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2022年1月1日 22:51 編集済
前話でのオイルの独白は物凄い熱量でしたね。それに対する今話での「私」の分析と短い反駁を通して、恐らく次話で開陳されるのであろう「私」の「告白」にも既に熱量が予告されているようにお見受けしております。楽しみです。etudeは音楽では「練習曲」の意ですけれど、演劇では俳優達がそれぞれの役になり切って台本無しのアドリブで発話する「即興劇」の意にもなりますから、二人のこの遣り取りを黙読しておりましたら不図、これを「音」として聞いても定めし耳に心地良いだろうと思いました(その場合は即興ではなく、台本の科白ということになりましょうか)。にしましても、信仰とは「既に信じている状態」というより、実は信じてなどいないかもしれない、もしくは信じていると誤解している(けれど本人はそうと気付いていない、気付けない)ものをそれでも「信じようとする意志」の上にしか成り立たないのではなかろうか、などとも拝読して考えさせられているところです。〈信仰〉そのものと、その〈信仰〉を言葉によって表明した「私は〇〇を信じている(信じていない)」という〈言説〉との間には、何とも言い難い深淵が横たわっていたりするのでしょうか……。あと、個人的には今話の「……ということが証明されるだけのことさ。ただ、それだけのことさ」という言い回しに、「……と言っているだけのことさ。それだけさ」と三島由紀夫が東大全共闘との討論会で、天皇に対する立場は水と油である両者が実は「共闘」できる一点を持っているのだと相手に秋波を送る時に放った、雅量を示す温かい言い回しが「音」として重なって面白かったです。昭和的な匂いを感じました。私自身が辛うじて昭和の末葉に生まれたからでしょうか、昭和にノスタルジーを感じてしまうノスタル爺(と申し上げますと、本当の爺に「若輩の分際で!」と叱られますね)になっておりますことご寛恕下さいますよう。次話のみならず、本年も坂本さんのご健筆を、お祈りと言いますか、一読者としてお願い申し上げます。
作者からの返信
工藤行人様 いつもいつもお世話になっております。 坂本でございます。 返信が遅れてしまい、まことに申し訳ございませんでした。 コメント、拝読しました。 『信仰』という語をしきりに用いながらも、その実『信仰』という言葉が私の中ではなんとも茫漠とした観念のままであり、これを書き終えても尚、依然獏とした感は否めず、『いったい私は何か意味のあるものを書けたのか』、また『信仰という言葉を用いたのは僭上な行いであったのかもしれない』と、不安な心持でおりました。しかし、ありがたくもコメントにて、工藤様の慧眼冴え渡る御意見を拝受したことで、私の漠とした視界にも、一条の明徹な光の差したのを見る思いでございます。 御存じの通り、「信仰告白」とは多くはプロテスタントで用いられる、神と教会、そして人々に対してなされる信仰の告白を意味する語でございます。私自身は信徒ではございませんが、祖母は信心深い基督者であり、私も十四の歳に彼女からプレゼントされた聖書を読んだのを契機に、爾来耶蘇基督の教えの影響下にいるのでございます。 そして、工藤様の仰られた『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つというお言葉、まことに、まことにその通りであると、腹落ちいたしました。 ただ言葉でのみ「かくあれかし」と誦することは平易なことでございます。しかるに、それを誦する我々の心中には、いったいどれだけの刻苦艱難が強いられることでしょう。それに引き換え、『信じぬこと』つまり『不信仰』の告白は、余りにも容易に思えてしまいます。それは、己が心に於いてでも、です。ただ、もし、『不信仰』の告白をした当人が、『信じぬこと』を肯んじないとすれば、それはいったいどのような心理に於いてでありましょうか。この命題に対する思弁の下、私はオイルというパラドキシカルな人物を創造したのでございます。そして彼こそまた、外ならぬ私自身であり、私の目から見た、現代人の一典型でもあったのでございます。彼があれほど『書く人間』を悪し様にこき下ろしておきながら、他でもない自分自身『書く人間』である読者様に、多く共感の声をいただけたことも、そこに理由の一つがあったのだと考えております。 そして、その上で工藤様のコメントに助けられ、『信仰』の告白と、『不信仰』の告白との間にある、表裏の関係に、不図気がつくことができたのでございます。私の考えは、随分異端的なものであるとは自覚しておりますが、そのような次第で、「神を信ずること」と「神を信ぜぬ」こととは、殆ど同じことであると、直感するに至ったのであります。また、こうとも言えましょう、「神を頭から信ずることは、神を全く信ぜぬのと同じだけ、信仰から遠いことである」と。 西洋には一般に、「懐疑の試練を経てこそ、より確実な信仰に至れる」という思想があります。これは復活の奇跡とも符合するところではありますが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教や、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老に、そのモティーフを見ることができましょう。しかし、私にはやはり、「本当に彼らは信じていたのか」という疑念が去らなかったのでありました。そして、今でこそ言えることではありますが、「彼らは決して、頭から信じ切っているのではなかったのだ」と、そう確信しているのであります。 『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つ。彼らこそは、正にこの工藤様のお言葉の体現でありました。ジャベール警部や次兄イワンも、恐らくは、『神を信ぜぬ』というやり方で以て、彼らなりの『信仰』を持っていたのでありましょう。 私は、この矛盾こそが、人の心の内にあり得る一つの『奇跡』であると考えます。「あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、それは矛盾を含んでいるからである」という、ミラーの言葉がありますが、私はこの矛盾を愛します。 余りに精緻すぎるこの宇宙の中で、人の心だけが、矛盾に満ち、意味に満ちているのでありますから。 私が『人間を信ずる』のも、その為でございます。 工藤様。この度は多くの実りある霊感を与えてくださり、まことに、まことに、ありがとうございました。
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前話でのオイルの独白は物凄い熱量でしたね。それに対する今話での「私」の分析と短い反駁を通して、恐らく次話で開陳されるのであろう「私」の「告白」にも既に熱量が予告されているようにお見受けしております。楽しみです。
etudeは音楽では「練習曲」の意ですけれど、演劇では俳優達がそれぞれの役になり切って台本無しのアドリブで発話する「即興劇」の意にもなりますから、二人のこの遣り取りを黙読しておりましたら不図、これを「音」として聞いても定めし耳に心地良いだろうと思いました(その場合は即興ではなく、台本の科白ということになりましょうか)。
にしましても、信仰とは「既に信じている状態」というより、実は信じてなどいないかもしれない、もしくは信じていると誤解している(けれど本人はそうと気付いていない、気付けない)ものをそれでも「信じようとする意志」の上にしか成り立たないのではなかろうか、などとも拝読して考えさせられているところです。〈信仰〉そのものと、その〈信仰〉を言葉によって表明した「私は〇〇を信じている(信じていない)」という〈言説〉との間には、何とも言い難い深淵が横たわっていたりするのでしょうか……。
あと、個人的には今話の「……ということが証明されるだけのことさ。ただ、それだけのことさ」という言い回しに、「……と言っているだけのことさ。それだけさ」と三島由紀夫が東大全共闘との討論会で、天皇に対する立場は水と油である両者が実は「共闘」できる一点を持っているのだと相手に秋波を送る時に放った、雅量を示す温かい言い回しが「音」として重なって面白かったです。昭和的な匂いを感じました。私自身が辛うじて昭和の末葉に生まれたからでしょうか、昭和にノスタルジーを感じてしまうノスタル爺(と申し上げますと、本当の爺に「若輩の分際で!」と叱られますね)になっておりますことご寛恕下さいますよう。
次話のみならず、本年も坂本さんのご健筆を、お祈りと言いますか、一読者としてお願い申し上げます。
作者からの返信
工藤行人様
いつもいつもお世話になっております。
坂本でございます。
返信が遅れてしまい、まことに申し訳ございませんでした。
コメント、拝読しました。
『信仰』という語をしきりに用いながらも、その実『信仰』という言葉が私の中ではなんとも茫漠とした観念のままであり、これを書き終えても尚、依然獏とした感は否めず、『いったい私は何か意味のあるものを書けたのか』、また『信仰という言葉を用いたのは僭上な行いであったのかもしれない』と、不安な心持でおりました。しかし、ありがたくもコメントにて、工藤様の慧眼冴え渡る御意見を拝受したことで、私の漠とした視界にも、一条の明徹な光の差したのを見る思いでございます。
御存じの通り、「信仰告白」とは多くはプロテスタントで用いられる、神と教会、そして人々に対してなされる信仰の告白を意味する語でございます。私自身は信徒ではございませんが、祖母は信心深い基督者であり、私も十四の歳に彼女からプレゼントされた聖書を読んだのを契機に、爾来耶蘇基督の教えの影響下にいるのでございます。
そして、工藤様の仰られた『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つというお言葉、まことに、まことにその通りであると、腹落ちいたしました。
ただ言葉でのみ「かくあれかし」と誦することは平易なことでございます。しかるに、それを誦する我々の心中には、いったいどれだけの刻苦艱難が強いられることでしょう。それに引き換え、『信じぬこと』つまり『不信仰』の告白は、余りにも容易に思えてしまいます。それは、己が心に於いてでも、です。ただ、もし、『不信仰』の告白をした当人が、『信じぬこと』を肯んじないとすれば、それはいったいどのような心理に於いてでありましょうか。この命題に対する思弁の下、私はオイルというパラドキシカルな人物を創造したのでございます。そして彼こそまた、外ならぬ私自身であり、私の目から見た、現代人の一典型でもあったのでございます。彼があれほど『書く人間』を悪し様にこき下ろしておきながら、他でもない自分自身『書く人間』である読者様に、多く共感の声をいただけたことも、そこに理由の一つがあったのだと考えております。
そして、その上で工藤様のコメントに助けられ、『信仰』の告白と、『不信仰』の告白との間にある、表裏の関係に、不図気がつくことができたのでございます。私の考えは、随分異端的なものであるとは自覚しておりますが、そのような次第で、「神を信ずること」と「神を信ぜぬ」こととは、殆ど同じことであると、直感するに至ったのであります。また、こうとも言えましょう、「神を頭から信ずることは、神を全く信ぜぬのと同じだけ、信仰から遠いことである」と。
西洋には一般に、「懐疑の試練を経てこそ、より確実な信仰に至れる」という思想があります。これは復活の奇跡とも符合するところではありますが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教や、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老に、そのモティーフを見ることができましょう。しかし、私にはやはり、「本当に彼らは信じていたのか」という疑念が去らなかったのでありました。そして、今でこそ言えることではありますが、「彼らは決して、頭から信じ切っているのではなかったのだ」と、そう確信しているのであります。
『信じようとする意思』の上にのみ『信仰』が成り立つ。彼らこそは、正にこの工藤様のお言葉の体現でありました。ジャベール警部や次兄イワンも、恐らくは、『神を信ぜぬ』というやり方で以て、彼らなりの『信仰』を持っていたのでありましょう。
私は、この矛盾こそが、人の心の内にあり得る一つの『奇跡』であると考えます。「あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、それは矛盾を含んでいるからである」という、ミラーの言葉がありますが、私はこの矛盾を愛します。
余りに精緻すぎるこの宇宙の中で、人の心だけが、矛盾に満ち、意味に満ちているのでありますから。
私が『人間を信ずる』のも、その為でございます。
工藤様。この度は多くの実りある霊感を与えてくださり、まことに、まことに、ありがとうございました。