇」の意にもなりますから、二人のこの遣り取りを黙読しておりましたら不図、これを「音」として聞いても定めし耳に心地良いだろうと思いました(その場合は即興ではなく、台本の科白ということになりましょうか)。
にしましても、信仰とは「既に信じている状態」というより、実は信じてなどいないかもしれない、もしくは信じていると誤解している(けれど本人はそうと気付いていない、気付けない)ものをそれでも「信じようとする意志」の上にしか成り立たないのではなかろうか、などとも拝読して考えさせられているところです。〈信仰〉そのものと、その〈信仰〉を言葉によって表明した「私は〇〇を信じている(信じていない)」という〈言説〉との間には、何とも言い難い深淵が横たわっていたりするのでしょうか……。
あと、個人的には今話の「……ということが証明されるだけのことさ。ただ、それだけのことさ」という言い回しに、「……と言っているだけのことさ。それだけさ」と三島由紀夫が東大全共闘との討論会で、天皇に対する立場は水と油である両者が実は「共闘」できる一点を持っているのだと相手に秋波を送る時に放った、雅量を示す温かい言い回しが「音」として重なって面白かったです。昭和的な匂いを感じました。私自身が辛うじて昭和の末葉に生まれたからでしょうか、昭和にノスタルジーを感じてしまうノスタル爺(と申し上げますと、本当の爺に「若輩の分際で!」と叱られますね)になっておりますことご寛恕下さいますよう。
次話のみならず、本年も坂本さんのご健筆を、お祈りと言いますか、一読者としてお願い申し上げます。
作者からの返信
工藤行人様
いつもいつもお世話になっております。
坂本でございます。
返信が遅れてしまい、まことに申し訳ございませんでした。
コメント、拝読しました。
『信仰』という語をしきりに用いながらも、その実『信仰』という言葉が私の中ではなんとも茫漠とした観念のままであり、これを書き終えても尚、依然獏とした感は否めず、『いったい私は何か意味のあるものを書けたのか』、また『信仰という言葉を用いたのは僭上な行いであったのかもしれない』と、不安な心持でおりました。しかし、ありがたくもコメントにて、工藤様の慧眼冴え渡る御意見を拝受したことで、私の漠とした視界にも、一条の明徹な光の差したのを見る思いでございます。
御存じの通り、「信仰告白」とは多くはプロテスタントで用いられる、神と教会、そして人々に対してなされる信仰の告白を意味する語でございます。私自身は信徒ではございませんが、祖母は信心深い基督者であり、私も十四の歳に彼女からプレゼントされた聖書を読んだのを契機に、爾来耶蘇基督の教えの影響下にいるのでございます。
そして、工藤様の仰られた『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つというお言葉、まことに、まことにその通りであると、腹落ちいたしました。
ただ言葉でのみ「かくあれかし」と誦することは平易なことでございます。しかるに、それを誦する我々の心中には、いったいどれだけの刻苦艱難が強いられることでしょう。それに引き換え、『信じぬこと』つまり『不信仰』の告白は、余りにも容易に思えてしまいます。それは、己が心に於いてでも、です。ただ、もし、『不信仰』の告白をした当人が、『信じぬこと』を肯んじないとすれば、それはいったいどのような心理に於いてでありましょうか。この命題に対する思弁の下、私はオイルというパラドキシカルな人物を創造したのでございます。そして彼こそまた、外ならぬ私自身であり、私の目から見た、現代人の一典型でもあったのでございます。彼があれほど『書く人間』を悪し様にこき下ろしておきながら、他でもない自分自身『書く人間』である読者様に、多く共感の声をいただけたことも、そこに理由の一つがあったのだと考えております。
そして、その上で工藤様のコメントに助けられ、『信仰』の告白と、『不信仰』の告白との間にある、表裏の関係に、不図気がつくことができたのでございます。私の考えは、随分異端的なものであるとは自覚しておりますが、そのような次第で、「神を信ずること」と「神を信ぜぬ」こととは、殆ど同じことであると、直感するに至ったのであります。また、こうとも言えましょう、「神を頭から信ずることは、神を全く信ぜぬのと同じだけ、信仰から遠いことである」と。
西洋には一般に、「懐疑の試練を経てこそ、より確実な信仰に至れる」という思想があります。これは復活の奇跡とも符合するところではありますが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教や、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老に、そのモティーフを見ることができましょう。しかし、私にはやはり、「本当に彼らは信じていたのか」という疑念が去らなかったのでありました。そして、今でこそ言えることではありますが、「彼らは決して、頭から信じ切っているのではなかったのだ」と、そう確信しているのであります。
『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つ。彼らこそは、正にこの工藤様のお言葉の体現でありました。ジャベール警部や次兄イワンも、恐らくは、『神を信ぜぬ』というやり方で以て、彼らなりの『信仰』を持っていたのでありましょう。
私は、この矛盾こそが、人の心の内にあり得る一つの『奇跡』であると考えます。「あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、それは矛盾を含んでいるからである」という、ミラーの言葉がありますが、私はこの矛盾を愛します。
余りに精緻すぎるこの宇宙の中で、人の心だけが、矛盾に満ち、意味に満ちているのでありますから。
私が『人間を信ずる』のも、その為でございます。
工藤様。この度は多くの実りある霊感を与えてくださり、まことに、まことに、ありがとうございました。