第四章 新しい家へ
柳原は、不思議な気持ちだった。なんで、自分のような地方の名もない音楽家が、急に作曲のレッスンをしなければならなくなったのだろうか。それに、右城水穂さんのような、高名な音楽家が、なぜ自分を推奨して来たのだろう?よくわからないまま、ブッチャーに電話で教わった住所へ車を走らせたのだった。
もしかしたら、これはチャンスかもしれない。自分の名を、右城さんから推奨されたという肩書を得ることができるのなら。それはきっと、自分はすごいことを、したことになって。そんなことを思いながら、車をはしらせる。そのまま、その生徒が、音大志望のすごい生徒で、天才的な演奏技術があるのだろうと思いついた。右城さんが推奨してくれたのならきっとそうだ。そんなことを考えていた。
車の、ナビゲーションは、柳原を日本旅館のような建物の前で止めた。はあ、こんなところに、入るのかあ、と、柳原は思ったが、とりあえず行ってみようということで、製鉄所の玄関前に行く。それでは、インターフォンはどこかなあと思ったら、どこにもついていなかった。はあ、どういうことかなあと思っていたら、
「お前さんが柳原さん?」
と、いきなり引き戸がガラッと開いて、杉ちゃんが顔を出したのであった。
「はい、そうですが?」
と答えると、
「じゃあ、すぐ来てくれ、お前さんの担当の、生徒さんはこっちだよ。」
と、言われた。
「取り敢えず上がればいいんですか?」
ときくと、
「そんなこと言わなくていいからさあ、取り敢えず、生徒さんに会ってやってくれよ。」
と、杉ちゃんに言われて、お邪魔します、と、柳原は、製鉄所の中にはいった。なんだか、異世界へ行ったような空間。製鉄所の建物内には、一切段差はないし、出迎えた杉ちゃんだって、歩けないのに着物を着ているし、なんだか昭和のはじめにタイムスリップしたような気がしてしまうのである。杉ちゃんに案内されて、柳原は小さな部屋にはいる。その部屋には、銘仙の着物に袴をはいた水穂さんと、カチコチに緊張している、小澤健一くんがいた。
「えーと、生徒さんになるやつはこいつだ。よろしく頼みます。」
杉ちゃんがそう言って、健一くんを顎で示した。
「小澤健一と申します。よろしくおねがいします。」
と、彼が言うと、隣に正座で座っていた水穂さんが、
「よろしくおねがいします。」
と、頭を下げた。
「じゃあ、頼んだぜ。こいつが、うまく気持ちを吐き出してやれるような、そんなレッスンをしてやってくれ。」
と、杉ちゃんに言われて、柳原は取り敢えず、健一くんに話をしてみることにした。
「えーと、小澤健一くんといったね。これまでに、音楽を習ったりしたことはあるのかなあ?」
取り敢えず聞いてみる。
「いえ、そういうことは全然ありません。何もわからなくて。」
という健一くんに、
「じゃあ、ピアノを弾いてみましょうか。とりあえず、コチラのピアノで、今から僕がやる演奏を、ちょっと真似してみてくれますかね?」
と、彼を試すように柳原はいった。そして、健一くんに、ピアノの前に座ってもらって、自分はその横に立って、きらきら星を弾き始めた。とりあえず、それができるけ見てみたかった。
「それでは、やってみてくれますかね。」
と、柳原が言うと、健一くんは、柳原の見様見真似で、きらきら星を弾いた。何も間違いもなかったし、わからなそうな顔もしていない。淡々ときらきら星を弾いている。
「ウン、なかなかいい演奏だ。真似するだけできらきら星が弾けるのですから、これは大したものですよ。それでは、本格的に、お稽古していきましょう。じゃあ、まず、音階を覚えようね。いいですか、ドレミファソラシド。これを、真似して弾いて見てください。」
柳原は、まずハ長調の音階を弾いた。水穂さんが近くで見ているので、手を抜くことはできなかった。健一くんは、それに合わせて、ドレミファソラシドを弾いた。
「じゃあ、歌いながら音階を弾いてみましょう。いいですか、はい、ドレミファソラシド。」
柳原が、もう一度音階を弾くと、健一くんはそれに続いて、ドレミファソラシドと歌いながら、音階を弾いた。それを聞いた柳原は、彼の演奏技術というよりも、彼の声に魅力を感じた。彼の声は、まだ、変声期を過ぎたばかりの青い声ではあるけれど、とても響きがあって、いい声をしている。
「おお、随分いい声をしていますね。なんだか、ピアノ演奏というよりそっちの方へ行ったほうがいいみたい。ちょっと、この歌を歌ってみてくれませんかね。僕が、伴奏しますから。」
と、柳原は健一くんをピアノの椅子から下ろして、山田耕筰のこの道を弾き始めた。
「じゃあ、僕が一度歌うから、それに続けて歌ってみてくれますか?行きますよ、はい、この道は、いつか来た道。」
柳原が歌うと、健一くんは、
「この道は、いつか来た道。」
と歌った。
「じゃあ、続きをやってみましょうか。ああそうだよ、アカシアの花が咲いてる。歌ってみてください。」
柳原が歌うと、
「ああそうだよ、アカシアの花が咲いてる。」
健一くんも歌った。
「じゃあ、通して歌って見てくれる?この道はいつか来た道。ああそうだよ。アカシアの花が咲いてる。どうぞ。」
「この道はいつか来た道、ああそうだよ、アカシアの花が咲いてる。」
健一くんは、朗々と歌った。これができるということは、たしかに彼には音楽の才能があるということだ。彼を、放置したままでは行けないと、柳原は思ったのであった。
「すごいじゃないですか。右城さん、よくこんなに感動できな歌を歌える子を見つけ出してくれましたね。それでは早速、声楽の先生に連絡をしてみます。こんな才能を潰してしまうのはもったいない。」
「でも、僕は学歴があるわけではないですし。」
と、健一くんは、そういったのであるが、
「いえ、それは気にしないで大丈夫ですよ。演奏家や歌手の中には、自分の身を立てるために、芸能人になった例は、たくさんありますからね。山口百恵だってそうだったわけですから。とにかく、彼には声楽の先生を付けさせます。」
と、柳原は興奮していった。
「大丈夫です。学校は、通信制とか、そういうところに行けばなんとかしてもらえます。むしろ、そういう学校に居てくれたほうが、レッスンの日程も組みやすいし、有利になります。それでは、すぐに声楽の先生に連絡を取ります。それでは、しばらくお待ち下さい。」
もう、自分の名誉とか、そういうことはどうでも良かった。それよりも、柳原は、この少年を、なんとか声楽の先生につかせてやりたいという思いでいっぱいだった。彼には、ぜひ、歌の才能を発揮してもらいたい。そう思っていた。
「ありがとうございます。柳原先生。本当に、彼の歌の才能を見つけてくださってありがとうございました。」
水穂さんが丁寧に座礼した。
「いえいえ、先生のような、高名な方に頭を下げられるなんて、不謹慎にも程があります。先生は、初めからわかっていたんでしょう?彼に歌の才能があって、早く声楽の先生に引き渡すべきだと。それで、僕のところに、申し入れたんだ。先生は、随分、こだわった手法を使うものですな。」
柳原は、興奮してそう言ってしまった。なんだか、水穂さんが自分を試したのではないか、そんな事を考えてしまったのだった。
「いえ、僕は、ご覧の通り、先がありません。だから、僕が直接お願いするのは無理だと思ったんです。」
と言って、水穂さんは、二、三度咳き込んだ。一体何なんでしょうねと柳原は思った。なぜ、先が無いと言うのだろう?
「一体どうされたんですか?確か、数年前に演奏の世界から、こつ然と姿を消されましたよね。あんな簡単に、ゴドフスキーを弾いた先生が、どうして音楽から姿を消されたのか、おかしいなと思っていましたよ。先生であれば、イスラメイだって、簡単でしょう?ゴドフスキーがあれだけ弾けるんであれば。」
と、柳原はまだ興奮が冷めず、そうまくし立てたのであるが、水穂さんは、また咳き込んでしまうのだった。健一くんが、それに気がついて、急いで水穂さんにちり紙を渡した。水穂さんは、口元を拭いた。すると、ちり紙は赤く染まった。
「はあ、なるほど。」
と言っても、柳原には、医療の知識があるわけではなかった。紙より白い顔をした水穂さんを見て、
「きっと、何日か静養すれば、よくなるんじゃないですか。」
としか、言うことができなかった。
「しかし、右城先生が、こんな優秀な生徒を連れてこられたんですから、こっちも責任持ってやらなければだめですね。先生、本当にありがとうございました。」
と、柳原は続けたが、水穂さんは、口元を拭いて、軽く笑うだけであった。
「それでは、先生。また、来ますので、彼をよろしくおねがいします。いやあ、今日はいい日になりました。こんな才能のある生徒を、右城先生という、偉大な音楽家が連れてきてくれたわけですからねえ。」
柳原は、そう言って、帰り支度を始めた。なんだか良い生徒を見つけて舞い上がっている感じだった。まあ、音楽家という以上、そうなってしまうことは、よくあることなのだが。とにかく、そういう優秀な生徒を見つけられたということが一番嬉しかった。自分の名をあげるとか、そういうことはどうでも良くなった。
「じゃあ、次には、声楽の先生を、連れてこられるようにいたします。今日は、本当に、良い生徒を連れてきてくれて、ありがとうございました。」
と言って柳原は、四畳半を出ていった。それまで黙っていた杉ちゃんが、じゃあ玄関先まで送るぜと言ったが、それは無視して行ってしまった。
「水穂さん大丈夫か?もう袴脱いで、横になったほうがいいのでは?」
杉ちゃんにいわれて、水穂さんは、ええとだけ言った。健一くんが、素早く畳んでいた布団を敷いてくれた。水穂さんは、疲れ切ってしまったらしく、袴を脱ぐこともしないで、横になってしまった。
一方その頃。
「先生、いつもありがとうございます。足が少し動くようになりました。」
裕くんは、嬉しそうに天堂先生に言った。
「そうなの?じゃあ、靈氣で少し、痛みが取れたのかな?」
と、天堂先生が言うと、
「はい。僕、足が動くようになって良かったです。」
と裕くんは無邪気に言った。
「一体どのような原理で、痛みをとったんですか?影浦先生も、鎮痛剤を飲ませることしか、医者にはできないと申していました。」
と、ジョチさんが天堂先生に聞くと、
「いいえ、特に大したことはしてないのよ。ただ、ころんだときに、お母さんがしてくれる、痛いの痛いの飛んでいけと同じことをやっただけよ。」
と、天堂先生は答える。どうやら靈氣というものを説明すると、そうなるらしいのであるが、この辺りは、理解し難いものだった。
「はあそうですか。でも、裕くんは、確実に痛みが取れているようですね。それはきっと、痛みを取ってくれたというより、体を抱いてくれたりして、それで痛みが取れたのでは無いでしょうか。」
ジョチさんは、理論的な事をいえばそうなるのかなと思いながら、そういう事を言った。
「まあ、いずれにしても、裕くんが、戸外を子供らしく走り回ってくれるのも、そう遠くは無いってことですかね?」
「ええ、そうだと思います。私も、彼の立ち直りの早さには驚いています。だからこそ、二人には幸せになってもらいたいんだけど、どうなんでしょうか?彼は、お母さんのところに戻ることになるんですか?そうなったら、また、放置されてしまうのでは?」
ジョチさんの問いかけに、天堂先生は、そう質問で返した。確かに、これは重大な問題であった。それを解決しなければ、裕くんも健一くんも、幸せにはなれない。
「そうですね。僕も、母親のもとへ戻してしまうのは、あまり良いとは思いませんね。親子で一緒に暮らさせるというより、新しく子供を欲しがっている家に行かせたほうがいいと思います。本人たちが、どう望むかもありますけど、客観的に言ったら、もとの家族へ戻さないほうが、痛みも感じなくなると思います。」
「ええ。私もそう思います。元はと言えば、お母さんが、原因を作ったようなものですし。そもそも、二人が保護されたのは、お母さんが二人を捨てたからでしょう?そのような事をするお母さんでは、絶対に幸せにはなれませんよ。」
天堂先生は、ジョチさんに言った。
「理事長さんの権限で、誰か、子供を、つまり里子のような感じで欲しがっているご夫婦などを見つけることはできないですか?」
「ええ。僕も、福祉法人に問い合せたりしているのですが、新しい家はなかなか見つかりませんね。最近は、子供は実の親のもとでという意識が多いですよね。児童相談所も、そうなりつつあります。最も、当事者にしてみれば、それほど役に立たない機関は無いでしょう。」
ジョチさんは、そう現実を言った。
「もしかしたら、その母親が、一番いけなかったのかもしれませんね。」
と、天堂先生は、大きなため息を着く。
「ええ、そうかも知れません。」
ジョチさんは小さなため息を付いた。
「僕は、ちょっと考えがあるんです。母親に早く名乗り出てもらうための。天堂先生も、協力していただけますか?」
天堂先生は、わかりましたといった。
それから、数日後。製鉄所に、岳南朝日新聞の記者がやってきた。製鉄所は、小澤兄弟がやってくる前から、取材をしたがる新聞社は多かったが、今日は岳南朝日新聞社だけ、取材が許可された。
記者たちは、勉強している利用者たちの写真を撮った。利用者たちは、家庭に居場所がないので、この場所にこさせてもらっているとか、ここには、いろんな人がいるがかえって勉強がはかどるとか、そういう事を話した。その中に、小澤健一くんの姿があった。もちろん彼にもインタビューが行われた。健一くんは、自分は今まで学校と言うところにほとんど言ったことはなかったが、ここではそういう事を気にしないで接してもらえるので嬉しいとコメントした。いわゆる無ガッコというものになるらしいが、それでも、製鉄所では、普通の人間として扱ってくれるのだ。天堂先生もインタビューに応じた。製鉄所の利用者たちで、癒やしが必要な利用者には、靈氣や催眠療法を施している。それをすることで、少しでも、利用者たちの気持ちが楽になってくれたらいい、そういう事を話した。それと一緒に、裕くんの事も少し話す。裕くんは、そんな天堂先生をにこやかに見つめていた。記者たちは、彼の笑顔を見て、それをカメラに収めた。最後に、製鉄所を管理しているジョチさんが、みんなが笑顔になってくれるような施設にしたいと言って、取材は終わった。
その記事は一週間後に、岳南朝日新聞に掲載された。一面トップでは無いけれど、こういう居場所のない人のためにこんな施設があるんだという事を、岳南朝日新聞は報じた。その記事に、裕くんと、健一くんの顔もちゃんと映っていた。
その記事が、公開されて数日後のことである。一人の女性が、富士警察署にやってきた。顔つきは、なんとなく、健一くんたちに似た面持ちがあった。でも、なにか幼い雰囲気があって、女性という感じではなさそうだった。女性は、本当に申し訳ない事をした、と警察官に話した。本当は誰かに一緒に来てもらいたかったというが、そういうことは許されないと涙をこぼして泣いていた。女性は、あっという間に警察官に囲まれて、取調室に移送された。警察官たちが、なぜ、健一くんと裕くんを放置したのか、と聞くと、女性はこう答えた。
「はい、二人を育てるのが、面倒くさくなったからです。」
「それだけで、あの二人を放置したりしたんですか?」
と警察官は聞くと、彼女はハイと答えた。
「誰かに、育児のことで、相談したりとか、そういうことはしなかったんですか?」
と警察官が聞くと、
「はい。しませんでした。だって、私みたいな人のことなんて、相手にしてくれないじゃないですか。私は、身分の高い人ではありません。それをするためには、お金がかかります。でも、それがなかったんです。」
と、彼女は答えた。確かに、誰かに相談すればお金というものはかかる。
「それだけでしょうか。それで、健一くんと裕くんを放置してしまったのですか?」
「はい。だってそれ以外、理由が無いじゃないですか。だって、自分が行きていくためには、あの二人が邪魔だったんです。そうしないと、自分が行きていかれないです。」
母親のしごとは、水商売であった。確かに、そういうことは有り得る話ではあるが、警察官は、母親にこう聞いた。
「でも、あなたは、健一くんたちが発見された日、交際相手のところに行っていて、仕事の話はしていませんよね。あなたは、本当は、親になる気がなかったと言ってもいいんじゃないですかね?もうわかっているんですよ。あなたが、そういう態度を撮っていたことは。あなたは、健一くんと裕くんの事をかわいそうだと思っていなかったんですか?」
「はい。思いませんでした。だって私も、そうだったんですから。私は、母に邪魔だ邪魔だと散々いわれました。」
そういう彼女に、警察官たちは、この母親こそ、一番の被害者というか、一番なっていないというか、そういうことを、感じるのであった。彼女は、そういうことしか感じることができなかったのだ。それは、もう仕方ない事かもしれないけど、矯正できない事でもあった。
「ジョチさん、福祉法人から電話です。」
と、ブッチャーにいわれて、ジョチさんは、製鉄所の固定電話の受話器をとった。
「はいはいもしもし。ああそうですか。じゃあ、あの二人と、面会してみましょうか。そうですね。僕達は、彼らのペースに合わせましょう。彼らが自ら、心の傷を癒やしてくれる事ができると信じましょう。」
福祉法人の人は、もうこういう事を何回もやっているので、なれてしまっているようであったが、ジョチさんは、よろしくおねがいしますと言って、電話を切った。
イスカンダル 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます