イスカンダル

増田朋美

第一章 竹村さんのクリスタルボウル

暖かい日であった。もうすぐ冬がやってくるというのに、まだ温かくて、ちょっと変だなと思われる日が続いている。杉ちゃんたちは、まあ変な世の中になっても生き抜いていくしかないなと言いながら、のたりのたりと生きているのであった。世の中の人は、なんとかおかしくなるのを、ストップさせたいと思っているようであるが、杉ちゃんたちは、防ぎようがなかった。

その日、杉ちゃんは、竹村さんのクリスタルボウルの演奏を聞くため、バラ公園に言った。最近雨ばかり降って、外で演奏ができなかったが、最近になってやっと晴れてきたので、嬉しいねなんて杉ちゃんたちはよく言っていた。竹村さんが使用したのは、比較的症状の軽い人向けのアルケミークリスタルボウルを使用したが、その独特な音色に、竹村さんの周りには、何人か人が集まってきた。

演奏が終わると、みんな立って拍手をした。竹村さんは、ありがとうございますと言って、深々と頭を下げる。

「お聞きくださり、ありがとうございます。ただいま演奏いたしましたのは、アルケミークリスタルボウルというものでして、最も軽微な作用で、感情を安定させる音を出します。イライラが止まらない人、うつが続いている方は、このクリスタルボウルの音を聞いてみると良いかもしれません。ちなみに、クリスタルボウルは、楽譜があるわけではありませんので、演奏者の即興で叩くということになります。それでは、次の曲に参りましょう。」

竹村さんは、そう言ってマレットを取った。何人かは竹村さんに投げ銭をして、帰っていく人も居るし、引き続き聞いていく人も居る。

「あの、すみません!ちょっとお願いがあるんですが。」

一人の男性が、竹村さんに声をかけた。

「先生は、ここでこうして演奏されているんですか?」

「ええ、時々こうしてやっていますけど?」

と、竹村さんが答えると、

「はい、実はお願いがあるんです。日時を指定してここへ来てくれませんか。僕も、弟を連れてここへ来ますから。そのときに、クリスタルボウルを演奏してほしいんです。」

と、彼は言うのだった。

「ああそうですか。そういうことであれば、お宅の場所を教えてくれれば、お伺いしますけど?」

と、竹村さんが言うと、

「いいんですか。わざわざ、先生に来てもらうのは申し訳の無い気もするのですが?」

「いえ、大丈夫です。クリスタルボウル7つを置くところがあれば、どこでも演奏できます。」

「ですが、事情がありまして、弟は、自分で動けないのですが。」

と、彼は言った。

「自分で動けない?僕みたいに、車椅子に乗っければ、大丈夫だと思うけど?」

と、杉ちゃんが言うと、

「それが、体に触れるだけでも激痛が走るというのです。兄である僕も、どうしてあれほど痛いのか、見当が着きません。」

と、彼は答えた。

「それはもしかしたら、線維なんとか症という病気なんでしょうか?」

と、杉ちゃんが言った。

「はい、正しくそうなんですよ。よくわかりましたね。もう患って、二年以上経つんですが、未だに痛みが取れなくて困っているんです。薬を飲んでも痛みは取れないし、もうどうしたらいいのかわかりません。それで、クリスタルボウルでなんとかならないか、お願いしたいと思いまして。」

そういう彼に竹村さんは、

「痛み自体を何とかするのは、難しいかもしれませんが、感情が安定することはできると思います。お宅の住所はどこですか?」

と聞いて、手帳を取り出した。

「うちは、今泉なんですけどね。今泉小学校の近くです。」

「わかりました。今泉小学校の正門前で待ち合わせましょう。お名前は何ですか?」

と、竹村さんが聞くと、

「はい、小沢と申します。小沢健一。弟は小沢裕です。」

と、彼は答えた。

「わかりました。日付はどういたしましょうか?」

竹村さんがもう一度聞くと、

「はい、じゃあ、今度の土曜の、二時くらいでどうでしょうか?」

と、健一さんは答えた。

「了解ですよ。じゃあその時間に、今泉小学校の正門前でお待ちしています。」

竹村さんは、手帳に小沢健一さんと書き込んだ。

「とりあえず、ウルトラライトボウルか、アルケミークリスタルボウルを持っていくと思いますが、症状の強さにより、変えるかもしれません。それは、ご了承願います。」

「わかりました。」

とりあえず彼はそう言ってくれた。そこは理解してくれたのかと思った。

そして、当日の土曜日。

竹村さんは、ウルトラライトボウルを持って、今泉小学校の正門前に行った。何故か杉ちゃんが一緒に同行していた。今泉小学校の正門前で二人が到着すると、健一さんは、もう待っていた。

「ああ、来てくれたんですね。よろしくおねがいします。」

健一さんは、竹村さんに向かって頭を下げた。

「弟をよろしくおねがいします。家は、こちらです。」

そう言って、健一さんは、二人を自宅である、小さなマンションへ案内した。小学校から歩いて、五分程度のところにこのマンションはあった。

「弟は、この道を歩くのもやっとなんです。10分歩くのがやっとというくらいの痛みだそうで。」

と、健一さんは言うのだった。

「確かに痛いと辛いもんな。」

と、杉ちゃんがつぶやく。

「じゃあ、お入りください。弟はこちらの部屋に居ます。」

健一さんは、マンションのドアをガチャりと開けた。なんだかきれいに整理されているが、それは同時に、家の中にある問題を隠すために、そうしているのではないかということも、同時に示しているような気がした。

「こちらです。」

と、健一さんに連れられて、二人はある部屋へ通される。そこには介護用のベッドが置かれていて、そこでのりではったように、弟の裕くんが寝ているのだった。健一さんの話によると、足の爪を切ることもできないのだそうだ。ちなみに手の爪は、しっかりきれていた。

「了解いたしました。それでは演奏を、30分間行いますので、皆さん楽な姿勢でいてください。体が辛い方は、寝たままでも構いません。それでは始めます。」

竹村さんは、裕くんの前に、クリスタルボウルを7つならべ、マレットを取って、その縁を叩き始めた。ゴーン、ガーン、ギーン、不思議な音色が部屋中に響き渡る。なぜそうなっているのかわからないけど、クリスタルボウルの音は、聞くと眠くなってくる。杉ちゃんも健一さんもそうなってしまったようであるが、裕くんだけは、痛みでつらそうだった。

「それでは演奏は終了です。」

竹村さんはそう言ってマレットを取った。健一さんは、犬のように大きな胴震いをした。

「ありがとうございます。裕も、少しは楽になってくれたのではないかと思います。」

「ええ、ちょっと、提案があるのですが。」

と、竹村さんが、小沢健一さんに言った。

「もし、よろしければ、クラシックフロステッドのセッションを受けてみませんか。今回は、ウルトラライトボウルを使用しましたが、それでは、音に威力がありません。そうではなくて、もっと、クライエントさんに直接作用する、クラシックフロステッドを使用したほうが、よりよいと思うんです。」

「で、でも、それは、お金がかかるのでは、、、?」

健一さんが申し訳無さそうに言った。

「いえ、大丈夫です。クリスタルボウルの種類を変えても、金額は今までと変わりません。裕さんは、おそらくひどく傷ついているでしょうから、まずそこを癒やす必要があると思うんですね。そのためには、古典的なクラシックフロステッドボウルを使用したほうが、いいと思います。ただ、クラシックフロステッドは、とても重いんですよ。だから、持ち運びが非常に大変なんです。台車に乗せれば持てますが、ここでは台車を運び込めない。どうでしょうか、弟さんを連れて、外へ出る練習のつもりで、僕のサロンまで来てみませんか。」

竹村さんは、健一さんに優しい顔をしてそういう事を言った。

「どうでしょう?来てくれたら悪いようにはしませんよ。どうですか、いらしてくれませんか?」

「良い知らせじゃないか。それでは竹村さんと一緒に、やってみたらどうだ?」

と、杉ちゃんも竹村さんを後押しするように言ったが、健一さんは、そうですねとしかいえないようだ。なんで、こんなに、消極的なんだろう。その当たりは、杉ちゃんも竹村さんもわからなかった。

「もし、弟さんの痛みが取れて、また歩けるようになれば、楽しいことがまた起こるかもしれません。どうでしょう。やってみませんか?」

と、竹村さんがいうが、二人は、申し訳無さそうに竹村さんを見た。

「実は僕達、まだ、未成年でして。どうしても、裕が可哀想で、それで今日はお願いしてしまったんです。」

健一さんが、小さな声でそう言った。

「そうなんだね。でも、一生懸命やっているんだったらそれでいいよ。それより、お前さんたちの親御さんはどこに居るの?」

杉ちゃんがそうきくと、

「父は居ないんです。母は、ずっと働いてて、たまにしか帰ってこないんです。」

と、健一さんは答えた。

「はあ、なるほどねえ。つまり放置されっぱなしってことか。」

杉ちゃんは、はあとため息を着く。

「まあ、いずれにしても、親御さんが、放置しっぱなしというのも問題だけど、お前さんたちは、学校は行ってないの?」

「行っても、ろくなことないし。」

確かにそのとおりだった。ある程度、生活が安定していないと、学校と言うところは、つまらないところになってしまう。それは、どんな民族でも同じことらしい。

「ま、まあ確かにそうだよね。それはわかる。でもさ、やっぱリお前さんたちは、教育を受ける権利というものはあるんだからさ、それを、放棄しちゃだめだ。学校でひどい目に会うんだったら、僕達は教育を受けたいと、はっきりいえ。」

杉ちゃんは、二人をそう励ましたが、兄弟は、もう生きていようという感じのしない顔をしていた。

「じゃあ、こうしましょうか。いずれにしても、子供さんであっても、安全に暮らす権利は保証されています。二人には、大渕の製鉄所で生活してもらいましょう。あそこなら、皆、しっかりしていますし、傷ついた人が多いから、なんとかなるんじゃないでしょうか。」

と、竹村さんが言った。

「大丈夫だよ。僕達、悪いようにはしないから。」

杉ちゃんにいわれて、二人は、小さくなった。

「でも、誰かがなんとかしなければ、こういうことは解決できないことでもあるからね。お前さんたちは、きっとそのまま放置されっぱなしで、解決なんかはできないと思うよ。」

杉ちゃんがもう一回いう。

「児童相談所ほど役に立たないものは無いしね。そうだろう。竹村さん。」

竹村さんは、

「それは認めますよ。」

と、しっかりと発言した。

「それなら、すぐに行動に移しましょう。僕は、迎えをよこしますから、お二人は、それに乗って、製鉄所に行ってください。少なくとも、いつも放置している母親より、残酷では無いはずです。」

「そうだねえ。このままだと、母親は、帰ってこなくなって、お前さんたちは干からびてしまうぞ。それを阻止するためにもね、どっかほかのところに行ったほうがいいんだ。」

杉ちゃんと竹村さんはそう言い合って、二人を預かってもらうように、竹村さんが製鉄所へ連絡した。二人は、連絡が着くと、すぐに、二人を製鉄所へ送ってもらうように、介護タクシーを頼むことにした。裕くんの方は、全身の痛みで歩くことができないようなので、運転手さんに手伝ってもらうことにした。数分後に介護タクシーはやってきた。

「じゃあ、この二人を乗っけさせてもらおうぜ。それで、大渕まで運んでやってくれ。」

と、杉ちゃんにいわれて運転手は、まず、健一くんを乗せて、裕くんをストレッチャーに乗せようとしたが、裕くんは、泣くばかりだった。触っても痛いというのは、こういうことだったのか。杉ちゃんたちは大丈夫だといったが、もしかしたら、触られることに恐怖を持っているのかもしれないと、竹村さんは分析した。

「まあ、なかないでくれや。僕らは悪いやつじゃないんだからさ。」

と、杉ちゃんが言うのであるが、裕くんは泣き続けるのだった。それを見た竹村さんは、再びマレットを取って、クリスタルボウルを軽く鳴らした。ゴーン、ガーン、ギーン、この音は優しい音だった。少し落ちついてくれた裕くんを、運転手はそっと持ち上げて、ストレッチャーに乗せてあげた。そしてそれをそっと動かして、介護タクシー車両に乗せて、大渕へ向かって走り始める。

二人の「脱出」に成功して、杉ちゃんは小さい声で呟いた。

「でも、あの二人は、これからどうするんだろうね。」


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