気持ちが和むときだって多いのだ。
愛宕平九郎
気持ちが和むときだって多いのだ。
シーリングを
――今日、これからゲーセン行かない?
クラスメートからの誘いをやんわりと断り、スマホをテーブルに置いて、お湯の入ったカップを自分の近くへ引き寄せた。蓋とフチの隙間から抜ける湯気と独特な出汁の匂い……少し油臭いところがまたクセになる。
蓋を取って熱気を開放し、少し冷めたところでまずは汁を
「おや、今日は赤いのじゃないのかい?」
「ん? うーん。まぁね」
半分くらい食べた頃合いに、お婆ちゃんがリビングへやって来た。寝ているかテレビのある和室で座り続けているのが日課だけど、トイレの時はこのリビングを通らなければならないので僕との遭遇率も高くなる。
僕はお婆ちゃんと二人で暮らしている。とりあえず会話は成り立っているけど、認知症は少しずつ進んでいた。日によっては、昔のことを
トイレを済ませ、再び僕の前を通り過ぎるお婆ちゃん。いつの頃からか、用を足した後に水を流さなくなってしまった。もしかしたら、トイレの記憶も水洗式より前のものを使っていた頃に戻っているのかもしれない。僕は面倒臭さを顔に出し、箸を置いて水を流しに行こうと立ち上がった。
「赤いのもあるけど食べるかい?」
「ううん。最近は緑のたぬきが好きなんだ」
「え? あぁぁ……うーん」
好みのカップ麺が変わったことで絶句しているわけではない。単に僕の言ったことが理解できてない顔だった。キョトンとしたまま、今も「あぁぁ」と何か言いたげな表情で食べかけのカップ麺に目を向けている。このまま沈黙を保ち続けているのも気持ち悪いので、トイレへ向かう前に「さぁ、布団に戻ろうか」とお婆ちゃんを寝室へ誘導した。
トイレの中は思ったほど汚れていなかった。ペーパーを上手く切ることができなかったようで、先端がクシャっとなったまま垂れ下がっている。だらしなく伸びた部分を切り取って、汚れの目立つ部分を掃除してから水へ流し、デオドラントを振りまいて一通り見まわしてからトイレを後にした。
その時の僕は微妙な年頃で、両親に対して「置いてかないでよ!」と泣き喚くような子供になることもできず、逆に「任せろ!」と自信を持ってお婆ちゃんと暮らせていける
そのおかげでと言っても良いのか、現状が辛いとか、悲しいとか寂しいとか、いわゆるマイナス思考に陥って人生を悲観することはなかった。最初の頃は介護のキツさに泣きを入れた時もあったけど、それは不慣れだっただけで月日が経てば「これが日常」と思えるようになった。もともと小さい頃からお婆ちゃんっ子だったし、今も一緒に居て嫌ではない。
むしろ、自由な時間を邪魔されることなく謳歌できて良かったと思っている。好きなものだけを好きなようにして食べることができるし、家の中を自分の思い通りに管理できる楽しさも覚えた。家とお婆ちゃんのことに付きっきりで、同じ年頃の友達と遊ぶ機会は減ったけど、もともと独りが好きな性格だったので苦痛は感じなかった。
蕎麦を食べ終え、後片付けをしようと席を立った時、スマホが僕を呼んだ。鉄也からのメッセージだった。短く「暇か?」という文字だけで、何の続きも無く僕からの返事を待っている。
鉄也は小学校の頃からの友達だった。さらに言えば、本音を語れる数少ない親友でもある。中学までは同じ学校へ通っていたけど、卒業してからは別々の道を歩むようになった。僕は高校生で、彼は大工の見習い。彼の家が代々続く大工の系譜だったこともあり、高校へ進学せず「俺は跡を継いで大工になる」と言って修行の道に入ったのだ。
僕は「夕飯の買い出しに行くから、その間は大丈夫」と返して家を出た。自転車に乗り、立ちこぎで気持ち良く風を切りながら馴染みのスーパーへ走った。自転車置き場へ着いた時は、既に鉄也が原付バイクに座って待ち構えていた。
「よっ!」
「待たせたね。原チャリは早くていいよなぁ」
「お前も免許取れよ。便利だぜ」
「そんな金ねーよ。まだお前みたいに働いてないんだから」
「見習いだし、家族経営だから、こき使われて安月給なんですけど?」
「もらえるだけありがたいと思え」
二人してニヤニヤしながら悪態をつくのも楽しい。クラスや家では味わえないコミュニケーションが、溜まりつつあるストレスを解放してくれる。僕たちは、笑いながらスーパーの中へと進んだ。
ここはイートインのコーナーもあるスーパーで、買ったインスタント食品や隣のベーカリーで売っているものなどを食べることができた。僕と鉄也はいったん散り、それぞれの欲しいものを購入してから、イートインの空いた座席で待ち合わせした。
「夕飯の買い出しって、それだけ? 漬物とかじゃん」
「あぁ、メインのおかずは宅配のサブスクで頼んでるから、こういうもんとか食後のプリンとかしか買わないよ」
「ふーん。俺は腹減っちまったから、コレ買ってきたけど……お前も食うか? ちゃんとお前の好みのやつを買ってきたぜ」
そう言ってゴソゴソと袋から取り出したのは、僕がここへ来る前に食べた緑のたぬきだった。鉄也は「俺はこっちだ」と言いながら、既にシーリングを
「お前も相変わらず好きだなぁ、きつねうどん」
「おうよ! この油揚げがたまらないね。どうする? こっち食うか? 俺は蕎麦でも構わねーよ。油揚げくれればな」
「どんだけだよ! でも、実は家で食ってきたんだよね。二個とも食ってくれて構わないよ。余裕で食えるだろ?」
「まぁ余裕だけど……んじゃ、コレは持って帰んな。すぐに食わないと腐るもんじゃねーし。給料もらってる俺からの奢りだから遠慮すんな」
「いいのか?」
「おぅ! あれ? お湯がねーじゃん! ちょっと店のおばちゃんに言ってくるわ」
粉末スープもかやくも入れ、カップをフリフリさせながら「すんませーん」とベーカリーのレジに立つおばちゃんへ声を掛ける鉄也。ただでさえ
「やれやれ。たらい回しだぜ」
「お疲れさん。これも食えよ。意外と合うぜ」
「何っ!? いいのかよ? 夕飯で出すやつじゃないのか?」
「蕎麦のお返しだよ」
「お前ってやつは……」
鉄也がお湯を入れに行っている間、僕は買った物の中から茄子の漬物を取り出してパックの蓋を開けておいた。蕎麦との相性も良かったから、きつねうどんにだって合うはずだ。
「ところでお前、進路はどうすんだ?」
「それな。調理師の資格が取れる専門学校に行こうと思う」
「大学じゃなくて?」
「あぁ、入れたところで、何したいかイメージが湧かないんだよ。サークルやら合コンやら、楽しいキャンパスライフとか言ってるけど、そういうんじゃなくて何か速攻で稼ぎに繋がるもんが欲しいんだよね。お前みたいに」
「んじゃ、大工やる? 親に言ってもいいぜ」
「いや、すまん。俺にはキツそうだ。それに、お前の
「でも、調理師って、お前に合ってそうだな。今もやってるんだし」
「それほどじゃないよ。まだ、買ったもんを皿に乗せてるだけだから」
きつねうどんの仕上がりを確かめるようにズルズルと
気分転換の一時を終え、僕は家に帰って来た。寝ていたはずのお婆ちゃんは起きていて、和室でテレビを見ていた。僕の姿を見て「お帰り」と言ってきたので、今は頭がスッキリしているのだろう。ちゃんとした会話ができそうな内に、夕飯を済ませようと思う。冷蔵庫からメインの夕食を取り出して温め、皿に盛り付けてお婆ちゃんの前に差し出した。ついでに、さっき買ってきた漬物も忘れない。
「
「僕かい? 僕は……コレだよ」
そう言って取り出したのは、さっき鉄也からもらった緑のたぬき。ちゃんと孫の名前を言ってくれたのが嬉しくなり、シャカシャカと小気味良い音を鳴らしてからシーリングを
一日に二度も同じものを食べるという背徳感は、今の僕にとって幸せの栄養剤でもある。なんやかんやと周りはうるさいが、気持ちが和むときだって多いのだ――。
気持ちが和むときだって多いのだ。 愛宕平九郎 @hannbee_chan
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