後編

 ゆっくりと走る二人に、後ろから自動車が接近してきた。その車両は、ルリの後ろで減速して、二人の自転車に速度を合わせる。

「……あれ?追い越さないのか?」

「アキラ様。対向車は来ていませんか?」

「ああ、来てないぞ」

 アキラがそう言うと、ルリが腰に手を回して、くるくると回す。『追い越してください』というサインだ。

 それを見た自動車が、対向車線に半分ほどはみ出して、ルリとアキラを抜く。追い越し際に短く、パン!と鳴るクラクション。あいさつ代わりだ。――厳密に言えば、クラクションを警報以外の目的で鳴らすのは違反だが、

 ルリは気にしていないらしい。さっと手を上げて、啓礼のような姿勢をとる。アキラもそれに気づいて、ルリと同じように敬礼した。

「――今のは、自動車側も気を遣うんですよ。自転車を抜くだけとはいえ、2台同時に追い越すとなると、しばらく元の車線に戻れませんから」

「なるほど。それで対向車が来ないかどうかを訊いたのか」

「はい。今みたいに緩やかな左カーブだと、アキラ様が一番よく確認できるので」

 自動車が自転車を抜く時、意地でも車線変更をしない場合がある。それにも一応の理由はあったという事なのだろう。

「そういう時、自転車はどうしたらいいんだ?」

「難しいですけど、速度を落として、素早く追い越してもらう方法がベストですね。もし今の人みたいに抜く気が無いようでしたら、逆に速度を上げて一緒に走るのもいいかもしれません。そのうち抜きやすいポイントに到達するでしょうから」

 ルリの場合、その気になれば時速60キロメートルを超えるほどの加速もできる。それこそ後ろの自動車がルリを抜く必要がないほど、速度を上げることもできるのだろう。

 ……それをされてしまうと、アキラは置いてけぼりを食らうのだが。


「あーあ、俺もルリみたいに、自動車並みの速度を出せたらなぁ。そしたら追い越しのたびにビクビクすることも無いだろうし、そもそも追い越されることも無いのかな」

「いいえ。残念ですが、そういう事でもないですよ。自動車同士でも無茶な追い越しはありますし、人によっては法定速度をオーバーするのが当たり前のような乗り方をする人もいます。仮に自転車で時速80キロを超えても、抜かれる時は抜かれますよ」

 ちなみに、時速80キロはだいたい競輪やピストレースの時に自転車が出す最高速度だ。つまり相当な練度のライダーなら出せる速度なのだが、それでも抜きにかかる人はいるという事だろう。レースではなく、公道での話。

「ああ、そういやたまに見かけるわ。時速100キロくらいで走っている自動車。――普通に違反だと思うんだが、何でそんなに急ぐのかね」

「きっと、違反より怖い事があるか、緊急事態なんだと思いますよ」

「緊急事態、ねぇ……トイレ我慢してたとか、門限があるとか、そんなのか」

 アキラは冗談のつもりで言ったのだが、ルリは少し黙り込んだ。まあ、ルリが笑う事はあまりないので、今の冗談もスルーされるだろうとは思っていたが、

 しかしルリは、その冗談にやや遅れて返答する。ツッコミを入れるでも、ボケに乗るでもなく、

「そう言えば、アキラ様は門限があるんですか?」

「いや、ねーよ。あったとしても一人暮らしだからな。誰にも咎められないさ」

 先ほどの『罰則を受ける可能性が低いなら、誰でも違反をするもの』という話がちらつく。アキラだって全てのルールを完璧に守るわけではない。

「私も一人暮らしなので、特に門限はないです」

「おいおい。それでもルリは夜遅くまで出歩くなよ。女の子なんだし、ぶっちゃけ、その……なんだ。あー……可愛いんだからさ」

「照れますね」

「もうちょっと照れてる感じで言ってくれよ。俺一人だけ自爆したみたいになるじゃんか」


 夕暮れ。空の端っこが暗くなり始め、頭上には真っ赤に染まった雲が流れる。

「そういや、3つ目の理由を聞いてなかったな」

「え?」

「いや、今日ゆっくりと走っている理由だよ。1つ目は、俺が遅いから。2つ目は、この普通の住宅地が意外と危険な道路だから、だろ。で、3つ目は?」

 アキラがそう聞くと、ルリはそっと後ろを向いた。何をしているのかと思えば、後ろから車などが近づいていないか、確認していたらしい。そっと車線中央へと膨らんだルリが、アキラを追い越す位置に着く。つまり、先頭交代だ。

 追い抜きざま、二人が並んだ一瞬のうちに、ルリは一言で『3つ目の理由』を教えてくれた。

「3つ目は、アキラ様と、もっと一緒にいたいから、です」

「え?」

 何かを訊き返す前に、ルリはさっさとアキラを追い抜いた。

 中にレーシングパンツを履いているルリは、スカートがバサバサとなびくのも気にせず、立ち乗りで大きく背中を反らす。視界を高く確保して、わざと風を受けた。この季節の冷たい風が、自転車で火照った身体に当たって心地よい。

「アキラ様。門限ないんでしたよね。私の家で一緒に晩ご飯でも、いかがですか?」

「よ、喜んで!」

「では、少しペースを上げましょうか。もう歩道のあるエリアですから、歩行者と衝突する危険はないでしょうし」

 妙に嬉しそうに、腰を弾ませてペダルを漕ぐルリ。普段は絶対に見せないフォームだ。

「あ、おい。そんな急に速度を上げるなよ」

「アキラ様なら、このくらいはついて来られるでしょう?」

「そうだけどさ……ったく」


 秋晴れの空。広く安全な道幅の大通り。

 金曜日の夜に、二人は自転車で駆け抜けていくのだった。

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