26 助けて平ちゃん!
「よい子のみんな、こんばんは。
国語の資料集で見た、裃という服を着た身なりのいい武士のようなおっさんは、呆気にとられている〈きさらぎ駅〉の面々を見ながら笑顔を浮かべる。
「山本って……ええ!? 『稲生物怪録』の!?」
「宮地水位ランキング第七位の!?」
「イノモケだと誰推し? 私は権八」
口々に驚きの声と明後日の方向を向いた妄言を漏らす連中をかき分けて、おそらくは関係者である菊花が前に進み出る。
「なんの用だ」
やはりというか、菊花は山本と顔見知りらしい。というか、今までの情報を鑑みると、この山本五郎左衛門こそが――。
「なに。すぐにすむ話だよ。君に貸し与えた〝魔王の小槌〟を、返してもらいたい」
菊花の魑解――〝魔王の小槌〟。それは『稲生物怪録』という江戸時代の実録妖怪譚の最後に登場する魔王、山本五郎左衛門が主人公の稲生武太夫に渡したとされる木槌を意味する。
私なんかはまったくわからなかったが、ここ〈きさらぎ駅〉を拠点にしている連中――日本怪異妖怪保全会の残党どもにとっては自明のことだったらしい。
つまり魑解の名を口にしている時点で、菊花が何物と接続したかはバレバレだったということになる。
この魔王こそが菊花が接続した原初。諡諱は――『恐怖』。
好き勝手に話している〈きさらぎ駅〉の面々も、いま目の前にいる相手が原初であることは理解している。だからリーダーの百舌は、なんとか情報を引き出そうと山本を足止めしようとする。
「なんのお構いもできないけど、よかったらゆっくりしていってくれないか? 菊花ともきちんと膝を突き合わせて話したほうがいいだろ」
「そうか。ならばお言葉に甘えさせていただこうかな」
こうして〈きさらぎ駅〉に、異常な客人が滞在することとなった。
事務室のソファに座った山本と、向かい合うかたちでオフィスチェアに腰かけた菊花。すぐ後ろには私と百舌、目白の三人が控える。
「あのー、会長、なんで魑解を使えない私まで同席されてんですか……」
「魑解の有無は問題にならないだろ。相手は原初。どんな力を持っていようが人間が太刀打ちできる相手じゃない。それに向こうはドンパチやり合おうという気はない――と思う。話し合いの場に魑解を使える面子だけ揃えるっていうのも剣呑だろ」
「ええー……助けて平ちゃん……」
山本は懐から急須と湯呑みを取り出すと、湯呑みになみなみと湯気の立つお茶を注いだ。今さら四次元ポケットじみた収納術を見せられて仰天するわけではないが、もうひとつ湯呑みを取り出した山本に、菊花が手を突き出して制止した時はさすがに息が止まるかと思った。
「お前の出したものに口をつける気はない」
「なるほど賢明な判断だ。無論毒や呪などは入っていないし、黄泉戸喫の心配も無用だと思うが。ここは最初から異界なのだから」
菊花の分の湯呑みをひとつしまうと、山本は上品な所作で茶を啜った。
「それで。いいのかな? 私たちの会話に他人を同席させて」
「構わない。けど、余計なことを喋ったら殺す」
「菊花ー! できる限り情報を引き出せよー! 穏便になー!」
百舌が背後から小声で無茶な注文をつける。
山本にはどうやら聞こえていたらしく、小さく笑うと湯呑みをテーブルに置いて腕を組む。
「私がなぜわざわざ現れたのか。そこから説明したほうがいいようだね」
興味がないとばかりに視線を逸らす菊花にやきもきしながら、百舌が必死に続きを促すべく何度もうなずく。
「君に〝魔王の小槌〟を貸し与えた時から、少し状況が変わってきた。あの忌々しい宿痾が、我々妖怪を内部から食らい尽くし、現世は完全に妖怪によって汚染された。無論、これは妖怪側としても看過できない。我々の存在そのものが爆弾として利用され、存在崩壊を起こし行き場もなくした妖怪だったものが溢れかえる現世は、一刻も早く除染を行うべきだと、私は〈きさらぎ駅〉の理念を買っていた」
「恐縮です……」
目白が照れたようにつぶやく。
「そこで〈きさらぎ駅〉に拾われた君が私に接続を果たした時、君の力を確かめ、〝魔王の小槌〟を貸し与えた。だが私は知らなかった。いや、山本五郎左衛門という妖怪の名を持つ私には知覚できなかった。〈きさらぎ駅〉に、宿痾そのものが潜んでいたということを」
――千歳。
私は目の端に空疎な笑顔を見た気がして、気づかれないように深呼吸をする。
かつて〈きさらぎ駅〉を開拓し、菊花を助け出し、行方をくらませた女。菊花が今でもずっと、その姿を追い求めている女。
千歳は原初ではなく、山本の言う宿痾――ミームファージに接続し、現世からも異界からも姿を消している。
いま千歳を知覚できるのは、私だけだ。
千歳はすでに異世界そのものと化している。そして同じく、いつか異世界そのものと化すであろう私の中に萌芽した異世界の中に潜んでいる。
山本は千歳を知覚できないと言っていた。原初とミームファージは似て非なる概念だ。原初が概念そのものが意思を持ったものなら、ミームファージは概念という情報の流れに寄生するかたちで意思を宿し、やがてその概念を崩壊に導く。
ならば今、菊花の後ろに控えている私の中に千歳がいることも知覚できていないのだろうか。
だがそこで、山本の目が鋭く私を捉えた。
知っている――私が千歳を、宿痾をその身に宿していることを。
「もしも君がその宿痾と向き合い、打ち倒すというのなら、私はいくらでも力を貸そう。だが君はそれをしない。そうだね?」
山本は千歳とミームファージ、そして私の関係について、口に出すことはしなかった。
最初に菊花が決めた約束事を律儀に守ってくれているのか。
さすがの菊花も山本の義理堅さに気づいたのか、申し訳なさそうに小さくうなずく。
「ならば君に〝魔王の小槌〟を預けておくことはできない。これが私が君の前に現れた理由と、その用件だ」
湯呑みを口に運び、唇を湿らせた山本は、うなだれる菊花を見下ろしながら続きを話し始める。
「さっきも言ったように、私は〈きさらぎ駅〉の理念を買っている。たとえその中に宿痾が入り込んでいたとしてもだ。なのでここからは、私がこの異界に現れた理由、ということになる」
百舌が目に見えて身構える。内容しだいでは〈きさらぎ駅〉壊滅の危機なのだから当然ではあった。
「君たちはこの間、〈椿の海〉との抗争を経験しているね」
数多の魔王が巣くう異界、〈椿の海〉。菊花が迷惑をかけた結果、〈きさらぎ駅〉は〈椿の海〉との対決を余儀なくされた。
「〈椿の海〉の理念は一見単純だ。現世を今よりもおぞましい魔国へと変貌させる。だが、少し気にはならないか。現世は今や汚染され尽くされている。それをどうやって、今よりも悪い方向に持っていくのか」
これまで出会ってきた魔王がどいつもこいつも自分勝手で好きなように振る舞っていたので、私は〈椿の海〉の理念など気にしたこともなかった。ただ〈椿の海〉の世界観が、私たちとの対話を不可能にするほどの凶悪極まりないものだという事実だけが、ずっと私の中に重くのしかかっている。
「現世を消滅させるでもなく、自分たちの住みやすい魔国に作り替える。これは大変な事業になるだろう。それを掲げても疑問の目を向けられていないのは、ひとえに〈椿の海〉の魔王たちが君たちとは比較にならない力を持っているからだろう。〈椿の海〉はその強大な力を、隠れ蓑に使っている――と考えることもできる」
「あの」
耐えきれなくなったのか、百舌がはっきりと声を上げる。
「山本五郎左衛門。あなたのような存在が、ここまで人間の関係に立ち入ってくることは、こちらとしても想定していなかった。なにか考えがあってのことだとは思うが、さすがに一線を越えてはいないかと不安になってくるんでね」
「ふ。たしなめられてしまったか。それも致し方あるまい。なに、私の目的は最初から変わってはいない。彼女から〝魔王の小槌〟を引き取りに来ただけだ」
「ではなぜ――」
「〈椿の海〉の人間は、自身らを魔王と呼称する。ならば魔王であるところの私が介入しても文句はあるまい。さて、菊花。君から〝魔王の小槌〟を取り上げるのは、なにも私の意地悪というわけでもない。そして今すぐに返してもらおうというわけでもない。〈椿の海〉が現世を魔国に変えるためになにを行うか。それをおおよそ察したうえで、私は君に命ずる」
湯呑みを煽り、急須もろとも懐にしまい込んだ山本は、真っ直ぐに菊花を見つめた。
「魑解の先――
異界異世界E世界 久佐馬野景 @nokagekusaba
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