第二章 影浦の診察

取り敢えず、小澤健一くんと小澤裕くんは、製鉄所に寝泊まりさせてもらうのが決まった。とにかく母親か父親が名乗り出てくれるまでは、製鉄所で預かろうということになったのである。いずれにしても、二人は未成年だし、誰かに保護してもらわなければ、いけない立場なのである。

ジョチさんは、裕くんを連れて、影浦医院に行った。とにかく歩くのもつらそうなほど足を痛がるので、それはなんとかしてもらわないといけないからだ。介護用品専門店に電話して、車椅子をレンタルしてもらい、裕くんをそれにのせて、タクシーで影浦医院に向かった。富士市には、みんなのタクシーと呼ばれている、障害者のための格安タクシーがあるからよかった。もし、それがなかったら、介護タクシーを頼むとなると、何十万もしてしまうことになる。みんなのタクシーで移動すれば、小型車と同じ値段で障害者でも、移動できる。

影浦医院に到着すると、裕くんは、ちょっと怖いと言う顔をしたが、病院の先生なので大丈夫です、と、ジョチさんは裕くんにいって、建物の中にはいった。影浦医院は、心を扱う医者ということもあり、院内はお香の香りが充満していて、力を抜いてもらえるように、待合室は作られていた。椅子は、ふわふわしたソファーになっている。

「小澤裕さん、どうぞ。」

と、影浦が呼んだため、ジョチさんと裕くんは、診察室へ入った。あらましは、ジョチさんが書いた問診票で影浦も大体わかっていたが、そういう邪険な扱い方はしてはいけないものであると、影浦は知っていた。

「足が痛いんですね。いつ頃から痛みますか?」

影浦は、そう聞いてみる。

「ママが家を出ていってから、ずっと痛いです。」

裕くんはまだ青い声で言った。

「そうですか。ママが出ていったのはいつですか?」

と、影浦が聞くと、

「わかりません。」

と、裕くんは答えた。

「ママはどうして出ていったのかな?質問を変えましょう。ママは出ていくときに何かいっていませんでしたか?」

影浦が聞くと、

「仕事に行ってくるからよろしくね、と言ってました。そのあとは、一度も帰って来ませんでした。」

と、裕くんは言う。

「じゃあ、ご飯はどうしていたの?」

「お兄ちゃんが、チャーハン作ってくれてました。」

「お兄ちゃんはいくつかな?」

そう答える裕くんに、影浦は聞いた。

「15歳。」

「そうか。そうなると、中学校に行っていたのかな?」

「僕が足が痛いと言ってからは、ずっと家にいました。」

ジョチさんと影浦は顔を見合わせた。

「じゃあ、お兄ちゃんは、学校の先生から呼び出されたりしなかったの?基本的に、日本人は、教育を受ける義務があるんだよ。だから、学校に行かないんだったら、学校の先生が、呼び出しに来るの。それはなかったのかな?」

影浦がそう聞くと、

「お兄ちゃんは、試験の点数が悪くて、学校へ行きたくないと言っていたよ。」

と、裕くんは答えた。そうか、そうなってしまったのか。確かに、試験の点数が悪いとまともな扱いをしない学校の先生は多い。なんとかならないかなあ、と思うんだけど、人間が先、点数はあと、という言葉を、大体の、教師は忘れている。

「わかりました。それでは、お兄さんのお話も聞かなければならないかもしれませんね。じゃあ、非常に大変かもしれないんですが、足を動かして見てくれますか?」

影浦がそう言うと、裕くんは足を動かした。

それも大変痛そうで、かわいそうな気がした。

「ありがとうございます。足の筋肉はしっかり稼働しているようなので、やっぱり心因性の疼痛ですね。決して勘違いしてはいけませんよ。これはれっきとした病気で、あなたが悪いというわけではないですからね。でも、逆に良かったかもしれませんよ。このまま放置されていたら、カスパー・ハウザーのような野生児になってしまったかもしれませんしね。それを阻止するために痛みがあったかもしれない。」

影浦は、カルテにかきこみながら、そういった。そうですね、と、ジョチさんも、頷きあった。

「取り敢えず、痛みに対しては、痛み止めの薬を出しておきますが、こういう病気に対しましては、正直にいうと、医者は無力なのです。それよりも、ヒプノセラピーとか、そういう人をたよった方がいいとおもいます。医者は、薬を与えることしかできません。それは、一番はじめに申し上げておきます。」

と、影浦は、申し訳なさそうに言った。それは、言っておかないと、困ってしまうことでもあった。

「確かにそうかも知れませんが、影浦先生がそこまでへりくだることは無いと思いますけどね。」

と、ジョチさんが言うと、

「いいえ、医者というのはそういうものです。それくらいしかできません。」

と影浦は言った。

「まずはじめに、裕くんの辛かった気持ちを癒やしてあげることから始めましょう。」

「わかりました。ありがとうございます。どうぞ先生、よろしくおねがいしますね。」

ジョチさんは、静かに言った。

「とりあえず、隣の薬局で、薬を頂いて帰ってください。お大事にどうぞ。」

と、影浦は、二人を診察室の入り口まで送り出して、丁寧に頭を下げた。

同じ頃。

久しぶりに調子が良かったのか、水穂さんが、ピアノの前に座って、ショパンのワルツ七番を弾いていた。嬰ハ短調で、ちょっと重々しい感じのするこのワルツ。ブッチャーにしてみたら、こんな憂鬱なワルツ、弾かないでもらえないかなと思うのであるが、水穂さんは、それが気に入っている様子である。

「水穂さん、そんな憂鬱なワルツじゃなくて、もっと明るくて楽しい曲を弾いてくれませんかね。」

と、庭掃除をしていたブッチャーが、そういうのであるが、水穂さんは、ワルツを弾き続けていた。やれやれ、水穂さんももう少し明るくなってくれればいいのになとブッチャーは思うのであるが、別の人物は、そうではなかったらしい。縁側に座って本を読んでいた小沢健一君は、なんだか、その音楽を興味深そうに聞いていた。そして、演奏が終わると、立って拍手をした。

「ああ、ありがとうございます。」

と、水穂さんは、頭を下げた。

「どうしたんですか?なにか気に入りましたかね?俺としてみたら、こんな憂鬱なワルツ、聞きたくないんだけどね。」

と、ブッチャーは、言うのであるが、

「いえ、憂鬱というか、とても、美しい音楽だと思いました。僕は、ピアノという楽器を全く聞いたことが無いと言ってもいいと思いますが、でも、素敵な演奏だったと思います。」

と、健一くんは言った。

「そうかなあ。俺としてみたら、ショパンなんて、憂鬱すぎて、もうちょっと明るい曲を書いてくれないかなと思うんですけどね。」

ブッチャーが言うと、

「いいえ、それがなんだか、すごくきれいだと思ったんですよ。」

と、健一くんが言うものだから、

「じゃあ、ほかのワルツをやってみますか?」

と、水穂さんは、そう言って、ワルツの二番を弾き始めた。これのほうが、変イ長調で、明るくていいと思われる音楽なので、なんだかホッとしたブッチャーだった。でも同時に、かなりの演奏技術を要するワルツでもあるので、水穂さんの体力が必要でもあった。

「すごい素敵なワルツですね。舞踏会で踊りだしそうなワルツです。イイなあ、こういうものが流行っていた頃って、すごくいい時代だったんでしょうね。少なくとも、試験の点数が悪いことで、追い出されたりすることはまずなかったんじゃないかな。」

と、健一くんは言った。

「まあ、たしかに、学校のあり方も、ショパンが生きていたときとは違うかもしれませんね。」

ブッチャーは急いでそう言うが、健一くんはそれで相当傷ついているようなのか、涙を流しているのである。

「そうですか。それほど、学校でバカにされたんですね。それは大変だったと思います。学校が楽しかったなんて、本当に一部の人しか居ないかもしれない。もしかしたら、一生傷ついたままでいる人もいるかも知れない。本当に、大変だったと思いますよ。それほど、頑張って、よく耐えてきましたね。自分を褒めてやってください。」

水穂さんがそう言うと、

「そんな、そんな事、言ってもいいのでしょうか。僕、成績が悪くて、何回叱られたことか。だから、いつ死んでもいいって、そんなことばかり考えてました。学校の先生はそれしかいわなかったし、親はどこかへ行っちゃうし、生きがいといえば、弟の世話をすることだけでした。」

と、健一くんは涙をこぼしたまま号泣した。そうやって、涙を流すんだから、大変傷ついたのだろう。そういう人が出ると、学校というもののあり方というのが、大変問われる時代になると思う。

「そうなんですね。弟さんの事は、生きがいでもあったんでしょうね。弟さんは、今から、影浦先生と一緒に治療を始めると思います。そうしたら、今度は弟さんのためじゃなくて、自分のために生きてみてください。そうしてもいいと思います。」

と、水穂さんは言ったのであるが、健一くんは、小さな声でハイと言うだけであった。

「大丈夫ですよ。きっと、新しい生きがいもすぐに見つかります。若いんですもの。きっと新しい興味がわきますよ。」

水穂さんがそう言うと、

「健一くんは、本当に学校へ行ってなかったの?」

と、ブッチャーが彼に聞いた。

「ええ、中学校にはいって、勉強についていけなくなって、それと同時に親も出ていってしまうことが多くなって、もう何をしてもいいのかわからなくなってしまいました。だから、学校は、行く気にならなくなってしまいました。」

「そうなんだね。でも、やっぱり学校へ行ったほうがいいと思うよ。学校は、使い方さえ間違えなければ、立派な教育機関なんです。それを利用しないなんてもったいない。それに、君はちゃんと教育を受ける権利もあるんだからさ。ちゃんと学校でなんとかしてもらう事が、大事なんじゃないのかな?」

ブッチャーがそう言うと、水穂さんが、

「そこまで言ったら可哀想ですよ。まずはじめに、心に傷があることを受け止めて挙げなくちゃ。」

と言った。ブッチャーは確かにそれはそうだと思うのだが、なんとか学校へ言ってもらうようにしなければならないと思った。

「それよりも、まずはじめに、彼の弟さんもそうですが、親御さんに捨てられたというのは、本当に辛いことでもあるから、まずそこを癒やしてあげることが必要なのではないでしょうか。」

「水穂さん、そんな事言ってたら、いくら時間があっても足りませんよ。そうじゃなくて、彼が前向きになってくれるようにこっちは仕向けないと。」

ブッチャーがそういうと、

「いえ、時間がいくらあっても足りないのはだれでも同じですよ。生きている人間みんなそうなんじゃないですか。癒やされる事を求めて、でも獲得できないで生きているんだと思います。ただ、強いか弱いかの違いがあるだけのことです。」

と、水穂さんは言った。

「そうですねえ。考えてみれば俺の姉ちゃんもそうだなあ。でも、彼にはね、やっぱりね、学校へ行ってもらわないと。俺は別に、彼のことが邪魔だとか、そういう事を言ってるわけじゃないですよ。そうじゃなくて、彼には、教育というものが必要だから、そう言っているんです。」

ブッチャーが言うと、また泣き声が聞こえてきた。健一くんが、また泣いてしまったのだ。

「大丈夫ですよ。あなたがまだまだ傷ついていることは僕も、ブッチャーさんも知ってますから、強制的に学校へ戻すことはしません。大丈夫です。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「いえ、そういうことじゃありません。こんな同しようもない人間に対して、議論をしてくれるのは、本当にありがたいというか、なんか申し訳ないんです。学校の先生だって、お前なんか学校へ来るなと言っていたし、親だって、もうこの子はだめだと散々言ってましたし。」

と、健一くんは言うのだった。もしかして、弟の裕くんももちろん傷ついているのだろうが、兄である健一くんも裕くん以上に、傷ついているに違いない。

「そういう気持ちがあるんだったら、学校へ行ったらどうですか?学校へ行けば、友達もできるし、新しい人生の第一歩を踏み出すことができるよ。」

ブッチャーはそう言うが、水穂さんに着物の袖を引っ張られて、それ以上言うことができなかった。水穂さんは、にこやかに笑って、子犬のワルツを弾き始めた。それを聞いてまた嬉しそうな顔をする健一くん。ブッチャーは、そういう気持ちをもっと引き出してやれたらいいのにと思った。

「頑張って、生き抜いてくださいね。」

ブッチャーはそれだけ言っておいた。



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