1ー15.追憶するほこら
追跡は、翌朝から一昼夜続いた。
足跡を見つけ、崖に手を掛ける道筋を見つけ、彼らの前にいるはずの部隊の居場所を捉える。この地道だが忍耐力の要る手続きを、ガーランドとリナはひたすら耐えていた。
だんだんとわかってきたのは、ガーランドの予測通り、騎竜は陸生で、空を飛ばない種だということだった。もし滑空でもできるようであれば、足跡をたどることは難しいはずだった。しかしいまのところ、それはない。
「ただ、温血竜だろうな」とガーランドは推測する。
「温血?」とリナ。
「
「血が温かい、竜……」
「むしろ極寒の地で戦争用に調教できるんだから、当然だと思ったほうがいい。ちなみに古代種の竜も温血だった。冬の世界も物ともしないうえ、火を吹き、空を飛んだ」
「まじめに聞くと、ゾッとするな」
「まあそこまでじゃないことは、不幸中の幸いだったろうね」
こうして分析しながら進んでいくものの、次第に彼らは敵との距離が近くなっているのに気がついた。
そこは俗に〝
ここはかつて叙事詩圏が〈女神の平和〉を
ただ、完全に追いつくと分かるまでにはさらにもう少し時間が掛かった。
「ここからは声を低くして」
そう注意してたどった道筋は、川を挟んだ向こう側に続いていた。
こぶし大の石が散らかる川辺ではあったが、足場は安定せず、苦労して進んだあとがなんとなく伺える。伏せて観察すると、川底に付いた泥の足跡がまだ残っている。流れのそこそこ強い秋深い川である。残っていること自体、まだ新しい証拠だった。
火は使ってないようだった。隠密行動であることを考慮すると、理にかなっている。ただ、それをまかなうだけの糧食と機動力があるということなのだろうか。
けもの道と足跡のみが頼りとなる道中、リナはふと、道が分岐しているのを視認した。
ガーランドにそれを言うと、かれは渋い顔をした。
「弱ったな。どちらだろう」
そこから先を言いかけたそのとき、リナは耳ざとく人の声をとらえた。ガーランドも一瞬遅れて気がつき、ふたりして茂みの陰に隠れたのだった。
やってきた男たちの声は、聞きなれない言葉で何かを話していた。しかしガーランドは耳をそばだてているうちに険しい面持ちへとなっていった。
「シルベールの言葉だ」
「なんて言ってるの」
「かんたんにまとめると、『
「捕虜?」
「わからん。〝騎士の女〟とか、なんとか言ってるが」
「助けたほうが良いんじゃないですか」
「……いや、やめたほうがいい」
「なんで」
「隠れているほうが都合がいいからだ」
リナが何か言いたそうな顔をしたが、諦めたようにうつむいた。
ガーランドはそんなリナを見て、申し訳なさそうに顔をしかめた。
草の根を掻き分けて去る足音を聞きながら、ガーランドとリナは、シルベール軍が居座っている位置をだいたい把握した。あとはここで調べ上げた情報を、フェール辺境伯に伝えるだけだ。ただし、それが何よりも大変なのだった。
ガーランドはリナにあまり動かないように指示して、自分の任務を全うするべく動き出した。うっそうたる
それでも枝葉をかき分け、少し高いところを探し、かろうじて、
大きな岩のような陸生四足竜の背中が、五体ほど丸くなっている。こぶのようなものが目立っており、そこに座って御すのだろう。鞍のようなものが据え置かれていて、いまは全員が降りている。
もう少し高い位置から、千里眼のような目で物事をとらえることができるのならば、ガーランドはさらに竜がやすんでいるのを見つけられたかもしれない。
かれが見たのは、シルベールの軍勢の後方の警戒部隊だったのだ。
その頃いっぽう、シルベール潜入部隊の
この先頭に立って指揮をしていたのは、シルベール軍騎竜兵第三軍団長のコルテア・ネペンテスだった。
かれは茶色い長髪の毛先と、日焼けした肌にうっすら生やしたひげをところどころいじりながら、現在進行形で展開している軍略の完成を確信していた。かれの上役が立案したこの侵攻作戦は、本国でも賛否両論だったが実現すればこっちのものだった。
そもそもシルベールという国は、ひとつの限界に達していた。
暗黒時代に戦乱の絶えなかった極北の大地──それは〈聖なる乙女〉が君臨し、叙事詩圏が完成したあとも長い間混沌に満ちていた地域でもある。そこを、ついに武力で統一を果たしたのがシルベールという大国の起源である。〝皇帝〟の名の下、人びとは武神の教えを信じて生活を立て直し、自分たちの生きている世界を興した。
女神の教えによって連帯した叙事詩圏と比べると、シルベールは常に闘争の歴史にその身を置いていた。というのも、古代魔法文明の負の遺産がつねに
原罪の怪物。と、それは呼ばれる。
叙事詩圏では魔法生物──通称〝魔物〟とのみ呼ばれるその存在は、ことに極北の大地では縦横無尽に活動していた。荒野を自在に歩き回り、ひとびとを見るや好んでおそい、悲惨な涙と苦渋の汁をすすらせた。かつては暗黒時代、どこにでもいたと言われる人外の災厄だったらしい。しかし現今、叙事詩圏ではその数は激減し、シルベールではなおも死活問題だった。
この地で生き残るため、ひとびとは強い指導者と武力を望んだ。都市は常に城壁に囲まれ、市民であるためには常にだれかが怪物と戦うことを必要としたのだ。君主がそう命令したのではない。たんに生存の必要から、そうしたのだった。
シルベール国民は、そんななか魔法というものを一つの手段と割り切っていた。
怪物の存在は、伝承によれば古代魔法文明が生み出したものだったが、同時に、だからこそ古代に犯した誤ちを同じ手段によって克服しなければならないと信じた。シルベールではシルベール独自の魔法技術が発達した。それは怪物を斥ける武力であると同時に、ひとびとに暖を取らせ、食べ物を生み出すための必須知識にもなっていた。
ところが、その力が近年徐々に弱くなってきていた。
どんなに雨乞いをしても大地が乾燥によってひび割れ、魔術の知識で配合した肥料をどんなに撒いても種が育たない。
かつて魔術によってある程度融通が効いた天候も不安定になり、極端な雨雪となって田園を台無しにした。家畜たちも飢えるか、怪物に食い荒らされて人の口を減らした。挙げ句の果てに病疫が絶え間なくひとを死に追いやった。彼らのあがめる武神は、病死・老死をもっともむなしい死として見る。シルベールの民の悲しみは否応なく増していった。
このシルベールの不安に対して、叙事詩圏はますます繁栄の一途をたどっていた。
春夏のみ、危険な
ひとつは、叙事詩圏と友好関係を結んで恵みを分けてもらおうとする穏健派。
そして、いまひとつは叙事詩圏を敵と見做して、豊穣の地を奪取せんとする過激派。
ざんねんながら、シルベールでは後者のほうが勢力を増しつつある。
コルテア・ネペンテスは、もとはある城壁都市の市民として生まれ、数々の怪物を殺した熟練者だった。騎竜兵として立てた
いま見上げている緑の大地は、叙事詩圏ではひと気を阻む難くせのある場所だったが、故国シルベールではまたと見ない豊かな地の象徴でもあった。なぜたかが雲海山脈ひとつ超えただけでこうも大地の実りが違うのか、考えるだけで怒りが湧いた。
なんとしてでも、この緑の地、凍らない港を祖国に与えなければ──
そのような想いで今日この日まで、険しい雲海山脈の道中を、メリッサ村からここまで進んできたのだった。
かれは遠き祖国で待っている妹や家族のことを想い、雲海山脈の彼方で〝はての壁〟ににらみを聞かせている同胞のことを想った。あと少しだ。あの
ふと、かれ自身悪寒のようなものが背筋を伝った。
振り向く。そこに紫水晶のひとみをした、禿頭の女が立っていた。大柄で、男も顔負けの
「イシュメルか」
「いかにも」
「魔女が、何の用だ?」
「捕虜の尋問が終わった」
「それで?」
「まだ
「ならいい。お喋りな奴がこれ以上出て来られてもいやだからな」
コルテアは険しい顔で言った。その目はいまなおイシュメルの存在を否定するように鋭く魔女をまなざす。しかし無意味だった。宰相どのの訓示にも〝才あるものは男女構わずこれを採るべし〟とある。
ただ、コルテアは武神の教えに誓って言えた。この女、信用ならない何かがある。
イシュメルはその内心を透かし見たかのように、どうもうな笑みを浮かべた。
「ひとつ忠告しておこう。たしかに捕虜は知らなかった。が、わかってないとは限らない。切れ者の辺境伯のことだ。そろそろ奴が何者だったか、うすうす気が付いてるだろうよ」
「まあ、その頃にはおれたちの竜の餌食になってるだろうから、気にしなさんな」
「はたしてどうかな」
「どういう意味だ」
「謀略というのは、最後の最後まで詰めを怠ってはならないもの。勝ちを確信したとたんに足元をすくわれるというのも、よくある話だよ」
コルテアは心の隙間に悪意が差し込むのを感じた。
「けっ、気に入らねえな」
「好きに言いたまえ。わたしの用は済んだから、あとは任せる」
イシュメルはそう言って立ち去った。コルテアはその背中を憎々しげににらんだ。
「魔女め」罵りは口のなかに消えた。
立ち去り際、イシュメルは不入の森に漂う気配の絶妙な変化に気づいて足を止めた。
ヒヨリミスズメやドングリチョウがさえずるなかを、目を細める。視線はゆっくりとオドロハリマツの暗い木陰をかいくぐり、かすかな違和感の正体をとらえようとする。
イシュメルの瞳に、ぶきみな五芒星の刻印が浮かび上がった。
それはほんのわずかな時間だった。瞬きをする間に刻印は消えた。魔女は、笑いを噛み殺した。
「まさか
言ったとたん、森が騒いだ。
文字通り、樹々が絶叫のこだまを響かせ合ったのである。
突風さながら前触れなくオドロハリマツがザワッと揺れたかと思うと、ヒヨリミスズメやドングリチョウ、イガドリといった森の小鳥たちが一斉に黒い豪雨のように飛び立つ。しかも、しとどに打つ土砂降りを、天地を逆さにひっくり返したような有様だ。下から上へと向かい風になって吹き上げる鳥の群れのなかに、イシュメルは、一種の幻術の力を見てとった。黒魔術の一種──それでいて、こうした集団戦においては使い勝手が良い。
イシュメルは即座にこれを把握したが、他のシルベールの兵士たちはそうもいかない。
阿鼻叫喚のパニックが、兵士たちをおそった。さまざまな叫びと臆断が飛び交い、彼らは得物を取り、騎竜を叩き起こした。コルテアも焦ったが、イシュメルが「狼狽えるな、幻術だ!」と叫んだことで、多少は冷静になった。
だが事態を収拾させるために、ひとときならず時間を使う羽目におちいった。
この間ガーランドは黒いさざなみのようなものが森の奥から押し寄せてくるのを感じ取って、すばやくリナのもとへ駆け寄った。
「なにかがおかしい。すこし距離を取る」
「えっ、わっ」
リナには何がなんだかわからぬままだ。しかしそれはガーランドにも同様だった。
必死に距離を取って来た道を戻る。そのはてに、またしても砂利が散りばめられた川辺にたどりついた。
そこで、ふたりはあるものを見た。
「ユリア婆ちゃん」
リナが言った。そうだった。ガーランドはとっさに川に浮かんだぼろ布のかたまりのようになっていた老婆を抱え起こし、川から引きずりあげた。
そして顔をまともに見、渋面をつくった。
「リナは見ないほうがいい」
ガーランドは衣服を破いてユリアの満身
リナはこの段になってようやくユリア婆と向き合った。そして何もすることのできない手を呪って、ひとりにぎりしめる。
「どうして」
ユリア婆は何かを話そうとした。ガーランドが耳を近寄せ、二、三うなずいてから、それをリナにも手招きした。
リナは近づく。そしてギリギリ、老婆の声が聞こえるところまで寄った。
「リナ、おまえさんにも……話してやらないといけないことがある」
ぜえぜえと、途切れがちの声に混じって、ユリア婆は必死に言葉をつないだ。
「ルゥのことだあよ」
「……ッ!」
「ルゥは、生きてる。わたしが、逃したよ」
リナはすがるように、「ありがとう」と言った。
「どこに……いるかは、知らないけどね」
「それでも、いいよ」
死んでるとわかってるよりは、ましだ。
「まだ、話し足りない……でも、時間もない。若造、ひとつ……頼まれてくれんか」
「なんなりと」
「いまから……ひとつ魔術をする。見逃して……もらえないかねえ」
「……ッ?!」
今度はガーランドが驚く番だった。
リナはけげんな顔で青年を見上げた。それを盗み見て、ユリア婆は人の悪い笑みを浮かべる。ガーランドは背中を冷や汗が流れるのを感じながら、言った。
「さあ。なんのことだかわかりかねますね」
「そうかい。じゃ、わたしゃ好きにやるよ」
ユリア婆はそう言って、指先大の玻璃玉をふたつ分、懐中から取り出すと、ふたりの口に差し出した。「呑み込みな」と言う。彼らは互いに顔を見合わせたが、うながされて仕方なく呑み込んだ。とたんに目の裏で光がほとばしったかのように、次から次へとものごとが想起する──
ユリア婆は魔女だった。
だった、というのは、魔女結社と特に深い関わりを持ってはいなかったからだ。
彼女はただ村人が野山を拓いた頃の《記憶》を語り継ぎ、そこで生まれ、そこで生きてきた。草花の名前を知り、必要に応じて生薬を処方しては、村人たちにこっそり役立ってきた。それだけだった。
そんな彼女でも《記憶》に携わるものとして、黒魔術もまた近しいものだった。
ガーランドのように大学都市で白魔術を習ってきた人間は黒魔術を〝再現性のないあやふやな術〟と見ていたが、これは魔女にとっては正しくない。むしろ逆だった。黒魔術は、人間にとってどうしようもないはずのものを〝どうにかする〟ために編み出されたひとつの技術なのだった。
例えば、畑に雨を降らすこと。そして船出に追い風が起こること。探しものを見つけることや、鳥や獣に意思を伝えること、あるいは、ひょっとして、時も場所もへだてた人物と言葉を交わすことも──
ユリア婆は最後の力を使って、自身の持つ過去の数々を
いまふたりが追体験しているのは、その黒魔術のひとつの成果だった。
シルベール軍の降下にともない、五十人にも満たない狭い村の住民は捕まるか、殺されるかしてしまった。ユリア婆も例外なく捕まり、足手まといになることを見込まれて殺害の対象だったらしい。
しかしその直前に姪のダニエラが殺されたのが、ユリアの怒りを促した。ダニエラはシルベールの軍を前に、例の物見高い気持ちが先走っていろんなことを喋った。そのなかのどれかはわからないが、隊長の逆鱗に触れたらしい。コルテアと名乗ったその人物は、有無を言わさずダニエラを斬り殺した。
ユリア婆はあとからこの事実を知った。彼女が見たのは姪の亡き骸だけだった。
このことを知ってユリア婆は激しく抵抗した。それまで使ってこなかった人を呪う術もひと目はばからず濫用したが、ひとりの魔女によってむなしく終わった。
その魔女の名前はイシュメル。
大柄で禿頭といった特徴的なすがたかたちだったが、その声体格からして女性だった。魔女はユリア婆の黒魔術を即座に看破し、無力化すると、ついでと言わんばかりに捕らえたばかりの女騎士を地面に放り投げた。
クリスタル・ハミルトンと言うその女と、ユリア婆はともに〝油断ならない人物〟として猿ぐつわをかまされ、しばらく捕虜として連れて行かれることとなった。
その後、ふたりは竜に引っ提げられたモノのように扱われ、風にさらされた。
道中さまざまなことがあった。シルベールの兵士から乱暴に遭いそうなときもあった。しかし捕虜の管理はイシュメルの管轄で、シルベール兵士も彼女の前では目立った行動をすることがなかった。
イシュメルは絶えずふたりに尋ねた。
「お前たちはどこまで知ってる?」と。
最初、ユリアはどういうことかわからずに答えあぐねていた。クリスタルも同様だったのか、答えない。しかし質問が変わったとたんにクリスタルの反応が変わった。
「フェール辺境伯は、
この質問をまえに、クリスタルはすなおに話すほど愚直ではなかった。
だが思いがけぬ問いかけに飛び出た反応は、イシュメルの目論見通りだっただろう。彼女は鼻を鳴らすように
それがこの一日の大きな流れだった。
ユリアはクリスタルが尋問を受けているあいだ必死に〝
彼女はそれをなんとか探り当て、鳥の言葉を用いて脱出のスキをつくった。だがその術は大きな代償をユリアに支払わせた。
寿命である。
残りわずかないのちが、いまこうして風前の灯のように最後のひと握りとなっている。
「わかったかい」
ユリア婆のひと言で、リナは我に返った。
ふと見るとガーランドはうなずいた。
「お辛かったでしょう。せめて最期はやすらかにお眠りください」
「はン、若造め……」
だがリナにはまだ玻璃玉の追憶が終わっていない。まるでそれはまだ語り足りないユリア婆の心の声が、直接語り掛けてくるような錯覚すら伴っていた。
(おまえの父は……もとはこの叙事詩圏の騎士じゃ……そして……)
そこから直接心に注ぎ込まれた言葉は、リナにとって思わぬものだった。
「えっ?」
リナは目を
(どういうことだ? 父さんが、父さんが──)
訊けるものならユリア婆の口からきちんと話してもらいたかった。
しかし肝心の本人はすでにやること成し遂げたと言わんばかりに、安らかな面持ちで事切れていたのだった。
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