片恋と君と ~ヒロインになれなくても~
三木 李織
ヒロインになれなくても
私には好きな人がいる。
私の好きな人にも好きな人がいる。
私は報われない恋をしている。
どうしても捨てられない
この気持ちを持っている限り、
この恋をしている限り、
私は一生『ヒロイン』にはなれない。
* * *
朝の校門から昇降口に向かう。
賑やかな視線の先には、今日の太陽みたいに輝いている、いつものあの人がいた。
みんなに囲まれて、みんなに憧れられて、みんなに大事にされている優しい
「
「そうだね
隣を歩く彼の、恋情と憧憬を映してきらきらと輝く瞳を星乃は見つめる。
私、
でも、翔太は私の気持ちに気付いていない。
彼が向ける熱い視線の先にはいつも、一学年上の二年生、学園のヒロインである
「ほーら、見惚れてないで行くよ。今日は私達、日直なんだから」
星乃は翔太の鞄を引っ張り、下駄箱まで連れて行く。
すると、後ろから鈴の音のように可愛らしい声が聞こえてきた。
「星乃ちゃーん。おはようー」
おっとりとした彼女の性格に合ったのんびりとした口調。
星乃に向かって背伸びをしながら大きく手を振っている様はとても愛らしい。
葉月先輩がこちらに近づいてくると、星乃はこちらからも駆け寄る。
「おはようございます! 葉月先輩! 今日も全力全開で可愛いですね!」
星乃は満面の笑みと賞賛で彼女に答える。
周りの男子生徒から向けられる嫉妬の視線を気付かないふりをしながら。
葉月先輩は私の憧れだ。
一昨年男子校から共学校に変わったこの高校で唯一の女性の先輩。
彼女とは同じ演劇部にも入っている。
美人で、頭も良くて、しっかり者だけれどどこか放っておけない物語のヒロインのような女性。
腰まで伸ばした綺麗な髪は彼女が動くたびに美しく揺らめき、生まれ持っての明るい髪色は陽光を透かす。
彼女の周りにある空気、風、太陽と月の光、野に咲く花さえも彼女をより輝かせるために存在しているように思える。
――そんな、神様に祝福されたような女性。
――ああいう人が、『ヒロイン』なんだ。
平凡な外見と平凡な中身の私には、天地がひっくり返っても並べるところなんて何もないし、ましても敵うところなんて一つもない。
そんなことを思うことすらおこがましい存在。
「はあー、先輩とゆっくり朝の愛の時間を楽しみたいのは山々なんですけれど、残念ながら日直のお仕事がありまして」
星乃は溜息をついて肩を落とす。
「そうだったんだ、ごめんね。引き止めちゃって」
葉月先輩は慌てたように手を胸の前で合わせる。
「いいんです!全然!ああ、なんで私は今日日直なんでしょうか。どうしてそんなくだらないことで先輩との時間を奪われなければならないのでしょうか」
星乃が葉月先輩の手を取り、その手を撫でまわしていると後ろから声が掛かった。
「星乃ー、行くぞー」
そこには星乃と葉月先輩から距離を置き、先に上履きに履き替えていた翔太がいた。
本当は朝から葉月先輩に会えて嬉しいし、照れているくせに、必死で興味ないという顔をしているのがちょっと笑えた。
「それでは、先輩。ごきげんようです」
星乃はぺこりと頭を下げる。
「星乃ちゃんも水澤君もまた部活でねー」
葉月先輩が手を振ると、「はい」と答える翔太の耳が紅く染まるのを星乃は見逃さなかった。
「翔太、照れてるの分かりやすすぎー」
「うるせえ」
『あの日』から、色んな気持ちを誤魔化し、自分を騙すために、私は道化を演じるしかなくなった。
* * *
昼休みの教室では、皆が思い思いに過ごしている。
星乃は昼食を食べながら、二年前まで男子校だったが故に、たった二人しかいない女子のクラスメイト――
「ねぇ、彼氏がさあー」
「なに、また浮気?」
明梨がジュースを飲みながら憂鬱そうな顔で話し始めると、七瀬がそれに答える。
明梨は名前の通り明るくてムードメーカー、メイクやヘアアレンジが大好きな、おしゃれな女の子。
星乃も、おしゃれ女子な彼女の技術を部活のために勉強させてもらっている。
七瀬は黒髪のショートカットが似合う、見た目はボーイッシュだけれど、実は中身がとても乙女な可愛い女の子。
頭もすごく良くて、面倒見も良いため、試験前は頼りっぱなしだ。
「そうなのー。もうやだー。次あったら絶対別れる!」
「明梨、毎回同じこと言ってるけどいつ別れるの?」
「それ言ったらダメなやつー」
星乃は二人の会話を遠くに聞きながら、窓の外を眺めて考える。
(七瀬の言うとおり、どうせ次もあるんだから、さっさと別れればいいのに)
(浮気男なんて明梨にはもったいない)
(でもそれができないから、いつも「別れる」って言って、別れないんだよね)
(そういうのって、なんて言うのかな――――)
開け放たれた窓から、校庭でサッカーをしている男子の声が風に乗って入ってくる。
そこに翔太の声が混じっていることに、星乃は気付く。
星乃はいつだってその声に簡単に反応してしまう。
頬杖をついていた右手を額に動かし、顔を伏せる。
(――――『執着』かな)
(それじゃあ、私の想いも翔太への『執着』なのかな――)
「そういえば星乃って男の人の話とか全然しないよね。たまに水澤君の話するくらい」
七瀬に急に話を振られ、星乃はぱっと顔を上げる。
顔に笑顔を貼り付けて。
「変な意味ではなく、私はイケメンよりも、可愛い女の子の方が好きだからねっ! 葉月先輩とかっ!!!」
星乃がどや顔で答えると、友人二人は若干引きながらツッコミを入れる。
「いや、星乃の場合、絶対変な意味じゃん」
「どや顔すんなし。笑って悲しみが吹き飛ぶわ、天才かよ」
(翔太のことしか好きになったことがないから、話せることがないだけなんだよね)
報われない気持ちを吐き出して、周りに重荷を背負わせたくない。
それは私の最後の心の砦、
* * *
「宮川、芸術祭の衣装の進捗はどうだ?」
星乃が所属する演劇部で部長を務める三年生の
今、演劇部は校内で開催される秋の文化芸術祭に向けて、準備を進めているところで、数少ない衣装係を務める星乃は、毎日忙しくしていた。
「ほぼほぼオンスケジュールですよ。仮縫いももう終わりそうですので、通し稽古には間に合います」
元々男子校ということもあり、演劇部は人数が少なかったらしいが、葉月先輩が入部してからは文化部としては一番人気の部活となり、入部テストまで導入されるようになった。
きっと葉月先輩が卒業してしばらくしたら、元に戻るんだろうけど。
星乃は中学生のときには手芸部に所属しており、入部テストでは一芸として自身の作品を見せ、晴れて小道具兼衣装係を射止めた。
そもそもの女子生徒の数が極端に少ないため、演劇部の女子部員は葉月先輩と星乃しかいない。
星乃の作業場と葉月がいる稽古場の場所は離れているものの、本番近くなると星乃は稽古場で衣装の着付けや調整をしたり、本番では舞台裏で衣装係として動き回るため、必然的に葉月先輩と星乃の距離は近づいた。
「相変わらず仕事早くて助かるよ」
堅苦しくも柔和な声音で海藤部長に労われる。
「海藤部長、もっと私を褒め称えてくださいよー。私褒められて育つ子なんで、主に葉月先輩に。その次が海藤部長ですー」
「唐突に藤堂の話にするな。そしてついでに俺にごま擦りするな。相変わらずだな、おい」
海藤先輩は「うえっ」という表情を隠しもしない。
――正直な人だ。
「私ブレない子なんで、主に葉月先輩方面で」
「お前あんまり藤堂にべったりだと、また学校中の男子から恨まれるぞ」
「それは、例えば海藤部長に、ですか」
星乃が海藤部長に悪い笑顔を向けると、彼はみるみる赤く染まっていった。
「お、お前」
――本当に正直な人だ。
「心配しないでください。葉月先輩に言ったりしませんから」
「あ、ああ」
「さあさ!部長は早く稽古に戻ってくださいね!私も私お手製のお姫様衣装を葉月先輩が着るのを早く見るために、チャキチャキ作業しなきゃなんです!」
「あ、ああ。引き続き頑張ってくれ」
「ありがとうございます!海藤部長も名誉ある葉月先輩のお相手役の主人公なんですから、気合入れて頑張ってくださいね!」
「本番でトチって葉月先輩の顔に泥でも塗りやがりましたら、抹殺ですからねー!」
星乃は大きく手を振って海藤部長を送り出した。
(心配しなくても、葉月先輩が好きなのは貴方ですよ。完璧超人の部長様――)
星乃は去っていく海藤部長の背に向かい、声を出さずに語り掛けた。
星乃は自分の気持ちを整理するように、一針一針を縫いつけていった。
* * *
入学したばかりの頃を思い出す。
――初めはただ、翔太に誘われて入った部活だった。
翔太は入学式の日、葉月先輩に一目惚れをした。
すごくベタだけど、その日は嘘みたいに桜が綺麗で、そんな桜が舞う中、部活勧誘をしていた葉月先輩は夢みたいに綺麗で、それに見惚れる翔太の横顔はひどく綺麗でひどく残酷だった。
その後すぐに、「一人で入るのは勇気がいるから」と翔太に誘われて、一緒に入部テストを受けた。
星乃は小道具兼衣装係。
翔太は元運動部の体力と手先の器用さを買われ、大道具係に決まった。
――ただ、それだけだった。
でもまだ星乃が葉月先輩を藤堂先輩と呼んでいたあの日、星乃は葉月先輩のことが大好きになってしまった。
* * *
「星乃ちゃんは本当にお裁縫が上手だよね。昔から好きなの?」
たまたま衣装直しで、葉月先輩と二人きりになったときだった。葉月先輩は衣装を直す星乃に声を掛けてくれた。
たぶん、緊張している星乃をリラックスさせようとしてくれたんだと思う。
「いえ、この二年くらいですよ。あとは家庭科の授業程度ですかね」
星乃は手を止めずに葉月先輩の衣装を裾の装飾を直していく。
「すごいね、それだけなのにこんなに手際が良いんだ。私あんまり手先が器用じゃないから羨ましい」
――今思えば、その時点で葉月先輩の魅力に当てられていたんだと思う。
星乃は、隠すことでもないので、自分と手芸にまつわる過去についてふと語ろうと思った。
「私、中学一年生の初めまでは、テニス部だったんです」
「ちょっと意外かも」
「まあ、友達に誘われて、本当になんとなく入っちゃった部活なんで」
お世辞にも部員の仲が良い部活ではなかった。毎日同級生も先輩もギスギスしていた。
「私、争いごとが苦手で、部活内で起きた揉め事を、なんとかしなくちゃって思っちゃって、出しゃばっちゃったんですよね」
「そしたら、まあ案の定、上手くいかなくて。余計なことをしちゃった私は、部活を去りました」
葉月は静かに星乃の話を聞いてくれる。
だから、星乃もそのまま話続ける。
黙っていても綺麗な人は綺麗なんだな――と思いながら。
「うちは両親が共働きで、私は一人っ子だったから、小さい頃から交流のあった翔太の家で晩御飯を食べさせてもらうことが多くて」
「――綾子さん、えっと、翔太のお母さんは、おうちで手芸のお仕事をしていて、テニス部を辞めて早く帰るようになった私に声を掛けてくれて、手芸を教わるようになりました」
綾子さんが小さな頃のように星乃のことを実の娘のように構い倒した日々を思い出し、星乃は思わず一人で「ふふ」と笑ってしまう。
「しばらくして、教わって作ったキーホルダーがきっかけで、手芸部に誘われました。みんな優しくて、楽しそうで、だから手芸部で残りの二年間を過ごしました」
「それがなかったら、多分、私は今みたいに笑えてないから、翔太のお母さんにはとても感謝しています」
「もちろん、何も聞かないで普通に接してくれた翔太にも。あ、これは翔太にはナイショですよ」
「星乃ちゃんってすごく良い子だね。すごく、がんばったんだね。いい子だね」
葉月先輩はそう言うと、なぜか星乃を抱き寄せた。
星乃はその背中にそっと腕を回した。
「……藤堂先輩、針仕事してる人に抱きついたら、危ないですよ」
「ごめんね」
それでも葉月先輩は星乃を離さなかった。
「あと、葉月先輩って呼んでも良いですか――」
* * *
――その日、私は葉月先輩が大好きになってしまった。
その優しさに触れてしまったから。
その日のことは翔太は知らない。
ただ、知らない間に私が葉月先輩にべったりになったことには、驚いているようだった。
学校中の男子生徒も、葉月先輩と星乃の仲睦まじい様子を見て、嫉妬の視線を星乃に向け、良く分からない陰謀論を唱えだす人もいた。
しかし、星乃に葉月先輩を害する気がないのに気付くと、「女子をもメロメロにする藤堂葉月の魅力」と勝手に答えに行きついて、「仲の良い女子の後輩が出来て喜ぶ藤堂葉月もまた尊し。なので許す」と勝手に納得したようだった。
その後、葉月先輩が入学当初には男子しかいなかったこの学校でかなり苦労したこと、一部の反発する男子生徒から嫌がらせを受けていたこと、それでも逃げずに、めげずに努力し続け、みんなから認められるようになったことを知った。
葉月先輩の色んな側面を知って、星乃はますます葉月先輩が大好きになり、
憧れの存在になった。
* * *
葉月先輩との思い出は、とても優しくて、大切で、だから星乃はますます苦しくなった。
ふいにチクリとした痛みで星乃は現実に帰る。
「痛っ」
針で刺した指先には赤い粒が限界まで膨らみ、限界を超えると星乃の指先から重力に従って地面めがけてゆっくりと流れ落ちた。
部活の時間が過ぎて部長に挨拶してから星乃は大道具担当の作業場である美術室横の中庭に向かう。
大道具は役者の次に人数が多いポジションで、作業が終わったこの時間もいつもこの場所は賑やかだ。
翔太を目掛けて中庭に進み入っても翔太は星乃に気付かない。
だから星乃から声を掛ける。
――――最初からそうだった。
幼い頃から声を掛けるのは、いつも星乃の方だった。
翔太の事を気にして、ついて歩いていたのは、星乃の方だった。
いつから好きなのか分からないくらいに昔から、星乃は翔太のことを気にして、追いかけて、拠り所にしていた。
「翔太ー。帰ろうー」
いつも通り、翔太は話に夢中で星乃の呼び掛けに一回では気付かない。
「水澤翔太くーん! そろそろ帰りませんかー」
地面に胡坐をかいた翔太は、二度目の呼びかけでやっと星乃に気付き、こちらを見上げる。
「ああ、星乃お疲れ」
翔太の笑顔は夕日に照らされて眩しい。
「お疲れさまー」
星乃が笑顔で地面に置いてあった翔太の鞄を差し出すと、翔太はそれを受け取りながら立ち上がる。
そんないつものその光景に、いつものやり取りに、茶々を入れる人間が現れた。
「宮川さん、おっす!」
翔太の親友で翔太のお喋りの相手役をしていた山本君だ。
「幼馴染が迎えに来るとか、羨ましシチュエーションのはずなのに、相手が宮川さんだと、こう、ぐっとこないな。なぁ、水澤?」
「確かに」
山本君に同意を求められた翔太は即答する。こちらの気も知らないで。
「えーっとー、その心はー?」
星乃は怒りを顔に出さないように、笑顔で問いかける。
「星乃には色気がない」
「宮川さんには色気がない」
親友同士仲良くハーモニーを奏でたところで、星乃は我慢の限界を迎えた。
翔太は流石というか、長い付き合いなだけあり、星乃の怒りに気付いたようだった。
すでに沈黙を保ち、少しだけ距離を取り始めていた。
――――ずるい男だ。
「そんなこと言ってるとシバくぞうー? 葉月先輩に言いつけるぞうー?」
「満面の笑みで急な死刑宣告やめろ!」
「女は三十超えてからだって、お母さんが言っていたわ! 別に色気でお金を稼ぐ予定もないですけどね!」
「うん、そうだね、そうだね。その頃には色気が備わってるといいね」
「山本君もね! 光源氏の時代から男にも色気は求められているんだからね!」
山本君と言い争っている内に、いつの間にか辺りは薄暗くなり始めていた。
* * *
翔太と横並びで歩き、校門前まで行くと一人の男子生徒が門に寄りかかるようにして立っていた。
その人は星乃も良く知っている人だった。
――葉月先輩の幼馴染で、葉月先輩のことをすごく大事にしている人。
芸術科の有名な先生に教わるためにどうしてもこの高校に入りたかった葉月先輩を追いかけ、この学校に入学した葉月先輩の幼馴染で、葉月先輩のファンにも一目置かれている人。
私が葉月先輩と急激に距離を近づけたときに、いの一番に星乃に近付いて悪意がないか探りを入れてきた人。
結局、最後は葉月先輩の素晴らしさについて語り合って意気投合したんだけど。
警戒を解いてもらうため、そしてこの口の堅い人は信頼できると思ったのと、ある意味弱みを握ってしまっていることから、この人に私に好きな人がいることは伝えてある。
その相手が翔太とは言っていないけど、薄々気づかれている気がする。
――――まあ、この人は葉月先輩至上主義で私の恋がどうなろうと重荷にはならないだろうから。
でもこの人も不憫な人よね。
ずっと大事にしてきた幼馴染が、ぽっと出の男に搔っ攫われたんだから。
正確には攫われかけてるんだけど。
もっと女子の多い共学校にいたら、絶対にモテていたサッカー部のエースという、絵に描いたようなイケメン。
しかも勉強も出来て、ちょっと無口だけど優しいというハイスペック。
葉月先輩の恋人になる男ランキングの筆頭だったのに、逆転されたときはどんな気持ちだったんだろう。
(正ヒーローから、所謂当て馬枠への降格でしょ)
(まだ葉月先輩と海藤部長は付き合ってないけど、たぶん時間の問題だろうから)
(長く想っていても、それが報われるわけじゃないですね。ね、
星乃は不憫な男の前を通るとき、声を掛ける。
「千川先輩、お疲れさまです」
「宮川お疲れ。葉月はまだ中?」
「ええ、もう少しで降りてくると思いますよ」
「ありがとう。気を付けて帰れよ」
「ありがとうございます。千川先輩も気を付けて帰ってくださいね」
千川先輩から距離が離れると翔太は星乃に耳打ちをしてくる。
「星乃が俺が知らない間に、葉月先輩にとっての重要人物と知り合いになってるの、どういう現象なんだ。いつ千川先輩と顔見知りになったんだ」
星乃は千川先輩との出会いを思い出しながら答える。
「入学してすぐくらいかな。翔太は知らないだろうけど、私にも色々あるのよ」
星乃は小さく溜息を吐いた。
それを見て、翔太が意味の分からないことを言ってきた。
「なんかある日突然『この人彼氏です』って知らない男連れてきそうで心配になるな」
「なにそれ、それってどういう感情? 翔太は私のお父さんなの?」
星乃は思わずムッとしてしまう。その先の答えが容易に想像できたから。
「いや、気持ちとしては、『兄』っていうか」
「はあーあ゛ー」
星乃はもっと深い溜息を吐くことになった。
期待はしていなかったけれど。
――――悪い意味で期待を裏切らない男。
* * *
それから少しだけ時が経ち、文化芸術祭の準備が通し稽古に入った。
この頃は、少し前まで感じられた暑さはすっかり鳴りを潜め、陽が沈むにつれて冷たい風が吹くようになっていた。
星乃は放課後の講堂で、舞台上を右往左往しながら役者たちの動きに合わせた衣装の微調整のため、待ち針を刺して回っていた。
あちこちから「宮川さーん」と声が掛かり、目が回る忙しさだった。
季節は進んでも、相変わらず星乃の想いは同じところをぐるぐると巡っていた。
少しだけ変化があったのは、葉月先輩と海藤部長の方だった。
二人はまだ付き合ってはいないようだったが、二人の距離は、明らかに前よりも縮んでいた。
多分、それまで無自覚だった葉月先輩が、自分が海藤部長を好きなのを自覚する出来事があったんだと思う。
それとなく探るために海藤部長の名前を出すと、明らかに動揺するのはすでに確認済みだった。
それに気付いているのは、多分本気で葉月先輩の事が好きな人間だけ。
翔太はこのところ、明らかに何かを決意したような顔をしていた。
(たぶん、もう潮時なんだと思う)
(私はちゃんと、その時を耐えられるかな)
星乃は舞台袖にいる翔太をじっと見つめて、手が白くなる位に強く拳を握った。
まるで自分がどこまで耐えられるかを試すように。
* * *
文化芸術祭の前日、講堂での舞台のリハーサルが始まる。
星乃は舞台袖に控えて、舞台の流れと本番の衣装替えの段取りを再確認していた。
舞台上では本番さながらに物語が進行していた。
――――その物語はとある小さな王国の王子と大国の姫の物語。
自国では王位継承権も低く、力の無かった王子は長年の努力の末に力を手に入れる。
その能力を認められた王子は、兄王子の策略に嵌まり、暴虐を働く大国に立ち向かいことになる。
王子が歩む道は苦難の道だったが、王子はボロボロになりながらも、最後には勝利を収める。
そして葉月先輩が演じる物語のヒロインである姫は、王子が戦った大国の姫だった。
姫は美しく聡明で、権力に媚び
そんな、勇敢で優しい姫だった。
反逆者の烙印を押され、父王に捕らえられていた悲運の姫は、王子に助け出され、二人は力を合わせて世に平和をもたらす。
一部の例外を除いては、何もかもが報われる、そんな物語――――。
「現実と照らし合わせると、なかなか皮肉の利いた物語を書いたものだよね」
星乃は、舞台下にいる脚本担当の文学部部長を見ながら独り言ちる。
すると、横から作業用のジャージを着た翔太が声を掛けてきた。
「何か言ったか?」
「何でもない。葉月先輩は今日もやっぱり可愛いなって、言っただけ」
その後、通し稽古が終わり、休憩がてら翔太と舞台袖で他愛もない話をしていると、なんだか嫌な感じがして、舞台を振り返った。
振り返った先には、舞台の中央に一人で立つ葉月先輩がいた。
そして、その後方を見て、星乃は目を瞠った。
ガタリととても小さな音がした。
他の誰にも聞こえなかったとしても、それでも星乃はそれを聞き逃さなかった。
スローモーションみたいに景色が流れる中、星乃は思わず走っていた。
星乃が走るその先――大道具の本棚が、葉月先輩を目掛けて倒れてきていた。
「……葉月先輩っ!!」
名前を呼ぶのが精一杯だった。
星乃は飛び込むように、葉月先輩に覆いかぶさる。
「星乃ちゃん!?」
自分の身体の下から葉月先輩の驚いた声が聞こえたのを最後に、そこからは視界は真っ暗で、音も聞こえず、痛みと衝撃しか感じなかった。
「っ!!」
喉奥で呻き声が小さく鳴るだけで、声を上げることもできなかった。
衝撃が収まると、視界が明るくなり、背中から重みが消える。
誰かが、本棚をどかしてくれたようだ。
本物の本棚じゃないから、見た目よりは軽くて、本もほとんど入っていなくて助かった。
ひらけた視界に、舞台用の照明がやたらと眩しくて、目を細める。
「星乃!!! 大丈夫か!!!」
星乃を呼ぶ翔太の声がやけに耳に響いた。
「……私は大丈夫。……葉月先輩は怪我無いですか?」
背中と腕に感じる痛みを我慢して、星乃は笑った。
「私は大丈夫、星乃ちゃん痛いよね、ごめんね」
葉月先輩の方が、泣きそうな顔をしていた。
「葉月先輩に怪我がなくて、良かったです……」
星乃は葉月を慰めるように、そっと抱きついた。
星乃は翔太に支えられながら舞台横の放送ブースに連れて行かれる。
放送ブースに入ると、椅子に座らされ、他の部員が連れてきた保険医に手当をしてもらう。
翔太は海藤部長と一緒に部屋の前で待ってくれていた。
「宮川さん、どう腕は動く?」
保険医に尋ねられ、星乃は痛みを我慢して腕を動かす。
「大丈夫そうです。見た目ほどは痛くないですよ。看板女優を守れて光栄です」
「何言ってんの、痛いに決まってるでしょう」
幸いこの部屋には今、星乃とこの保険医しかいない。
彼だってこの舞台には中止になって欲しくないはずだ。
彼だって葉月先輩に少なからず好意を抱いているのは知っている。
「先生、こんなことで舞台、絶対中止にしないでくださいね。……私だって頑張って来たんです」
痛みで声が震えた。
「私の『我慢』を、無駄にしないでください。お願いします、先生」
星乃は真剣な顔で頭を下げる。
背中の痛みは、先程から全然消えない。
「……わかりました。でも無理はしないこと。我慢できなくなったら、すぐに病院に連れて行きますよ」
嘆息の後、保険医は星乃の我儘を聞いてくれることになった。
「ありがとうございます、先生」
星乃はもう一度頭を下げた。
星乃と保険医が部屋から出てくると、海藤部長と葉月先輩そして翔太が駆け寄って来た。
「骨は折れてはないみたいだけど、無理はさせないようにね」
「はい、先生」
保険医が報告すると、海藤部長と保険医は職員室に向かっていった。
(これできっと、先生が上手いことやってくれるはず)
海藤部長と保険医が去った後、葉月先輩がすぐにオロオロと葉月の前に立つ。
「星乃ちゃん、本当にごめんね、無理はしないでね」
「私は大丈夫です。葉月先輩が悪いわけじゃないですから、謝らないでください」
「でも」
「お願いします、先輩」
「うん、ありがとう、星乃ちゃん」
「はい、葉月先輩。舞台、絶対成功させましょうね」
翔太はその間、ずっと無言で怒ったようにこちらを見ていた。
* * *
文化芸術祭前日の夜、星乃は翔太の家で晩御飯をご馳走になっていた。
高校に上がってからは一人で晩御飯を準備して食べていたが、今日は翔太にしつこく「食ってけ」と言われ、お邪魔することにした。
事前に綾子さんに連絡してくれていたらしく、綾子さんは玄関に出迎えるなり、星乃の怪我の心配をしてくれていた。
晩御飯を食べ終わった後、宮川家は水澤家の向かいにあるにも関わらず、翔太が見送りをしてくれる。
翔太の家の門を出ると、それまでほとんど喋らなかった翔太が何か言いたげにそわそわとした様子になる。
星乃はあえて気付かないふりをした。
「星乃」
星乃は翔太の呼ぶ声に、ゆっくりと振り返る。
「ああいう無茶は、二度とするな」
「……無茶かー。無茶は、してないよー」
星乃の返事に翔太はムッとする。
「お前はいつもそうだよな。自分が泥を被れば良いって思ってる」
「そんなこと思ってないよ。葉月先輩の
星乃は努めてふざける。
そんな星乃を見て、翔太は更に苛立たしげに自分の頭をガシガシと乱暴に掻いた。
「……とにかく! お前も一応女なんだから気を付けろよ」
「『一応』って言うなし。めっちゃ女でしょうが」
――――嘘だ。
――――本当は『一応』でも女って思っててくれて嬉しい。
たった、たったそれだけのことなのに、思わず泣きそうになった。
「そうだな」
翔太の追い討ちで、星乃の目から涙がこぼれ落ちた。
「なっ! 星乃、どうした!?」
いつもは泣かない星乃に、翔太は可笑しいくらいに狼狽していた。
「……痛い。本当は凄く痛い」
――怪我をした腕と背中よりも、
ずっと強く、
鈍く、
胸が痛かった――。
星乃はしばらく涙を止めることができなかった。
* * *
星乃の願い通り、芸術祭は本番は問題もなく、演劇部の舞台は盛況の内に幕を降ろした。
葉月先輩はその魅力を存分に発揮し、海藤先輩はそれに応えるように、二人は共鳴し合うように見事な演技を披露していた。
星乃は鎮痛剤を飲んで、痛みを何とか堪えながら二日間の舞台を無事に終わらせることができた。
* * *
二日間の文化芸術祭の最後の夜。
後夜祭が行われている校庭は全校生徒が集まり、賑やかだ。
喧噪の中、演劇部の先輩たちが話している声が、少し離れた場所に一人でいた星乃の耳に届いた。
「でもさぁ、怪我をしたのが、藤堂さんじゃなくて良かった」
「そうだな、宮川には悪いけど、藤堂さんの代わりはいないからな」
こんな発言には、もう慣れてしまった自分がいる。
だって真実だから。
星乃は、周りをきょろきょろと見渡す。
葉月先輩の姿が見えない。
海藤部長の姿も見えない。
「今日だと思った。今日は部長にとっては最後の舞台だもんね」
星乃は空を見上げる。
ヒロインの恋が叶ったことを祝福するように、空には星がきらきらと瞬いていた。
* * *
星乃は校庭から離れ、一人で講堂に向かっていた。
誰もいない放課後の講堂の舞台に、一人で立つ。
壇上にはまだ、舞台道具が片付け切らずに残されている。
舞台袖には葉月先輩の衣装がハンガーラックに掛かって並んでいる。
星乃は自分が作ったドレスを手に取って眺める。
「こんなの、私には似合わないもんね。……笑っちゃう」
ドレスを元に戻し、舞台の中央に進む。
「私はずっと、翔太の『ヒロイン』になりたかったんだよ――」
星乃の独り言は、静かな講堂にやけに響いた。
* * *
海藤部長たち三年生が引退してからしばらく経ち、秋が深まった頃、世の中はすっかり肌寒い空気を着こなしていた。
文化芸術祭で負った怪我は、念のため病院で診て貰った結果、肩の骨に少しだけヒビが入っていることが分かったが、日常生活には支障は出なくなっていた。
あの時、本棚のセットを押し倒した人物がいたことは星乃の胸に秘められ、不幸な事故ということに片付いた。
結局犯人は名乗りを上げることはなかったし、誰かがそれをやったことも星乃は追及しなかった。
変に恋心を拗らせた人間が犯人だったと思うが、きっとあんな馬鹿なことは二度とやらないと思う。
あの事件から変わったのは、翔太が異常に星乃を心配するようになったことだった。
「怪我の功名?」と内心思ったが、結局翔太の気持ちは相変わらず葉月先輩にだけ向けられていた。
星乃に対して向けている感情は心配というよりも、危ないことをする妹を監視しているようなものだという気もする。
今日は中間考査が終わった放課後で、星乃と翔太の二人はクリスマスに上演する舞台に向けて、衣装や小道具の材料を街に買いに来ていた。
落葉樹の路を歩くと、ショーウィンドウには早くもクリスマス飾りも出され始めていた。
女の子らしい可愛い服が並んだお店には『モテスタイル』なんて書かれている。
星乃は思わず立ち止まって、それを睨みつけるように眺めてしまう。
「ねえ、モテる要素ってなんだと思う?」
「はあ?」
翔太は星乃の唐突な疑問に後ずさる。
「やっぱり葉月先輩みたいな、優しくて、守ってあげたい感じ?それとも色気?私には良く分かんない」
星乃はショーウインドウから目を離さないままで、真剣に翔太に問いかける。
すると翔太が横で笑い出す。
「ハハハ。お前オヤジだもんな」
可笑しそうに、だけどバカにしている訳じゃない、そんな笑いに星乃の気持ちは和らぎ、星乃は唇を尖らせた。
「……オヤジじゃないし」
「まあ、オヤジだけど、星乃も優しいだろ」
「な、急に何いってんのっ!?」
星乃はドキドキして、思わず俯くが、そのままそっと翔太の顔を覗き込んでみる。
――――しかし、翔太は何かに気付いたように、遠くを向いてしまった。
「葉月先輩だ」
その声に、その名前に反応して星乃は思わずいつもの調子で首を左右に振ってしまう。
「え、どこどこどこ?」
「あそこだよ、ほらあそこの橋の上」
翔太が指差す先には、少し離れた場所にある橋の上に立っている葉月先輩がいた。
裏路地は人通りが少なく、夕日が差していて、橋の下を流れる水路は橙に染まっていた。
――それはとても綺麗な、一枚の絵画のようだった。
「……本当だ。さすが翔太、ストーカーの素質大有りだよ」
(あんなに遠くにいるのに、すぐ気付くんだ)
「お前も同じようなもんだろうが。いつもに葉月先輩に『可愛い、可愛い』言って張り付いてんだろうが」
「うん、そうだね」
「認めやがった」
星乃はそのまま周囲を窺う。
そして、葉月先輩から数十メートル離れた距離に見覚えのある人物の影を認め、星乃は反射的に翔太の鞄を引いた。
「翔太、行こう」
しかし、翔太はびくともしなかった。
「翔太、見ちゃ、だめ」
星乃は背伸びをして、両手で翔太の目を覆う。
しかし、翔太は星乃の手を掴んで避けてしまった。
「星乃、良いんだ。分かってるんだ」
翔太の瞳には、海藤前部長に笑顔を向ける、葉月先輩が小さく映っていた。
「翔太……」
星乃が見上げた先の翔太は、何かを諦めたような顔で葉月先輩をじっと見つめていた。
* * *
星乃は翔太の腕をつかみ、近くの公園まで来ていた。
ベンチに座り、二人とも黙り込んだままだったが、その沈黙を破ったのは翔太の方だった。
「星乃、気付いてたんだな。まあ、星乃なら気付いてるよな。お前昔から周りのことよく見てるもんな。興味がある人なら、なおさらだよな」
「そう、だね」
――否定しなかった。
「なあ、聞いたことなかったけど、星乃は俺が葉月先輩のこと好きなことにいつ気付いた?」
「……入学式の日。部活勧誘のとき」
――嘘はつかなかった。
「……初めからか」
翔太は「ふう」っと溜息を吐く。
「だから何も言わずに、一緒に演劇部入ってくれたんだな」
「うん」
なるべく感情を込めないように答える。
「葉月先輩と仲良くなったのは、俺が葉月先輩のこと好きだったからか?」
「それは、ちょっと違う。ゼロじゃないとは思うけど」
「……ゼロじゃないのか」
「でもそれだけじゃあないよ。もっと単純な理由」
星乃は顔を上げる。
いつもの笑顔を忘れて真剣なまなざしで翔太を見つめた。
翔太は困惑の表情をしている。
星乃は急激に胸の痛みを感じる。
痛くて、苦しくて、今すぐこの場から逃げ出したくなった。
それでも目は逸らさない。
――伝わって欲しかったから。
――誤解されたくなかったから。
翔太にだけは――。
「葉月先輩のこと、私も大好き」
「優しくて、可愛くて、努力家で、でもちょっとドジなところが放っておけなくて」
葉月先輩の笑顔を思い出す。
「先輩はわたしの、『憧れ』の人」
その笑顔を思い出しながら、星乃も同じように笑おうとする。
――うまく笑えているだろうか。
「でも本当は、翔太と、一緒にいたかったから」
笑顔と共に閉じた瞼に、熱いものを感じる。
それは頬を伝って流れ落ち、星乃の握った拳に熱の粒が落ちる。
(そっか、わたし、泣いてるんだ)
妙に冷静な自分が、頭の中で警鐘を鳴らす。
「星乃、俺……」
これ以上は「言ってはいけない」と、頭の中で早鐘が鳴る。
『警告音』は確かに聴こえているのに。
星乃は自分の身体が、自分の心の言うことを聞いてくれないのを感じる。
星乃は知らない間に翔太の前に立っていた。
翔太に落ちた自分の影を見て、それから自分を見上げる翔太の目を見つめた。
「翔太が葉月先輩のこと、好きなことぐらい知ってる」
「ずっと知ってる」
「憧れとかじゃなくて本当に本当に好きだって知ってる」
「だってずっと見てきたんだもん、翔太のこと」
ぼろぼろと勝手に涙が零れ落ちてくる。
「翔太がわたしの気持ちに応えられないことも知ってる」
抑えようとしても涙は止まらない。
「――でもね、だけどね」
「葉月先輩の百分の一、千分の一。ううん、一億分の一でも良いから」
「わたしのことも、ちゃんと見て――――」
沈黙の中、二人は見つめ合う。
滲んだ視界の向こうでは、翔太は困った顔をしている。
困らせたかったわけじゃないのに。
(私はどうしたらいい?)
星乃は自問自答する。
答えはすぐに見つかる。
(私は『ヒロイン』じゃなくて『道化』だから)
だから、涙を拭う。
笑顔を作る。
「なんてね!ちょっとはドキッとした?」
「星乃……」
急速に体温が下がっていくのを感じる。
頭からさーっと血が下がって、熱が逃げていくのを感じる。
――『警告音』は確かに聴こえていたのに。
今は冷たい風の音だけが、いやに耳を通り抜ける。
「全部、冗談だよ」
自分でも無理しているのが分かるから、体中の筋肉が軋む。
妙に力の入った腕が、痛みを訴える。
「翔太の方が『葉月先輩レーダー』が敏感だったのが悔しかったから、だから、ちょっと嫌がらせしてみただけ」
「……」
翔太は、疑いと申し訳なさを含んだ眼差しをこちらに向けてくる。
星乃は自分が情けなくて、惨めになる。
それでも、精一杯強がると決めたから、笑わないといけない。
「嫌だなあ、本当に冗談なんだってば!」
(やばい、のど痛い。涙、勝手に滲んでくる)
「ごめん、私先に帰る」
(なにを言ったんだろう、わたし)
(最悪だ。勝手な想いで翔太を傷つけた。自分のことすら誤魔化せないわたしには、翔太の傍にいる資格なんてない)
* * *
モノクロの雨の校庭は、花開いたような傘に彩られる。
――あれから数日が経った。
翔太の方から話しかけられれば、いつも通りの笑顔を向けるものの、なんとなく避けてしまっていた。
だから、たまたまこんな場面に出くわすなんて、私はつくづく間の悪い女なんだと思う。
――――部活帰りに自販機に寄ろうと、たまたま通りがかっただけの講堂裏。
真っ赤な顔を、真っ直ぐに葉月先輩に向ける翔太が見えた。
「俺、葉月先輩のことが好きです」
「ごめんなさい、水澤君。私、好きな人が、付き合ってる人がいるの」
「はい、知ってます」
頭を下げる葉月先輩を見つめる翔太の笑顔は、すごく無理をしていて、でもすごく優しかった。
星乃はそこに来た目的だった飲み物も買わずに、足早にその場を去った。
(今日が雨で良かった)
足音が雨音にかき消されるから――――
* * *
考え事をしながら歩いていると、気付けばもうすぐ家という十字路まで辿り着いていた。
知らない間に雨は上がっていた。
雲の浮かんだ夜空には、うっすらと星が散りばめられている。
ずいぶんゆっくりと歩いてきたようだった。
傘を閉じると、街灯の影がやけに伸びていて、星乃はその先にある人陰に気付く。
「翔太……?」
「星乃……」
肩を震わせて俯く翔太は、とても弱々しく見えた。
星乃は思わず駆け寄って、思わずその手を握っていた。
傘を差した気配もなく、制服も鞄もびしょ濡れで、その手は氷みたいに冷え切っていた。
星乃は慌てて家まで翔太を引っ張っていき、玄関で荷物を奪うと、タオルを渡して翔太をお風呂場に放り込んだ。
(こんな姿を、翔太が綾子さんに見せたがる訳ない)
星乃は翔太の荷物を拭くと、貸していた参考書を返してもらいたいと理由をつけ、翔太の部屋に入った。
自分の荷物に隠して、翔太の体操着を持ち出した。
お風呂から出ても呆然としたままの翔太に着替えを押し付け、髪の毛を拭いた後はこっそりと翔太を水澤家に押し込んだ。
翔太が去った後の真っ暗なリビングで、星乃はソファの上で膝を抱えて寝ころんだ。
そしてそのまま天井を見上げる。
「翔太、なんで言っちゃったんだろう」
(……なんて、私も人のこと言えないか)
翔太はそれからしばらく風邪で学校を休んだ。
* * *
翔太が休み始めて一週間が経つと、周りでも翔太を心配する声が聞こえるようになってきた。
それはもちろん葉月先輩もだった。
「さいきん水澤君、学校に来てないみたいだけど、大丈夫?」
事情を知っているだけに、葉月先輩の笑顔に罪悪感が混じっているのを星乃は感じた。
だから何でもないというように、何も知らないというように笑いかけた。
「なんか重めの風邪らしいです。バカは風邪をひかないって、やっぱり迷信ですよね」
星乃の軽口に、葉月先輩は、どこかほっとしたような顔をする。
「そっか。お大事にって伝えておいて」
「はい、伝えておきますね」
満面の笑みをいつも通り顔に貼り付けても、口の中が苦く感じた。
(先輩は優しいなあ。きっと気にしているんだ)
(振った方に否なんて少しもないのに)
――――届かなかった想いは、この世界のそこら中に溢れている。
この世界は報われないことの方が、きっと多い。
報われないことを悲しむ気持ちがあるのと同じように。
想いに応えられない悲しみも苦しみも、きっとある。
相手の負担になるのが分かっていて。
それでも伝えるのは、私たちのエゴ。
人を傷つけてまで、押し通したエゴ。
色んな想いや悲しみは一体どこに向かうのだろう。
悲しみというものをしまっておける箱があれば。
それを葬れる墓場のようなものがあれば。
なかったことに出来る焼却炉があれば。
そうしたら皆が救われますか――――
答えが出ない問いを、ずっと繰り返している。
* * *
翔太が休んでから二週間近くが経った頃、星乃の元に翔太からメッセージが届いた。
約束の時間通りに星乃は家の玄関を出ると、翔太がこちらを向いて立っていた。
夕風は冷たくて、星乃の髪を攫う。
「もう出てきて大丈夫なの?」
「ああ、明日からは学校にも行ける」
二人は真っ赤に染まった住宅街を、どちらからともなく並んで歩き出す。
昔から二人で良く遊んだ、高台にある公園に向かう。
あの頃は翔太が手を引いて登ってくれた階段も、今では難なく一人で登れる。前を歩く翔太の背中も、昔とは比べ物にならないくらい大きくなっている。
高台の公園に着くと、少し距離を取りながらも、二人は横並びで夕暮れに染まる街に紫が混ざっていくの見つめた。
山の端には夕陽の残滓が光っている。
星乃と翔太は、お互いの事を見つめることなく、一定の距離で、淡々と語る。
「お前にこういう事言うのは違うと自分でも思うんだけどさ」
翔太は真っ直ぐに前を見つめている。
「俺、葉月先輩に告白した」
星乃ももう、俯かない。
「……そっか」
今日はあの雨の日と違って良く晴れていたから、黄昏の空気がすごく冷たい。
――でもおかげで、頭の中が妙にすっきりしている。
「ほんと、なんでわたしにそんなことを報告するのよ」
星乃は小さく笑う。
「本当になんか、ごめん」
翔太は真っ直ぐな瞳を今は星乃に向けていた。
それに応えるように、星乃も翔太に真っ直ぐな瞳を向ける。
「でも謝らないで。私も翔太と同じだから。押し付けて、傷つけたから」
「それはたぶん、俺も同じだと思う。たぶん星乃のこと、ずっと傷つけてたんだよな」
「でも、私は謝らない。……私はこれから、とことん翔太を傷つけようと思う」
星乃は決意したように、足元の砂を踏む。
ジャリっという音が星乃と翔太の間に響いた。
星乃は翔太に一歩近づき、翔太の両頬に、自分の手を添える。
掌に翔太の温もりを感じながら、お互いの視線が交わるこの距離を、なぜか心地よく感じていた。
「ねえ、翔太」
「好き」
星乃はめいっぱいの笑顔で翔太を見つめた。
「ありがとう、星乃」
翔太の言葉とともに、冷たかった掌には、いつの間にか温もりが添えられていた。
* * *
私には好きな人がいる。
私の好きな人にも好きな人がいる。
私は報われない恋をしている。
どうしても捨てられない
この気持ちを持っている限り、
この恋をしている限り、
私は一生『ヒロイン』にはなれない。
だから私は『ヒロイン』になれるまで、
大好きな人を今日も傷つけるのだ。
片恋と君と ~ヒロインになれなくても~ 三木 李織 @iori-miki
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