1ー16.過去から放たれた証言

 ときは再誕暦七五八年──


 北方辺境と呼ばれる地にて、ひとりの男児が生まれ落ちた。すでに名ばかりの家名となった貧乏貴族の出で、わずかな土地に滋養豊かなヒモジイモを育てるような、いわば小作農と大して変わらない生活を送っていた。

 だが、子供の親はかつて先祖が〈大統一戦争〉を先陣切って戦った騎士であることをいまだ誇りに思っている人間だった。そのため生まれた子供が男であると知り、後継ぎができたと喜びを隠しきれなかった。すでに父親の目には、先祖代々受け継いだ武の心得と騎士道精神を受け継ぐべく必死になった少年のすがたが、まどろむように映っていたのだ。


 ところが子供は虚弱体質だった。病弱で、なん度も高熱を出し、夜泣きの声すら頼りなかった。これで五つまで育ったことがある種の奇跡と言うべきだったが、父としては不満が多くそれどころではなかった。

 おまけに運動が不得意で、その辺の田園を走るだけで息切れがする。風邪はひくわ、よく寝込むわで男はすでに第二子に期待していた。だがこれでも遅くにできた子供である。女は男児より前に、すでに何人か産み落としたが北部辺境の気候と大地のせいで、常しえの眠りについて二度と目覚めなかった。


 そういう意味では、男児はよく育ったほうである。

 しかし父は生まれ落ちたことを後悔するがごとき訓練を、その身に施した。


 雪の広がる野にもかかわらず、鎧や錘をまとっての走行、鞭打ちと見間違えるほどの一方的な打撲を繰り返す剣術指南──それに、与えられる食事はふかしたヒモジイモ、腸詰と葉と根菜の煮込み汁だった。

 この、獣を騎獣として仕込むかのような激しい訓練の果てに、男児は一端の少年へと成長を遂げていた。齢十二を迎えるころには、得物さえ持たせれば冬の郊外の森に出没する獣喰らいの魔物を退治できるほどだった。


 そこに、かつて虚弱体質だった幼児のおもかげは、ほとんどなかった。


「我が子よ」


 男は少年を名で呼ばなかった。


「そろそろ宮仕えを覚えてくるべきだ」


 はい父上、と少年は畏れを込めて男の顔をうかがった。


「年に一度、北方辺境伯が参内さんだいされ、〈聖なる乙女〉を奉る宮廷のまつりごとに携わる。その道すがら、我らのような末端の騎士が嫡子を同行することを許された。主君のもとで見聞を広め、知恵を得ることもまた騎士のお役目だからだ」

「はい」

「我が子よ、出発は三日後だ。ただちに支度せよ」


 慌ただしい支度の日々──そう思われたが結局のところ、身ひとつで出かけるよりほかになかった。ひとつは貧乏のため、そしてもうひとつは必要なものは北方領主が取り揃えてくれたからだった。

 ユルジス・ヘルトシュテット辺境伯は、叙事詩圏の東西南北を死守する辺境伯の地位を代々治めながら、おもに北方の強敵シルベール皇国を斥けるほどの有力な地方領主の筆頭格だった。〈聖なる乙女〉を冠する宮廷への圧倒的な忠誠心と敬虔けいけんな宗教心から、教導会からの信頼も厚い。かれは〝黒門〟と呼ばれる山岳部の要塞を固め、何度も万単位の軍勢を追い返してきた。その手勢は〝北方の槍壁〟と二つ名を得るほどの精強な兵士・騎士たちで、父は少年にこの軍団の一番槍となることを望んでいた。


 だが、少年は宮廷社会に足を踏み入れることによって自身の新しい運命を見いだした。


 野を越え、山を越え、湖を迂回うかいしつつ、森をはすに見て、それからまた丘を越え──その先に〈冠の都〉はあった。

 聖櫃せいひつ城アドラ=キャメロの荘厳なる城館と、天空の青を象徴するその尖塔の群とが、見るものに〈聖なる乙女〉の威容を伝えた。少年もまた、初めてそれを目の当たりにして、心から震えた。神の殿堂とも思しき調和の取れた美が、緑の野に屹立する。乳白色の城壁が立ち並ぶさまは、圧巻としか言いようがない。


 城壁のなかはより驚きに満ちていた。


 古今東西の入り混じった雑踏に、税として納められた各地の特産物が放流された市。西の青果に南の薬草、北の金物、東の毛織物と、各地の名産が所狭しと並んでいる。それまで雪と暗い緑の世界しか見てこなかった少年にとっては、目がチカチカするほどの豪華絢爛けんらんの世界に思えたのであった。

 結局のところ、少年は職務をよく果たした。警護の任を全うし、上官の命令をよく守り、特に来もしない見えざる敵からの魔の手を阻んだ。もっとも、来ていないのだから自身が誰かを撃退したわけではないのだが。


 かれの運命を変えたのは、たまたま最近創設された〝騎士学校〟なるものの存在だった。


 教導会が〈女神の平和〉をうたって以来、人が人を殺すような騒乱はほとんどない。にもかかわらず叙事詩圏では大きな問題が起こっていた。兵士の不足、騎士の不足である。

 そもそも〈女神の平和〉の時代に差し掛かってから、ヒトに外敵がいなくなったかというとそうではない。〈まつろわぬ支族〉に、異教の国々、それに何よりも自然のことわりに反して命を弄ぶケダモノ──魔物の存在が、依然あった。


 特に魔物は、叙事詩圏においてたびたび謎とされる存在であった。神学はこれを「ヒトの生み出した源罪の産物」とする一方で、ヒトはこれに打ち勝って万物の支配者の地位を獲得せねばならないと説く。

 だがすでに超常のことわりを身にまとった存在を前に、暗黒時代を生き抜いた戦士たちでさえも死体を積み重ねるしかなかった。魔物たちはありとあらゆる非常識なことわりを用いて、ヒトを死に追いやった。あるときは得体の知れない病疫を撒き散らす小動物のかたちを取り、あるときは家畜までも丸呑みする大型の獣のすがたを取った。ヒトの似姿をまとって通行人を屠る植物のときもあれば、天空を舞い街ひとつを焦土と化す四足獣のこともあった。かれらは予測できず、発見されてから退治するまでに無数の死と観察を経る必要があった。その過程で魔術が研鑽けんさんされ、実戦投入されてきた。


 いまとなっては、かつて王家が叙勲し、子々孫々受け継ぐべしと分け与えた領土がときにひと気のない荒野と化すこともひとかたならずあったのだ。そこには魔物が我が物顔で君臨し、ますます数を増やして他の領国を侵すことすら発生した。

 そうなると、もはやこの敵の排除に地位も身分も関係なくなったと言っていい。


 騎士学校の前身は、すでに各地の領国で育まれていた。城市まちの市民の作った自警団、あるいは金銭目当てに魔物を退治するギルドの存在がこれを後押しした。

 先んじて訓練と達成ののちに平民を騎士にする制度が生まれた。しかしこの制度には教育という難点が同時にあった。


 ただ平民の有志を募って戦わせる──これだけでは魔物の被害者を増やすだけだったのだ。正しく敵を退治するには、知識と、それを手取り足取り教える教官も必要だった。魔術がそのなかで重要な役割を果たし、同時に神学にも大きな変革がもたらされた。〝青空派〟と呼ばれる実地研修を優先する神学徒の派閥の出現は、大きな波紋をもたらしたが、なかでも魔物退治における体系的な実践をかたどったことにその意義があった。

 話を少年に戻すと、騎士学校はその叙勲と品格を保つにふさわしい〝騎士〟を求めていた。武に優れ、文字を読み、ときに魔術の知識を我がものとする──その能力を持つものを選抜生として集めることが、王家の要求に他ならなかった。そこで、少年に白羽の矢が立ったのである。


 かれを呼び出したユルジス・ヘルトシュテット辺境伯は、王家の封印を刻んだ獣皮紙をひろげ、読ませて、騎士学校への入学を促した。


「なぜ──ぼくなんかに」

「きみは十二の頃に魔物を一頭斃してきたらしいじゃないか」

「ええ、まあ」

「いまどきそれほどの武勇を誇る若者はそういない。北方辺境のものとしても鼻が高いと言うものだ」

「しかし、何を学べばいいのでしょう」

「ありのままを学べばいい。きみが無手勝流で知ったことを、いまさらのように教わることが面白くないのはわかる。しかしきみの役目はひとりで強くなることではない。英雄の時代はおわったのだ。いまはみんなで人並み以上に強くなれればそれでいい。きみは新しい時代の一番槍になるのだよ」


 一番槍になれ──その言葉は図らずも少年にその父が繰り返し語り聞かせた言葉そのものだった。少年は、いっそ命令で人を殺すよりはましかもしれないと考え、その拝命に従ったのだった。



     †



 男は、雲海山脈の青い峰を眺めていた。


 金髪のくせ毛で、見上げたひとみもまた青だった。かれの目の当たりにする世界はひとつの群青であり、同時に遠ざかっていく過去のおもかげですらあった。

 すでにかれは荒野の前に立ち、シルベールの軍勢が峠を登っていくのを見た。そして数々の戦いが足元のはるか先で繰り広げられているのも観察していた。


 人知られず、である。


 砦を攻めるにしては策も下の下、小出しに進んだ兵士たちがまるで殺されに出かけるように駆け出しては跳ね返される。それが二度も続いた今は、こう着状態となっていた。

 だが男は知っていた。これはこういう陽動である、と。あまりにも愚直におのれの武神を信じ、来世の救済を信じた兵士たちのむくろの山。その先に豊かな地を奪い取るという、ほとんど確約にも等しい算段が働いていることを──


(なぜ……)


 人は戦うのだろう。人は命を投げ出すのだろう。そしてその先にある何かを期待しうるのだろう──

 男は多くの死を見つめ過ぎていた。後世に語り継がれる英雄的な死、友の非業の死、涙が伴う死、意味のある死、無意味な死……


 だが、すべて等しく死であった。


 命が散る。蹴飛ばされた花びらのように。あるいは焚べられた薪のように、命が真っ赤な輝きを放っている。

 それは歴史という名によって氷付けにされた焔のように結晶化するだろう。あまたの罪のない命の犠牲の果てに、大いなる術が働いて織りなすそれはひとつの偽りだった。


(いやなことを、思い出したな)


 角笛が鳴り響いた。武神を祀る壮麗な咆哮──それが兵士たちを目覚めさせ、次の作戦行動へとうながした。

 男はしかし、その先にあるものを見向きもしない。すでに問題はそこには無くなっている。かれは自らのなすべきことをよく心得ていた。だからあの村を後にしたのだ。


(急がねば)


 男は野営の跡を消した。そして向かう先は──



     †



 ルゥはそのむかし、魔女狩りに囚われた魔女が処刑される場に出くわしたことがある。


 たしか城市タリムの東広場だった。中央の影響力がそれほどでもないこの辺境においてさえ、魔女とは依然〈聖なる乙女〉の敵であり、滅ぼすべき異端だった。

 憶えているのは、だれかに手を引かれていたということだ。


 女の手ではない。それは間違いのないことだった。


 広場で読み上げられた処刑宣告は、「触れてはならぬ〝大いなる叡智〟に近づきすぎたもの」として、「原初の罪を無自覚に犯そうとした咎人とがびと」として、その人物たちを非難していた。と同時に、罪を焼く炎によって骸を灰にし、〈忘れの河〉によってそのたましいを浄めることを祈る文言だった。

 叙事詩圏の聖典が描くこの世界は、霊魂の存在をいのちあるものに宿る大きなおもりのようなものとしてとらえている。むしろ霊魂こそがいのちをもたらす重要な核であって、それが重くのしかかるからこそ生命力が吸い込まれるようにそこに注ぎ込まれる。すなわちたましいとは生命ほかさまざまな霊気の《器》であり、それは火によって象られる玻璃瓶のようなものだ、という信仰があった。


 それを肉体ごと焼き払うとは、もう一度をかたどりなおせと、それほどの強い意味を持つ恐ろしい死に方なのだった。


 農村に育つ子どもたちは、いや城市においてさえも、火を使わない生活はない。燃え盛る炎のなかに落とし込まれた小さな木端からつまらぬ書き留めまで、さまざまなものが赤い舌に舐め取られて消えていった。それがヒトの身体を冒すとなると、目も耳も、鼻も覆いたくなるような惨状が生まれる。

 ルゥは当然、目を背けた。鼻も抑えて、恐るべき光景が決して入ってこないよう、まるで脅威から隠れるようなそぶりでいた。


 だが、片手をつかんでいた大きな手のひらが、グッと力強く握りしめてきた。

 その力はあまりにも激しく、ルゥの手が果実のようにもぎ取られそうだった。痛いよ、とルゥは言う。痛いよ、。その声は握った手から搾り出されたかのように、かすれた悲鳴だった。


 堪えきれずに顔を上げた。そこには金髪のくせ毛が逆立ち、青いひとみが爛々と燃える死の炎をとらえて輝いていた。

 あのまなざしは、その惨状を、そしてその向こうにいる何かを憎み、怒る目だった。


 何を怒ってるんだろう。

 何を憎んでいるんだろう。


 その目の先をたどろうとしても、ルゥにはすでにいのちを奪われ、かたちすら失われた骸しか見えなかった。ただ、固く握られた手から伝わる痛みだけは伝わった。


「魔女の歴史──それは痛みと苦しみと、悲しみの歴史でした」


 魔女マグダレーナの語りは、あまたの時代にまたがっている。だからルゥにはその全てはわからない。特に叙事詩圏が生まれるよりむかしなんて、おとぎ話か聖典のなかでしか聞かされてこなかった。

 でも、魔女がその頃からいて、その頃から迫害されてきたのはわかった。


 理由は、力そのもの。


 いのちの流れを肌で、耳で、目で──それともどこにあるかもわからない感覚によって、とらえる。この力は新たな生命の誕生を言祝ぐことができるとともに、死の予兆を察知する。だが、力は万能ではない。あくまでそれをとらえ、理解するというだけのことで決して意のままにすることではない。

 世のことわりを明確に知り、借用し、組み合わせる技をかねてより〝白き術〟として見做してきたのは魔女のほうだった。


 だが、無知は魔女を恐るべき存在として、ヒトならざる知に近づいたものとして、攻撃するに至った。


「迫害に対して異を唱えるのは、容易ではありません。人はその歴史の必然として、正しいものを求めました。結果、それまで安穏と過ごしていた魔女は、領国の掟を破る不届きものとしても辺境に追いやられ、時として殺される憂き目に遭ったのです」


 しかし魔女もやられてばかり、逃げてばかりではなかった。

 単に〝白き術〟が世界のことわりを知り、その流れを借りるものだとすれば、それに対置される〝黒き術〟は自らの意志を具現化し、ことわりをねじ曲げる力だった。この力は始め魔女とは無縁の力だったが、あまりに追い詰められた魔女がその歴史のなかで自衛手段として手を伸ばしてしまった。


 結果、魔女は生き延びた。

 生き延びてしまった。


「黒魔術はことわりを捻じ曲げます。その代償がどこに、どのようにもたらされるのかはだれにもわかりません。ときに自然の持つ公平な摂理すら歪めてしまいます。わたくしの不死しなずの呪いも、その結果のひとつです」


 マグダレーナが見せた首筋の咬み痕のような刻印は、エスタルーレにもあると言う。


「前置きが長くなりましたが──」


 マグダレーナは周囲の魔女たちがせっせと白墨で魔法陣を刻みつけている、その石室の中央で、ルゥとふたりで立っていた。


「エスタルーレが受け継いだ魔女の秘術は、いわば魔女の忌むべき歴史そのものです。それはただひとりの人間のたましいを〈忘れの河〉から取り戻そうとして、をした報いでもあります。その当事者は十三人、わたくしもそのひとりでした」

「…………」

「あの当時呪いを受けたもので、いまを生き延びているのはわたくしひとりだけでしょう。それ以外のものは、みな、不死しなずの呪いを他所に移すことに生涯を掛け、うまくいって天寿を全うしたものもいれば、死よりも恐ろしい彼方に葬られたものもいる。エスタルーレのそれは、代々人から人へ移すことで、呪いを消すことはできずとも、その苦痛を和らげてきたものでした。強い力であると同時に、たましいを歪めるほどの呪いでもあります」


 ルゥは初めて母が背負っていた使命の大きさを知って、背筋が凍った。


「あなたはその呪いを受け継ぐのです」

「代わりに、お母さんは死ぬ」

「はい」

「…………」

「しかしそれは、あなたのせいではありませんよ。もとから、エスタは死ぬ運命にあったのです。それを逆らって……苦痛を得ることを受け入れた」

「…………」


 意図せず流れた涙が、ルゥの頬を伝った。


「大丈夫ですよ。エスタのたましいは報われます。その苦しみは、痛みは、悲しみは、〈忘れの河〉の清浄な水によって洗い清められ、つぎのいのちに進みます」

「でも、もう二度と会えなくなるんですね」

「そうですね。おそらくあなたが生きているあいだは──」

「マグダレーナ、あなたは」

「……?」

「あなたはなぜ、その呪いをだれかに譲り渡そうとしなかったのですか」


 マグダレーナは目を見開いて、それから初めてヒトの顔を見たように微笑んだ。そっと膝を折って、ルゥと同じ目線に立つ。


「これはわたくしが犯した過ちです。だからわたくしがその最後を見届ける必要があります。その最後というのがいつになるのかはわかりませんがね」


 涙流れるその頬に、そっと差し出された手は、とても冷たかった。


「さあ、始めましょう。夜の底が天上の青を黒く染め抜くまで──」


 合図とともに、魔女たちの大掛かりな儀式が始まった。

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聖剣と魔女のミュトロジア 八雲 辰毘古 @tatsu_yakumo

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