第三章 新しい教育機関

次の日、ブッチャーが製鉄所に行くと、またピアノの音が聞こえてきた。なんの曲だろうと思っていたら、ショパンのマズルカであった。また水穂さんが弾いていて、あの小澤健一くんが、楽しそうな顔をして、聞いているのであった。

「小澤くん。」

と、ブッチャーは言った。

「あんまり弾かせると水穂さんの体に悪いですよ?もう少し、休ませてあげないと。」

「ごめんなさい。この曲が好きで、聞いていると、気もちも落ち着くので、嬉しくて。」

という、健一くん。水穂さんが弾いたのは、マズルカの14番。なんだか、陰険で、悲しそうな曲だった。そんな曲を水穂さんに弾いてもらって、何が役に立つのかなあとブッチャーは思うのである。

「それじゃあ、もっと楽しい曲を、やってもらってよ。そんな憂鬱そうな曲、弾いてもつまらないでしょう。」

ブッチャーがそういうと、

「いやあ、この曲がすきなんです。」

と、健一くんは言った。もう一度、マズルカを弾き終えると、水穂さんは、少し咳き込んだので、ブッチャーは心配になって、もうやめたほうが良いのではないかといった。でも、健一くんは、まだやってほしい顔をしていたので、

「健一くん、少し水穂さんのことを考えてあげてください。」

と、ブッチャーは言った。

「もし、それでも、だめなら、ピアノを習ってみてはどうですか?大人からピアノを始める人はいっぱいいますよ。中には、年寄りになってから始める方もいらっしゃいます。どうですか?」

ブッチャーは、思わず言ってしまった。

「ああ、それ、いいかもしれませんね。久野久子さんだって、ピアノを習い始めたのは15歳からでしたし、意外にいいかもですよ。」

と、水穂さんが言った。

「もし、演奏するのが難しいなら作曲を習ってはいかがですか?ロベルト・シューマンだって、作曲家になったのは、ピアノを習うのが遅すぎたからでした。フランツ・シューベルトは、自分の作品を弾くのができなかったそうです。」

「でも、水穂さん、曲を、作るというのは、難しすぎるんじゃないですかね?」

とブッチャーがいうと、

「最近は、楽譜が読めなくても作曲をされる方は、いらっしゃいますよね。」

と、水穂さんが言ったので黙った。

「僕は、作曲を習うというか、彼に外へ出るきっかけを掴んでもらいたいんです。心の傷というのは、治るのが本当に難しいことは、わかるから、理解してくれる人を見つけて、新しい世界に行ってほしいなと。そのためには、音楽が好きというのは、大変大きな武器になってくれるかなと。」 

「まあ、ねえ。確かにそうですね。でも、そんなことをしてくれる教育機関なんてあるのかなあ。俺の姉ちゃんもそうなんですが、ほんとに今の社会は、そういう人を受け入れてくれる機関はないですよ。」

ブッチャーは、そう言うが、水穂さんは、

「なかったら探しに行くしかないでしょう。とにかく、あの二人に教育を受けさせなければならないことは明白です。そうしなければ、二人を救うことはできないです。」

と、言うのだった。

「健一くんは、もう高校に入れる年齢になるわけですから、特殊な高校を探して、教育を受けさせた方がよいと思います。僕も少し調べて見ましたが、隔離させてしまうのではなく、静岡市内の通信制などに通わせるのが良いのではないかと。例えば、ここがありますよね。」

水穂さんは、急に立ち上がって、机の引き出しを開けて、一枚のチラシを取り出した。

「昨日の夕刊に、入っていたんです。ここなら、入れるんじゃないかなと。」

「なんだ、ただのカバネスの斡旋所じゃないですか。」

ブッチャーがいうとおり、チラシにかいてあったのは、作曲の教室の勧誘であった。なんだか、インターネットの画面を印刷したものらしいが、本当にやっているのか、疑いたくなる。連絡先が、電話番号だけだったからだ。

「はあなるほどねえ。作曲の講座といっても、果たして、できますかね。逆についていけなくて、また傷ついたりしたらどうなるのかなあ。水穂さん、そこはどう考えてます?」

「ついて行けないといっても、彼はいずれは、人間社会に戻らなくてはなりません。その中には、快い人ばかりではありませんよ。まず始めに、こういう教室に参加して、人間に慣れてもらわなきゃ。とにかく彼には入門してもらいましょう。それをしてもらうことかです。」

チラシの連絡先には、柳原と書いてあった。一体どんな人物なのか全く不詳だが、ブッチャーは、電話してみることにした。電話すると、はい、コモド音楽教室ですという声がした。

「あのう、すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが?」

と、ブッチャーがいうと、相手は中年の男性と言う感じだった。やや、男性にしては、声のキーが高いきがする。

「はい、何でしょうか?」

「はい、今日の新聞に生徒募集のチラシが入っていたので、お電話させていただきました。実は作曲を習いたい人がいますので、おねがいしたいんです。」

取り敢えずブッチャーは、そういうことを言ってみる。

「ありがとうございます。よろしければおなまえを教えてもらえませんか?」

いきなりそう言われたので、ブッチャーはびっくりして、

「いやあ、俺は代理人です。俺はただ、水穂さんに電話かけてくれといわれたからかけただけで。」

と、急いで言った。

「水穂さん?と申されますと、右城水穂さんのことですかね?」

相手の男性はそう言っている。水穂さんの名を出せばなんでも通じてしまうほど、音楽の世界は狭いのか、とブッチャーは思った。

「しかしおかしいですね。右城さんのような高名な方がなぜ、こんな地方の音楽家にお願いに来るんですか?」

「いやあ、それは俺もわかりません。とにかく俺は代理人なんで、直接お会いして、水穂さんに聞いてください。」

ブッチャーは訳の分からないまま、そういった。水穂さんの考えていることが、よくわからなかった。水穂さんは、なにを考えているのだろう? 

「取り敢えず、誰か習いたい人がいるんですね。どんな人物なのか教えてくれませんか?」

と、いわれてブッチャーは、小澤健一くんのフルネームを言った。音楽経験があるわけではないが、音楽が好きなようなのでということも言った。それを伝えておけば、いいかなと思った。

「わかりました。とりあえず、右城さんのご用命であるということから、明日辺りにでも行きますよ。道を調べますので、とりあえずご住所を。」

そういわれてブッチャーは、製鉄所の住所を言った。

「了解しました。よろしくおねがいします。」

ブッチャーは、なんとかアポイントは取れたけど、どうするつもりなのかあと思った。

一方その頃、裕くんの方は、杉ちゃんと一緒に、天堂あさ子先生のサロンにいた。とにかく裕君は両足を痛がるのであるが、本当に痛いのか疑って仕舞いたくなるほど、裕くんの足は異常は見つからない。血液検査しても、足のCTを撮っても異常は無い。逆に異常があると言ってあげたほうが、気持ちが楽になるのではないかと思われるほど、彼は足を痛がるのだった。そういうわけで、影浦先生が、さじを投げても仕方なかった。多分、薬でなんとかという問題では無いのだろう。そうなると、甘えているとか、そういう言葉も出てくるのだろうが、杉ちゃんたちは、決してそういうことはいわないことにしていた。その代わり、誰か優秀な施術者に合わせてあげることが、一番だと思った。

「そういうわけで、痛みを和らげるために、なんとかできないかな。ほんと、薬ではどうにもならなくてさあ。いくらバファリンをあげても、何も効かないんだよ。」

と、杉ちゃんが、そう概要を説明した。天堂先生は、

「そうなのね。まず初めに、痛いということは、恥ずかしい事じゃないわよ。痛い事によって変わろうとしているんだと思ってくださいね。痛みは、悪いことばかりでは無いと思いましょう。」

と、裕くんににこやかに言った。

「じゃあ、まず、裕くんの家族構成は?」

「はい、ママとお兄ちゃんの二人だけです。」

裕くんは小さい声で答えた。

「じゃあ、ママはどこかで働いているのかな?」

「はい。仕事が忙しくて、ずっと家に帰ってこられないんです。この前も、家を出たまま帰ってきませんでした。テーブルに置いてあった、チャーハンもなくなってしまいました。」

裕くんは、また答える。

「そうか。じゃあ、こんな事言うと、ちょっと失礼かもしれないけど、ママはどこに行ったのか、全く心辺りは無いと言うことね。」

天堂先生は、ため息を付いて言った。

「はい。何もわかりません。ただ、仕事が忙しいだけ言って、何もいわないで出ていっちゃうんです。だから、僕なんか居ないほうがいいんだって、何回も思いました。」

と、裕くんは言った。

「そうなんだね。つまり、ママにこっちを向いてほしかったんだ。それで体が痛いと言っていたのかな。」

「わかんない。」

天堂先生は、そこを強調した。多分、先生の言う通りなのだろう。裕くんは、お母さんに自分の方を向いてほしくて、足が痛いと言っていたのだろう。まだ子供であるわけだから、お母さん、僕の方を向いてよ!という表現力がつくわけでもない。そんな文章力があったら、とうの昔にしているはずである。

「それで、ママは、もう帰ってこないと思う?」

「はい、、、でも帰ってきてほしい。」

裕くんは、やっと本音を現してくれたようだ。

「そうだよね。帰ってきてほしいよね。そう思うのは当然なのよ。だって、まだ、大人では無いんだし、そういう事を思って当たり前なのよ。それを思うことに、罪はないし、悪いことでも無いのよ。」

天堂先生は優しそうに言った。

「だからさ、寂しいなとか、お母ちゃんに会いたいとか、そういう事を、もっと言っていいんだってば。それを我慢してるから足が痛いということになるんだよ。でもねえ、はっきり言ってしまえば、お前さんのお母ちゃんは、お前さんたちの事がめんどくさくなったということだと思うんだよね。だから、そうだなあ。お前さんは、もうお母ちゃんのことは切り離してしまうほうがいいよ。」

杉ちゃんが先に結論づけてしまうように言った。天堂先生は、杉ちゃんを止めたが、もうそれ以外真実は無いのだった。

「もうねえ、そういうお母ちゃんのことは、悪人だと思ってさ、実の親以上にお前さんのことをかわいがってくれる人を見つけて、その人に、うんと、うんと、ほんとにうんと、甘えさせてもらってさ、それで、痛みを取ればいいんじゃないのかな。」

「ママとさようならするの?」

裕くんは、そういった。

「そうだよ。」

杉ちゃんは、明るい口調で言った。あえてそういう明るい口調で言ったほうが、二人にも、伝わるのではないかと思った。

「大丈夫だよ。実のママでなくても、お前さんの事を、ちゃんと見てくれるやつは居るんだよ。ちゃんと、お前さんの事を、思ってくれるやつを探してさ。それで、お前さんは、新しいお母ちゃんに期待しろ。」

「じゃあ、痛いのがなんとかなるわけでは無いかもしれないけど、靈氣で少し、体を癒そうか。ちょっと椅子に座って。」

天堂先生は、裕くんを椅子に座らせた。そして、足の痛みを和らげてあげるように、撫でてさすった。こういう事を、靈氣を流すというのであるが、子供には、こんな難しい説明はしないほうがいいと思った。

「それでは、また二三日したら来て。痛みは、少しづつ癒やしていこうね。」

と、天堂先生はにこやかに笑って言った。

「はい、ありがとうございます。」

と、裕くんは、にこやかに言った。なんだか、健一くんより裕くんのほうが、柔軟性はあるのではないかと思った。



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